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『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』

明代に成立したという『春秋列国志伝』について調べてました。で、

『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』
徳田武 編・解説  ゆまに書房  1983

なる本を見つけました。その解説に、『春秋列国志伝』について書いてあったので、それをまとめてみます。


解説で引用されている孫階第の『中国通俗小説書目』巻二清講史部によれば、『春秋列国志伝』は大別して二種類あるらしい。

1.『新刊京本春秋五覇七雄全像 列国志伝』 八巻本
▼明・万暦丙午(34年)、三台館の余象斗の重刊本
▼各巻に「後学畏斎余邵魚編集」「書林文台余象斗評釈」と題す
▼名古屋の蓬左文庫が所蔵

2.『新鐫陳眉公先生批評 春秋列国志伝』 十二巻本
(以下『春秋列国志伝』と表記します)
▼明・万暦年間の刊行
▼各巻に「雲間陳継儒重校」「姑蘇キョウ[龍+共]紹山梓行」と題す
▼国立公文書館内閣文庫・北京図書館などが所蔵
ちなみに、内閣文庫の版本と北京図書館の版本は、同系統の版本であるが体裁が異なっており、朱篁なる人物の序文が北京図書館本の方にはついている。なお、北京図書館本は、万暦乙卯(43年)の刊行であるらしい。

双方、殷の紂王から秦の始皇帝までの約900年間を取り扱ったもののようです。内容がいろいろと異なっているらしい。


*   *   *


ちなみに、ゆまに書房から刊行されている、私が参照したこの本自体については以下の通り。

底本にしているのは、内閣文庫所蔵の『春秋列国志伝』十二巻本。これを影印して掲載しています。
内閣文庫本について、解説にて孫階第の『日本東京所見中国小説書目』(巻三・明清部二)を引用しており、それによればこの内閣本は、
・各巻の前に図五葉(10枚の挿絵。一葉は2ページ)がある
・最初には陳眉公の序と「列国源流総論」がある
・毎則(各章)の後には批評、毎巻の後には総批がついていて、これらの批評は行書で書かれている
・北京図書館本には万暦乙卯の朱篁の序があるが、内閣本にはない
・北京図書館本と同系統だが、北京図書館本が半葉(1ページ)11行であるのに対し、内閣本は半葉10行となっていて、版が異なる

…と、そんなところになるかと思います。


内閣文庫所蔵本の影印とともに、早稲田大学出版部刊行の『通俗廿一史』(第一・二巻)の日本語訳を掲載しています。この『通俗廿一史』は、江戸時代に清地以立(きよちいりつ)が翻訳した『通俗列国志』前・後篇を活字にしたもの。

清地以立(1663~1729)は、江戸時代の人。彼が翻訳・上梓した『通俗列国志』はどんな版本に基づいて訳してあるのかは明記してありませんが、解説によれば『春秋列国志伝』十二巻本の系統の本を底本にしたと推察されるとのこと。内閣本と同じ系統ということですね。

『通俗列国志』は、二度に分けて刊行されているとのこと。
原書『春秋列国志伝』の巻1~6の部分の訳は、『通俗列国志』25巻(題簽は「通俗周武王軍談」)として宝永元年(1704)に、巻7~12の部分の訳は、『通俗列国志呉越軍談』18巻として元禄16年(1703)に刊行されている。つまり、後半部分の方が先に世に出ているという不思議がある。

『通俗列国志』は、底本である『春秋列国志伝』を比較的忠実に訳しているようですが、部分的に加筆・修正・削除を加えているようです。それは読者のためであったり、訳者の信条から恣意的に改編したりと、いくつかの要因が考えられるようです。


*   *   *


書誌的なことはここまでにして、ゆまに書房刊の『春秋列国志伝』の方を見てみた自分の感想を…とはいえ、興味がある部分(主に鞍の戦いと鄢陵の戦いの場面)しか見てないので、これしきで感想らしき感想も書けないのですが; とりあえず見た感じをば。

春秋時代や戦国時代を扱っているので、『左伝』や『戦国策』、『史記』などの記述を多少いじっただけかと思ってページを繰っていたのですが、それどころではない史実の改変ぶりです(笑)。鞍の戦いでは、郤克が大負傷した後も暴れまわって敵を寄せ付けない強さを誇り、斉の逢丑甫(=逢丑父)を一撃で討ち取ったり(笑)、エン陵の戦いでは楚の養由基が苗賁皇の策に嵌って射殺されたりといろいろ滅茶苦茶。史書との違いを挙げ始めるときりがありません。正直噴飯ものですが、そのハチャメチャぶりには、いっそのこと面白さすら感じます。多分、他の場面もかなり史実とは異なる内容になっていると思われます。

本文上部には多少のコメントが入っており(こういうのを「眉批」と言うらしい)、本文の中にも時々小さい字で注が入ってます(割注ではなく、一行の注)。人名や地名の後によく入ってる気がします。たとえば「楚共王[焉+邑]陵大戦」という章では、苗賁皇が登場した後、彼の名の後に「越椒之子」という注が入ってます。人名や地名の後の注は、当たっていたり外れていたりで、必ずしも信用できるものではありません。郤錡に対しての注には「郤克之弟」なんて書いてありましたし(本当は郤克の子)。


…と、『春秋列国志伝』の書誌情報と簡易感想はとりあえずこんなところで。
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by huangque | 2005-12-22 03:32 | 本めも

『おれは権現』

『おれは権現』 司馬遼太郎 講談社文庫 2005年(新装版)



戦国時代という荒れた時代に名を現した個性的な人物たちの短編集。全7編が収まってます。各編の主人公と梗概を以下に…


■愛染明王
福島正則が主人公。
桶屋の倅だった彼が橋の上で人を殺したのをきっかけに武士にならんことを志し、秀吉に仕えて武功を重ねていく。関ヶ原の戦いの前の小山会議では豊臣家の武将が徳川に附く決定的な役割を果た(すように仕向けられ)し、関ヶ原では東軍一の奮戦をして見せる。しかし、単純にして勁烈な性格を徳川方に存分に利用された後は、城普請を無断で行ったと幕府から言いがかりをつけられ、不遇の晩年を過ごす、というお話。
正則の性格の単純さは、時に鬱陶しさも感じるのですが、心の根底には優しさを持っていて、時に大げさなほどに人に好意を示すところなどには親近感が持てます。水滸伝で言えば黒旋風の李逵タイプだと思います…李逵よりヒドイこともしてますが(汗)。いい意味でも悪い意味でも単純すぎる人間の、不幸が感じられる一編。


■おれは権現
関ヶ原では福島正則の配下として武功を挙げた伝説的な武勇の持ち主である「笹の才蔵」こと可児才蔵のお話。
妾のお茂代が、才蔵が全く子を生さんとしないので、その原因を探っていく…というのが大筋になりますでしょうか…。その中で、才蔵はもともと酷く臆病だったこと、出来助という山伏に出会ったのがきっかけで豪勇に生まれ変わったことなどが分かってきます。子を生そうとしない原因も、彼のその過去の中にあります。
主人公は才蔵ですが、妾のお茂代も副主人公と言えるくらいに目立ってます。彼女の生涯の顛末にも含みがあります。


■助兵衛(すけのびょうえ)物語
宇喜多家家臣・花房助兵衛が主人公。
この話を読むと、宇喜多家の家老たちって本当にアクが強いな…というのが分かります…。秀家がどうすることもできなかったのも、秀吉没後に起きた例の宇喜多騒動(家臣が戸川派・長船派に分裂して対立した事件)で大谷吉継や榊原康政が仲介に入ってもなかなか片付かなかったのも、宜なるかな…という感じ。ちなみに助兵衛は宇喜多騒動に於いては戸川派で、秀家がかばっている長船派と決裂して、結局宇喜多家中を去って家康に属してます。
助兵衛は、主の秀家は言うまでもなく、秀吉にすら不遜な態度を見せる男だった。が、戦場に立てば功名心に燃え、その行動力は甚だしいものだった。その武功狂いの例として朝鮮出兵のときのエピソードが引かれ、剛直すぎて周囲の雰囲気を読めずに損するところも描かれてます。その点、正則に似ているかもしれません。
彼が求めるのは武功ばかりで女性に興味がなさそうなのに、女性の小指の骨らしきものを大事に懐に仕舞っていて、それをたまたま拾った吉備之助という巫女がその由来を明らかにしようとします。が、結局そこのところは謎のまま。


■覚兵衛物語
加藤清正の家臣・飯田覚兵衛の話。
加藤家家臣の覚兵衛と森本儀太夫とがまだ8つの子供だったころ、子供の喧嘩のなりゆきで、夜叉若という遊び仲間に仕えると誓いを立てた。この夜叉若が後の加藤清正で、清正が知行地を得ると、覚兵衛と儀太夫は本当に清正に仕えることになる。しかし覚兵衛は詩文を習ってはなはだこれを好んでおり、武勇で身を立てたいなどとは思っておらず、いつも武士を罷めたいと思っていた。しかし、覚兵衛自身の優れた用兵の才と武辺とが清正の要する所となり、覚兵衛はその才能によって「不幸にも」武士として清正に仕え続けることになってしまう。
「清正のせいで一生を誤った」と言い、本意ならずも加藤家の柱石となった覚兵衛ですが、本当に加藤家に未練がないかというとそうでもなく…。自分が成し遂げてきた事業と、昔からの理想、どちらが晩年の彼にとって重いものだったのか…。


■若江堤の霧
大坂の陣で戦死した若武者・木村重成のお話。
嘗て織田・柴田・宇喜多に仕えて転戦し、関ヶ原の戦いの後は隠居して連歌を教えていた薬師寺閑斎は、大坂方主力と期待されている木村重成の助言役を頼まれる。閑斎は重成をよく知らなかったが、妾に聞くと、大坂のおなごであれば重成を知らぬ者はいないという。実際会ってみると、確かに容姿涼やかな青年であるが、礼儀正しく、詩文や兵書にも親しみがあり己を知っている。閑斎も、彼には将器があると感心する。その若さには不釣り合いなほどの胆力を持ち、死後はその劇的な生涯から人々の記憶に残り続けた青年にとっての大坂の陣が描かれてます。
この話の前半には、重成の名しか出ておらず、彼が登場するのは中盤から。大坂の陣で閃光のごとくはかなく鮮烈に散った青年を、淡々と、しかし彼の性格の要点を抑えつつ描いている印象です。


■信九郎物語
長曾我部元親の庶子にして、盛親の異母弟である信九郎康豊のお話。
幼い頃、母に連れられて摂津の村落に来て、農家の子として育った。その元服の際に、自分が長曾我部元親の子であることを初めて教えられる。その後もしばらく、長曾我部の血を引くことを隠したまま村で暮らしていたが、母と祖父が自分を出家させようとしていることを知り、いっそ武士となろうと志すようになる。牢人が集まるという近くのほろほろ(虚無僧)の寺で、関ヶ原の戦いでは西軍大谷隊で小部隊も率いた野添勘兵衛という老僧と懇意になり、兵法や武芸を身につける。後、信九郎の存在を知った大野治長の使者が、家康との決戦のために彼の出馬を請いに来た。信九郎は、勘兵衛ら数人の牢人を引き連れて大坂城に入り、生き別れた兄・盛親との再会を果たす。敗北必至の戦いで、各々が各々の信念を持って進退を決めていきます。
信九郎の生き様は、兄に出会うところまではほとんど義経と同じ。大坂城に入った後の彼ら主従もまた義経にそっくりです。重成のような死者の数奇もありますが、生き残った者の数奇をここに見ることができます。


■けろりの道頓
かの有名な「道頓堀」を掘った安井道頓の話。その生涯についての記録はほとんど残っていないそうで、このお話も司馬さんの創作部分が多いのでしょうか…。詳しくないのでそこのところは分かりません。
道頓はふしぎな人物で、顔つきは英傑然としているのに、いつもぼーっとしていて何を考えているのかよく分からない。従弟の道卜が見るに、志さえ持っていれば天下を取れるのではないかと思えるほどの器を持ち合わせているのに、全く欲がなく大身の百姓という立場で満足し、街で秀吉に話しかけられただけでもはしゃいでしまう。また、何事に対してもけろりと無頓着のようで、手塩にかけて育てた妾を秀吉に所望されたときも、一度顔をしかめただけで献上してしまう。愚直ともいえる人の良さを持ち、街で声をかけてくれた秀吉に対して、百姓の立場から無償の忠義を貫いた市井の人の話です。
器が小さいのに志ばかりが大きくて、結果的に身を滅ぼす人物は古来少なくないですが、その逆で、器が大きいのに欲を持たずに自らの立場に満足したのが道頓でしょうか。


取り上げられた人物たちは、平穏な世であれば、馬鹿にされたり爪弾きにされるようなあくの強い人物たちが多いです。戦国という波乱の時代が、彼らの名を今に残したといえるんじゃないでしょうか。
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by huangque | 2005-12-22 03:31 | 本めも

「大谷刑部」「茶漬三略」

「大谷刑部」/「茶漬三略」  吉川英治



吉川さんに大谷さんを扱った短編があると聞き、図書館で全集を借りてきました。
戦国の有名人が多数登場する短編は、とりあえず上記の二編を見つけました。
文庫でしたら、ともに講談社の吉川英治歴史時代文庫の『柳生月影抄』に入っているようです。



■「大谷刑部」

言うまでもなく、大谷吉継が主役。家康が会津の上杉討伐に向かったあたりから、関ヶ原の戦いまでを、吉継中心に描いています。上杉討伐にむけて諸将がバタバタと兵を会津に向ける中、吉継の乳母の娘(創作の人物と思われます)が登場し、吉継が好きだった菓子を、垂井に宿営する彼に届ける場面から話が始まります。

吉継の癩病の症状の描写が細かいです。乳母の娘は、彼女の目を通して吉継の病状を描写するためにに登場しているような印象を受けました。癩病の症状がいかなるものなのか知らないのですが、この描写を見ていると背筋が寒くなります…。でもそれ故に、そんな病状にも関わらず隔意なく接する三成の優しさがより強くなるような気がします。

三成の子を引き取るため垂井に宿営する吉継のもとに、三成の使者が訪ねてくる。使者は三成の子は連れず、大事な話があるからと、三成の居城・佐和山城への来訪を求める。三成は吉継を迎えると、その病状の悪化に心を痛めつつも、家康討伐の大挙を打ち明け、吉継の参画を求める。吉継は三成の計画を無謀だと諫めるが、三成に勧められた茶の香りに、過去に茶会でしでかしてしまった自分の大失態を三成がかばってくれたことを思い出して、三成と生死を共にする覚悟を固める。ここの佐和山での三成とのやりとりが、この一編のメインになるかと思います。
関ヶ原の戦いでは、結局小早川秀秋の裏切りで大谷隊は壊滅、吉継の最期で話の幕は閉じます。関ヶ原の戦いの描写の方はけっこうあっさりしてます。

感想は…やっぱり三成は馬鹿正直で、刑部は義理堅いいい友だなぁ、と言う感じ。自分の安っぽい感想ではそんなことしか言えなくてすみません…; 吉継が病に冒される前の姿を知っているが故に、佐和山で久しぶりに出会った吉継に、もう目も見えずお前の笑う顔も見られぬ、と言われて愕然とする三成に、優しさが感じられてよいです。

あと、話の筋とは関係ないのですが…関ヶ原の戦いの最中、西軍に与して動くよう秀秋に使者を送る武将の中に、小早川隆景の名前があったのですが…たぶん小西行長と間違ったんですよね…ちょっとびっくりした。でも、巷説の中には、そういう伝承もあるのかも…と思ったりするのですがどうなんでしょう。詳しくないので分からんです;
あと、宇喜多さんの名前の表記は「浮田」の方になってました。チョイ役で左近も出てきます。ほんとにチョイです…。関ヶ原に参戦する西軍・東軍諸将の名もちらほら。


■茶漬三略

主人公は柾木孫平治という男。羽柴秀吉・明智光秀が登場する短編です。
孫平治の視点からほぼ全編が語られてます。孫平治が牢獄の中で猿(後の秀吉)に会って悪事から足を洗い、美濃の斎藤家の骨肉の争い、はたまた主と仰いでいた光秀の裏切りを目にし、その悪行に耐えきれなくなって、ついに猿――つまり羽柴秀吉に必死の思いで身を投じるのが話の骨子でしょうか…。歴史上のできごとでいえば、秀吉が毛利方の清水宗治の自刃を条件に毛利と和議を結び、大返しをして姫路城に入り、これから光秀を討つ、というところで終わってます。
孫平治という男の視点で、秀吉の性格の健康さを描いている、という感じの一編でしょうか。
チョイ役で、細川藤孝(幽斎)や安国寺恵瓊も顔を出します。



吉川さんの本は大好きなのです。歴史に強い興味を持つようになったのは吉川さんの『新・平家物語』がきっかけだし、三国志に足を踏み入れたのも、吉川さんの『三国志』が最初のきっかけだし…。しかし、まさか今になってもこんなにどっぷり三国志にはまることになろうとは思ってませんでした(笑)。短編は今まで読んだことがなくてちょっと新鮮でした。個人的には…長編の方が好きかも(コラ)。吉川さんの描く関ヶ原も見てみたかったな、と…。
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by huangque | 2005-12-22 03:30 | 本めも

『墨攻』

『墨攻』 酒見賢一


主人公は、墨家の革離。趙の侵攻にさらされた梁という小城を「墨守」すべく、墨家の指導者(「巨子」(くし)と呼ばれる)の田襄子に派遣されてきた。
この革離が、城内の民を指導し、巷淹中将軍率いる趙の2万の大軍と戦うというのがあらすじ。

この革離の守り方がとにかくすごい。10倍以上の兵力を持つ趙軍を寄せつけず、女子供老人を含めた民数千人で迎撃するという…。
ただ、この革離の守り方…というか、民の統率の仕方が…なんだかものすごく違和感…。
墨家というと、「兼愛」を唱えてるのですが、あの革離の統率には「兼愛」という人間への情がないというか…まるで兵家か法家のような信賞必罰…。きまりを破ったものは容赦なく斬るし、革離自身もみずから手を下して人を殺す場面もあるし…これが「兼愛」…? 革離自身も、これを指摘されて答えられなかったし…。
革離の敵である梁適・巷淹中の革離(というか墨家)批判に、時々納得してしまうのです。墨家はこの世から滅した方がいい、とか…私もなんとなくそう思ってしまった。

「非攻」主義ゆえ攻めずに守り、攻めをほしいままにする大国から、攻め込まれる小国を守るんだけど…小国を「墨守」するたびに、城中の兵力を底まで消耗し、敵兵を多数殺傷し、しかも城の民衆に墨家の神がかった守城術を見せ付けて心を掴む。
小国を守り続けるから、天下が統一されて泰平が訪れることもない。またそれを墨家は望んでいるのかもしれない…城を守る機会がなければ、墨家は力を表現できないんだから。こうしていけば、墨家が天下を掴むのも夢の中の話ではないのかも…小説の中でも、田巨子はそんなことを考えていたようだし。

この頃の墨家の思想は、始祖である墨子のものとは換骨奪胎してるような感じがしました…墨家の思想についてたいして知らない奴が言えた台詞ではないのですが。でも革離のしてることは「非攻」でも「兼愛」でもない。守ることで敵を殺し、味方の心を掌握する、タイトル通りの「墨攻」だと思った。
確かに、身を粉にして働き、その姿を人々から尊敬されている革離はすごい人だと思うのです。ただ、その思想がなにか違うな…という感じがしました。

以上、個人的な感想。
あと、この小説の中で「魏が、趙の都市・邯鄲を包囲する」という話がありますが、史記の趙世家・魏世家によると、BC354にそんなことが実際あったようです。この時、斉の孫ピン(孫子)が「囲魏救趙」の計を使って、魏の包囲を解いたんでしたっけ…(うろ覚え)。でも、それくらいの時期の話だと想定してよさそうな気がします。
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by huangque | 2005-12-22 03:29 | 本めも

『春秋名臣列伝』メモ・その3

春秋名臣列伝メモ、ラスト5人です。だんだんメモが長くなっていく…;;



■晏嬰■
管仲の後に出た斉の名宰相・晏子。諸葛亮が作ったといわれる「梁甫吟」が晏嬰を詠ったものなので、三国スキーさんは知ってらっしゃるかと。生前から吝嗇家として知られていて、父の晏弱を葬るにしても礼の規定以下の規模だった。故に、礼容を重んずる孔子からその点で批判を受けた。礼容を守るか、現実に即して倹約するかで、孔子と晏嬰の考えは逆だったかも。孔子が斉を訪れた際も晏嬰は、外の飾りを立派にする孔子は斉の政治には不要だと退けている。が、孔子の弟子・曾子は、「恭敬の心があった晏子は礼を知るといえよう」「国が奢っているときに君子は倹約を示すのだ」と言って肯定した。また福祉を奨励し、主の景公は晏嬰の考えを受けて、身寄りのない者を国で養った。晏嬰が死ぬと景公に直言する者はいなくなり、お追従ばかりを聞く景公は嘆いた。

▼斉の景公
霊公の子。兄の荘公の後に君主となる。斉に来た孔子を召抱えようとしたが、晏嬰が反論したので登用しなかった。晏嬰の補佐を受け、社会福祉政策を行った。
▼陳乞
陳無宇の子。景公の死後、後継者問題に乗じて斉の有力者を屠った人。強力だった国氏・高氏と他の大夫たちを反目させ、二氏を斉から追い出した。陳乞の子が陳恒(田常)で、彼が斉を簒奪する。



■季札■
呉の賢人。呉王・寿夢の末子。寿夢は君主に立てたがったが季札が頑なに断ったので、結局長男の諸樊が呉王を継いだ。兄たちは順に王となり、最終的に季札に位を譲ろうとしていたが、呉が外交関係を温める必要に迫られると、季札が使者となって中原諸国を訪問した。魯では、題名の分からぬ歌を聴いて的確な感想を述べ、晋では趙武・韓起・魏舒に会って「晋はこの三族のものとなりましょう」と予言した。徐という国に立ち寄ると、徐の君が季札の剣に目をとめた。後に徐に立ち寄ると、徐君はもう逝去していた。季札は徐君が剣を欲していたのを察しており、その墓の木に宝剣を掛けていった。ある人が不思議がると、「私はこれを徐君に差し上げようと思っていた、その我が心には背けない」と答えた。呉王夫差の代まで生き続けた。

▼寿夢
呉王。呉の国力を伸ばした明君。
▼諸樊
寿夢の長子。楚との戦いで戦死。季札にまで王位を伝えるよう言い残していた。
▼餘祭
寿夢の次子。兄の遺言に従い、季札を延陵に封じた。越の捕虜に不意を突かれて殺された。
▼句餘(餘昧)
寿夢の三子。楚と越に挟まれた呉が生き残るには中華の諸国との関係が必要と考え、知識豊富な季札を使者として諸国を訪問させた。
▼呉王僚
寿夢の庶子とも、句餘の子とも言われる。句餘の後呉王となった。闔閭の命を受けたセン[魚+専]設諸(=専諸)に暗殺された。
▼屈狐庸
晋の巫臣の子。巫臣が行人(使者)となって呉王寿夢と国交を持った際、軍事顧問として屈狐庸を残して行った。寿夢に気に入られ、宰相にまで上った。
*おまけ:諸国訪問中の季札が一目置いた人たち
 [魯]:叔孫彪
 [斉]:晏嬰
 [鄭]:子産
 [衛]:キョ伯玉・史狗・史鰌・公子荊・公叔発・公子朝
 [晋]:趙武・韓起・魏舒・叔向



■キョ[艸+遽]伯玉■
衛の大夫。名はエン[玉+爰]。衛の良識者の代表格。孫林父が献公を攻めようとしてキョ伯玉の賛意を得ようとしたが、伯玉は「(君主が愚昧だからといって)奸(おか)したところで、今よりよくなることはない」と言って、乱を避けて国外に去った。後に衛に戻り、献公が帰国した際にまた出国した様子だが、また衛に戻ったらしい。孔子とも交流があり、臣下としての進退を称賛された。『淮南子』には、衛の宰相となった伯玉のもとに子貢がやってきて治国の法を訊ねると、「治めないことを旨として治めます」と答えた、という話が残っている。

▼弥子瑕(びしか)
衛の霊公のとき国政を担当していた。
▼史鰌(ししゅう)
衛の大夫。弥子瑕を退けてキョ伯玉を用いるよう霊公に進言したが用いられず、その死に際しても、伯玉を推挙し、弥子瑕を退けて主君を正すことができなかった自分を悔いた。霊公が弔問にきてそれを知ると、伯玉を召し出して弥子瑕を退けた。
▼孫林父
衛の卿。献公と対立し、関係の修復が不能だと判断すると、献公からの使者を殺し、公を衛から追い出した。後、献公が帰国すると、献公を擁護する大夫たちに攻められた。孫林父は、食邑の戚ごと晋に投降した。後、季札が戚を通った時、鐘の音が聞こえた。季札は「主君に対して罪を犯して、恐懼するだけでも足りないのに音楽を奏でるとは」と非難を口にして、戚に泊まらず去った。それを知った孫林父は生涯音楽を聴かなかった。
▼衛の献公
大臣の孫林父と対立しており、さらに彼をばかにするようなことを再三行ったので、ついに攻められて斉に亡命するはめになった。その12年後、衛に戻ることができた。
▼孫カイ[萠+刀](刀=りっとうで…)
孫林父の子。献公に面会した時、献公が師曹に父を馬鹿にする歌(『詩』巧言)を歌わせたので、父にそれを伝えた。これを聞いた孫林父は、もう献公との関係は修復できず、このままでは殺されるに違いないと考え、献公を攻めて衛から追い出した。
▼師曹
衛の楽人。以前献公に300回も鞭打たれたことがあり、それを恨んでいた。献公が孫カイの前で「巧言」を歌わせようとすると、進んでこれを歌い、これがきっかけて孫林父は献公を攻めることを決意した。



■伍子胥■
名は員(うん)。伍奢の子。楚の出身だが、父と兄を楚の平王に殺され、楚に復讐するため呉に仕える。呉の公子光(のちの闔閭)に目をかけられ、闔閭が即位すると楚を攻め、楚を疲れさせると、さらに攻め入って楚の都・郢を陥落させた。仇の平王は既に死んでいたので、その墓を発いて屍に鞭打った。闔閭が死んで夫差が立つと伍子胥は疎んぜられ、最後は自殺させられた。ちなみに斉の王孫氏は伍子胥の子孫。夫差に疎まれた伍子胥は、わが子を斉の鮑氏に託して、伍氏の血胤を保った。

▼伍奢
伍挙の子。太子建の教育係だった。費無極が「伍奢と太子建が叛こうとしている」と平王に讒言したため、平王に問責された。まっすぐな伍奢は、平王の悪事を面と向かって批判した。平王の激怒を買った伍奢は捕らえられ、子の伍尚とともに殺された。
▼伍尚
伍奢の子。伍子胥の兄。奸臣・費無極は、伍奢とその子を皆滅ぼさんと謀り、平王を使って、伍尚・伍子胥兄弟が朝廷に来れば、捕らえた父(伍奢)を赦す、と伝えた。伍尚は弟の伍子胥に向い、自分は出頭して父と共に死ぬが、お前は呉に行って仇を取ってくれ、と言って都に行った。伍奢・伍尚は都で殺害された。
▼楚の平王
名は棄疾。共王の末子。兄の霊王(名は囲)を倒し、また他の兄たち(公子比・公子黒肱)を自殺に追い込んで即位した。費無極を重用し、苛政を布き、また息子の建のために迎えた秦の公女の美しさに目をとめて我が物とするなど、放恣な王であった。
▼太子建
平王が蔡にいた頃、蔡の封人(関守)の娘を愛して生まれた子。費無極を嫌っていたので、彼の計によって反逆の罪を着せられ、父に誅殺されそうになるが、誅殺の命を受けた奮揚という者がこれはおかしいと思い、密かに太子建を逃がした。のち、亡命先の鄭で殺された。
▼費無極
平王の奸臣。自分の敵となりそうな太子建や伍奢を讒言して楚から消した。呉王闔閭が立ったのと同じ年に、楚の令尹・子常に誅殺された。
▼呉王闔閭
名は光。諸樊の子とも句餘(餘昧)の子であるとも言われるが、定説はないらしい。伍子胥が紹介したセン[魚+専]設諸という刺客に呉王僚を殺させ、即位した。伍子胥と孫武を得て補翼とし、ついに仇敵である楚の都を陥落させるに至った。越を攻めた際傷を負い、死去した。
▼申包胥
楚の臣。友の伍子胥が復讐を誓って楚を出る時、伍子胥に向って「お前が楚を滅ぼすなら、私が再興する」と言った。楚都・郢が陥落すると、秦に行って援軍を乞うた。秦の哀公は最初断ったが、申包胥が朝廷の外で七日間哭き続けるので、ついに折れて軍を与えた。申包胥はこれを率いて楚に戻り、呉の主軍を破った。「申」という氏を見ると、申叔時(エン陵の戦いに向かう子反の死を予言した人)を思い出すが、同じ一族か…?
*楚の共王の子の一覧あり



■孫武■
呉の臣。言わずと知れた希代の兵法家・孫子。『左伝』にその名は見えず、『史記』に記述がある人物。生まれは斉で、斉の陳無宇の子・子占が孫氏を名乗ったというが、孫武が彼の子孫か否かは不明。その著作を見た呉王闔閭に気に入られ、闔閭の後宮の女たちを調練してみよと言われると、命令を遵守しない女を容赦なく処刑し、命令を徹底させた。気分を害されたもののその力を認めた闔閭は孫武を用い、孫武は伍子胥とともに闔閭の腹心となって才能を発揮した。が、その業績の詳細は分かっていない。闔閭没後は、史書にその名を見出せなくなる。



…これで、春秋名臣列伝の20人のメモ終わり!
これで少しは春秋の人を覚えられたかな…?(覚えてもすぐ忘れてしまうけど!笑)
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by huangque | 2005-12-22 03:26 | 本めも

『春秋名臣列伝』メモ・その2

では、春秋名臣列伝の続きの5人を…10人分書こうとしたけどかなり長くなりそうなので分けます; ほんと、知らないことだらけでまとめるのに一苦労だ…苦笑。



■巫臣■
楚の人。屈巫ともいう。戦国時代の屈原と同じ屈氏。才覚があり、祭祀・呪術に明るかった。楚が陳に攻め込み、美貌の夏姫を捕らえると、巫臣は夏姫に一目惚れ(?)し、荘王や子反が夏姫を娶りたいと言うのを諦めさせた。荘王が没すると、巫臣は夏姫を伴い、晋の郤至を頼って亡命し、晋では大夫として厚遇された。夏姫に未練がある子反と、以前巫臣に口を挟まれて領地をもらえなかった子重とが、楚に残った巫臣の一族を根絶やしにして報復すると、巫臣は「お前たちを奔走して疲れさせてやる」と、楚の隣の呉に中原の戦法を教え、度々楚に攻め込ませた。その度子反と子重は駆り出された。なお、巫臣と夏姫の間に生まれた娘は、晋の賢人・叔向に嫁ぐ。

▼子反(公子側)
楚の臣。夏姫を娶りたいと言ったが、巫臣に「不祥だ」と言われ諦めた。巫臣が夏姫と出奔すると、騙されたと怒り、同じく巫臣に恨みを持つ子重とともに巫臣の一族を絶やし、その財を分けた。後、巫臣は呉に楚を攻めさせ、子反と子重は戦場を駆けずり回ることになった。なお後に、エン陵での敗戦の責任を取って自害した。
▼夏姫
鄭の穆公の娘(子駟や子国などとは兄弟)。嫁ぐ相手が皆死んだり亡命を余儀なくされる、不幸の美女。子の夏徴舒が陳の霊公を弑したのを咎めて楚が陳に攻め込んだ際、楚に捕われる。楚では連尹襄老に嫁ぐが、彼もまたヒツの戦いで戦死。かねて夏姫に心を寄せていた巫臣によって楚から抜け出し、ともに晋に赴く。



■祁奚■
晋の大夫。祁氏は、晋の献侯(←献公詭諸ではない)から出たとも、隰叔(←士イの項を参照)から出たとも言われる。晋の悼公が立つと中軍の尉となる。三年で引退を申し出ると、後任には仲は悪いがまっすぐな解狐を推挙した。着任前に解狐が死ぬと、今度は自分の子・祁午を推挙した。仇でも憎まず身内でも気兼ねしない人事である(『三国志』呂蒙伝・蒋欽伝に引かれているのがこの逸話)。また、士カイが欒氏を滅ぼした際、晋の賢人・叔向も嫌疑をかけられ捕らえられた。これを噂に聞いた祁奚は、引退の身ながらも士カイを説き伏せ、叔向を解放させた。この時祁奚は叔向に会わなかったし、また叔向も祁奚に謝辞を述べなかった。

▼趙荘姫
晋の卿・趙朔の妻。夫と同族の趙同・趙括が愛人の趙嬰斉を追放してしまったので、それを恨んで同・括を讒して殺してしまった。これにより趙氏は滅亡同然になり、その領地も祁奚に与えられることになったが、韓厥が趙朔の子・趙武に領地を戻すよう進言し、結局趙氏の領地は趙武に戻され、趙氏が復権した。祁奚が韓厥・趙武を恨むそぶりは全くない。
▼羊舌職
祁奚が中軍の尉となった際、その補佐となる。叔向の父。
▼楽王鮒
晋の平公の寵臣で、彼の言うことは皆取り上げられていた。叔向が捕えられると、その赦免を願い出ようかと叔向に声を掛けたが、叔向は拒否して、「私を助けてくれるのは祁大夫(奚)だけだ」と言った。
*晋公室・祁氏の系図あり



■師曠■
晋の楽師。盲人であった(視覚がきかない分聴覚にすぐれるので、楽師は盲目の者が多いらしい←これは宮城谷さんの本には書いてないけど、どこかでそう聞いたような…)。音楽のみならずすぐれた見識をも有していたため、平公の諮問係になっていた。叔向とともに、明君とは言い難い平公を支えた。平公が大きな宮殿(シ祁宮)を建設すると、それを諫め、叔向に讃えられた。

▼晋の平公
名は彪。悼公(周)の子。叔向が彪の教育係となった。娯楽好きであったが、師曠や叔向の補佐で命を全うした。師曠にたびたび諫められたが、師曠を嫌わずに傍に置き続けた。
▼子朱
晋の行人(外交官)。いつも伝えるべき内容を枉げてしまうという理由で、叔向から使者の任を外されていた。子朱が叔向にかみつき、叔向も立ち向かってあやうく刃傷沙汰になりかかると、師曠は二人を非難した。



■子産■
鄭の臣。子国の子。名は僑。当時最高レベルの知識人で、外交にも優れる。父の子国が子駟とともに朝廷で暗殺され、君主の簡公が拘束されると、子産は即座に家内の安全を図った後、兵を整えて朝廷に向い、賊徒が足並みを揃えないうちにこれを攻めて簡公を救い出した。その後は簡公の下で力を振るい、改革を推し進めた。

▼子国
子産の父。穆公の子。名は発。子駟の股肱で司馬を拝命していたが、子駟の専横を憎んだ一派に子駟・子耳ともども殺害された。
▼子駟
子国の兄。穆公の子。名はヒ[馬+非]。鄭の僖公を毒殺し、その子・嘉を立てた(これが簡公)。以後子駟は鄭で力を振るったが、これを憎んだ者たちに殺された。
▼子孔
これまた穆公の子。子駟らの暗殺の黒幕。子駟の死後宰相となったがこれといった功績はなく、罪を疑われるや反旗を翻し、攻め殺された。
▼子キョウ[虫+喬]
子游の子。名はタイ[萬+虫]。子孔が政権を握ると、その次席となり、一貫して晋と結んで外交関係を安定させる。
▼子皮
子罕の孫。子展の子。子展の死後に正卿となる。執政である子産と政治に当たり、全てを子産に委ねて彼の補佐に回ったことは、晏子や孔子に称賛された。子皮が死ぬと、子産は「私はもう終わりだ、私を知るのはあの人だけだった」と痛哭した。子皮の死後、子産は鄭の正卿となった。
▼簡公
鄭の君主。名は嘉。父・僖公が子駟に暗殺されると、わずか5歳で君主となった。忍耐強く政治に当たり、鄭の明君に数えられる。子皮・子産が政治を担当すると彼らに一任してその力を発揮させた。在位36年、41歳で死去。
*鄭の七穆(穆公の子たち)=子良(名は去疾)・子游(偃)・子国(発)・子罕(喜)・子駟(ヒ[馬+非])・子印(舒)・子豊。(岩波『春秋左氏伝』系図より)



■子罕■
宋の司城。平公に仕えた。氏は楽、名は喜。鄭にも、字が子罕・名が喜という人物がいるが、全くの別人(鄭の子罕は、鄭の穆公の子)。「人ごとに其の宝を有つに若かず」の言葉で有名…私も高校の頃漢文の授業で見た(笑)。宋人が宝玉を子罕に献上すると、子罕は受け取らなかった。曰く、「私は貪らないことを宝としている。お互いそれぞれの宝を持っているのが一番だ」と。他にも、
・朝廷で楽轡(がくひ・字は子蕩)が華弱の首を弓で締めたとき、公平な裁きを進言。
・宋で大火事があった時、てきぱきと指示を出して被害を最低限に抑えた。
・皇国父が農耕期なのに民を楼閣建設に当てると子罕は諫めた。民が皇国父を怨嗟し、子罕を慕う歌を歌うのを聞くと、いきなり怠けている民を鞭で打つようになった。訝った人が理由を聞くと、子罕は「小さな国で褒めたりけなしたりすることが禍の元になるのだ」と言った。
・宋の左師である向戌が晋・楚の同盟を成立させて帰国すると、平公に褒賞を求め、60もの邑を授かった。その文書を子罕に見せると、「小国が畏れを忘れていい気になっては滅ぶのみ。賞を授かっては欲深いと思われますぞ」と、その文書の字を削って捨てた。向戌は邑を得られなかったが、「お陰で滅びから免れた」と言った。
・鄭の子皮が民に穀物を施したと聞くと、「善に隣するのはよきことだ」と言い、宋が不作となると官の蔵を開いて民に貸し、証文も取らなかった。これを聞いた晋の叔向は、「鄭の子皮と宋の子罕の家は最後まで残るであろう」と言った。
…などなど、けっこうエピソードに富む人物。



とりあえずここまで。あと5人です…。
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by huangque | 2005-12-22 03:25 | 本めも

『春秋名臣列伝』メモ・その1

宮城谷さんの『春秋名臣列伝』の自分の備忘録的メモ。ほんと自分用で…す……自分がだいたい知ってることは書いてないし、知らないことは無駄にメモってます; そして間違ってたらすみません;;



■石サク■
衛の臣。西周時代、衛の靖伯から石氏は出た。荘公が、嫡子たる公子完ではなく、庶子の公氏州吁を寵愛したので、石サクは、嫡子を立てるよう諫めた。荘公の死後、完が立ち(=桓公)、態度の大きい州吁を朝廷から追い出した。州吁は鄭に逃げ込み、鄭の荘公(寤生)の弟・京城大叔(段)を頼った。が、(具体的な時期は不明だが)州吁は衛に戻り、桓公16年に弑逆を行った。石サクは陳に向い、策を用いて州吁と、州吁に昵懇だったわが子の石厚を陳の都に誘い込んで捕え、処刑した。これが「大義親を滅す」と称される。

▼衛の武公
名は和。荘公の父。「切磋琢磨」(『詩経』衛風・淇奥)する様を讃えられる。
▼荘姜
荘公の正室。その美しさは詩経の「碩人」に詠われる。
▼公子完
桓公。荘公の子。荘公の側室の厲ギ[女+為](の妹の戴ギ)が生み、正室の荘姜が育てた。
*姫姓の国の一覧あり



■祭足■
鄭の臣。左伝によると、祭の人とある(これについて著者の推理がある)。荘公(寤生)の頃から執政で、荘公が弟の京城大叔(段)に大きな邑(京。のちのケイ陽)を与えているのを危険視して諫めた。結局段は乱を起こした(が、未然に動きがばれて失敗した)。また、宋に捕らえられた昭公を解放させた。

▼鄭の荘公
名は寤生。母の武姜に憎まれて育つ。母と弟(段)に殺害を計画されるが、未然に防いだ。その後、それに加担した母を幽閉したが、会いたいという思いが強くなり、潁孝叔という人物の進言で、隧道の中で母に会った。『春秋』の冒頭、「夏五月、鄭伯、段にエン[焉+邑:邑はおおざとへんということで…;]に克つ」とは段との戦いを言う。
▼武姜
武公の后。荘公・京城大叔の母。申の公女。
▼鄭の昭公
名は忽。荘公の子。母は鄧曼。荘公の後位に就くが、宋の差し金で一時退位を余儀なくされ、衛に亡命。のち、厲公が亡命すると祭足に招かれ復位した。
▼鄭の厲公
名は突。母は宋の人。宋人の手引きで、昭公の代わりに立つ。祭足を嫌い、祭足の女婿(雍糾)を使って暗殺させようとするが失敗し、蔡に亡命。のち鄭に戻った様子。
*姜姓の国の一覧あり



■管仲■
言わずと知れた斉の名宰相。名は夷吾。「管鮑の交わり」の故事や、諸葛亮が自らを比したことでも有名。斉の襄公(諸児)が従兄弟の無知に弑され、その無知も殺されると、襄公の弟である小白と公子糾とがその後釜を争った。結局、鮑叔が奉戴する小白が勝って桓公として立ち(ここの経緯がドラマチックよね)、公子糾は殺され、糾を補佐していた管仲は斉に引き渡された。鮑叔は管仲を重用するよう桓公に進言、以後管仲はその手腕を遺憾なく発揮し、桓公を覇者たらしめた。

▼鮑叔
名は牙。姓はジ[女+似]とのこと。小白を守ってキョ[艸+呂]に行き、無知が殺されると公子糾より早く斉に戻って小白を立て、魯軍とともに来た糾を破り、魯に交渉して管仲を斉に来させた。
▼魯の荘公
名は同。魯の桓公と斉の襄公の妹・文姜の間の子。公子糾を保護する。
▼召忽
管仲とともに公子糾を奉戴する。公子糾が最終的に魯で殺されると、それに殉じた。
*ジ[女+似]姓から出た氏族一覧・斉の桓公(小白)周辺の系図あり



■士イ■
晋の臣。隰叔(しゅうしゅく)の子。献公に仕える。献公が、有力者(献公の先祖の桓叔や荘伯から出た血筋)の台頭に頭を悩ませていると、計略を設けて彼らを弱体化させ、献公の力を強めた。また、献公の後継が曖昧になると、献公の嫡子の申生に亡命を勧めた。

▼隰叔
杜の杜伯の子。杜伯が理由なく周の宣王に討たれると、晋に亡命して文侯に仕え、士(司法官)となった。
▼晋の献公
名は詭諸。武公の子。子に申生・重耳(文公)・夷吾(恵公)・奚斉。
*晋の穆侯以降、重耳までの系図あり



■百里奚■
秦の臣。生まれた場所や経歴については諸説あり、宮城谷さんがそれらを突き合わせて百里奚の経歴について考察なさってます(その一つの結論が、「買われた宰相」(『侠骨記』所収の作品)かと)。百里奚が秦の穆公に仕えると、秦の周辺の異民族たちがその徳を慕って秦に従ったという。五枚の羊の皮で秦に買われたという逸話があり、それにちなんで五コ[羊+殳]大夫とも呼ばれる。



■臧孫達■
魯の臣。臧孫達は魯の孝公の孫、僖伯コウ[弓+區]の子。隠公(名は息姑)や桓公(名は允)の従弟、恵公の甥。恵公の頃から重んぜられ、桓公の子・荘公の代まで魯に仕えた。宋の華父督が自らの弑逆を正当化するため、近隣各国に鼎を贈り、桓公はこれを大廟に据えた。臧孫達は、不義の象徴を大廟に置くべきではないと諫めた、結局桓公は聞き入れなかったが、これを聞いた周の内史は、臧孫氏は栄えるであろうと言った。

▼周の宣王
魯の後継ぎ問題に容喙し、魯を混乱に陥れる。この事件以降、宣王は諸侯の信頼を失った。
▼魯の桓公
名は允。隠公の弟。斉の襄公の妹・文姜を娶る。襄公が文姜と姦淫したため、桓公は怒るが、却って襄公の子(彭生)に絞め殺された。子は荘公(同)・慶父・叔牙・季友。慶父は孟孫(仲孫)氏、叔牙は叔孫氏、季友は季孫氏の祖。のち孟孫(仲孫)氏・叔孫氏・季孫氏は「三桓」と称され、君主を凌ぐ力を持つようになる。
*魯の献公~隠公、宋の哀公~殤公の系図あり



■臧孫辰■
臧孫達の孫。彼もまた祖父同様、魯で長きにわたって重きをなし、魯ではその後も名相として名を残す(が、後世の孔子の評価は辛口)。外交センスに長じていた。
*魯の桓公の子孫の系図あり



■狐偃■
晋の臣。重耳の舅にあたる。献公(詭諸)の死後、晋の国内が乱れると、公子の一人・重耳を支えて国外に逃亡した。冷静に時勢を判断し、焦る重耳に対して時に強硬に待つことを求めた。19年にもわたる逃亡生活で重耳とその家臣団を導き、重耳=晋の文公を覇者たらしめた。以後晋は長く天下の主導権を握る。
*狐氏の系図あり



■郤缺■
晋の臣。父は文公(重耳)暗殺を企てた郤ゼイ[艸+内]。父の反乱が失敗に終わると、それに加わった郤缺は逃走し、山奥で妻とともにひっそりと暮らしていた。そこを文公の臣・胥臣に見出され、政権に復帰する。諸侯の信頼を失いかけている趙盾に助言し、また兵法の才にすぐれる士会を秦から取り戻した。

▼郤ゼイ
武辺で献公に愛された郤豹の子。献公の死後、晋の国内が乱れると、夷吾(のちの恵公)に従って秦に逃げた。のち、秦の後押しで夷吾=恵公が即位するとその腹心となり、恵公の死後はその子(懐公)を立てた。重耳が晋に戻ると、屈して重耳に従ったが、逃がした懐公が殺されたと聞いて、ともに恵公に仕えた呂甥と兵を挙げて重耳を討とうとした。が、事前に計画が発覚して失敗、郤ゼイは死に、郤缺は命からがら逃げ延びた。
▼胥臣
臼季ともいう。野に下っていた郤缺を見出して文公に推挙する。その父(郤ゼイ)のために恐ろしい目にあった文公は郤缺の登用をためらうが、胥臣が懇ろに推挙したため、文公は郤缺を下軍の大夫に任命した。




■孫叔敖■
楚の臣。氏はイ[艸+為]、名は艾猟。孫叔敖とは通称とのこと。父は、楚の名軍略家・イ賈。父が闘椒(子越)に攻められて殺されると、楚の荘王から令尹に任ぜられる。内政にその力を発揮した。ヒツ[必+邑]の戦いの論功行賞では、荘王に向って、荒涼とした地を所望した。楚では二代で領地を没収されるのが通例だが、孫叔敖が得たこの地は、その後九代まで所有を許された。

▼イ賈
楚の荘王の愛臣。兵法に長ける。晋(趙盾)が連合軍を組織して、楚の盟下にある鄭に来た際、イ賈は地の利を生かして北林で晋軍を叩き、これを撤退させた。また、若敖(闘)氏の勢力を荘王が憂えると、イ賈はその意向を汲んで令尹の闘般(子揚)の罪状を見つけ出して誅殺した。が、闘般のいとこ・闘椒(子越)がこれに激怒し、イ賈を捕らえて殺した。
▼闘椒
若敖氏。イ賈を殺して荘王に反旗を翻すものの、皐滸という地で返り討ちにされて一族は滅んだ。彼の子は晋に逃げ、のちエン[焉+邑]陵の戦いで楚を破ることになる。その子というのが苗賁皇。
*楚の若敖~荘王あたりの系図あり



…や、やっと10人…(バタリ)。
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by huangque | 2005-12-22 03:24 | 本めも

『春秋名臣列伝』

『春秋名臣列伝』  宮城谷昌光  文春文庫  2008



春秋時代の名臣20人の事績が書いてあります。ちょっとだけでも春秋時代に踏み込んでみた方(てゆか自分/笑)でも「あっ、この名前聞いたことある!」という有名どころが何人もいます。教養としても読んでおいていいと思うし、宮城谷さんの他の作品にも登場した人物が多数いますので、そのフィードバックや裏話的要素としても楽しめると思います。


この本に出てくる20人は…国ごとにまとめてみます。字が出ない…(涙)。

【衛】: 石サク[石+昔]・キョ[艸+遽]伯玉
 (「艸」はくさかんむりということで…)
【鄭】: 祭足・子産
【斉】: 管仲・晏嬰
【晋】: 士イ[艸+為]・狐偃・郤缺(げきけつ)・巫臣・祁奚(きけい)・師曠
【秦】: 百里奚
【魯】: 臧孫達・臧孫辰
【楚】: 孫叔敖・巫臣
【宋】: 子罕(しかん)
【呉】: 季札・伍子胥・孫武

巫臣(屈巫とも言う)の名が楚と晋の二か所に出てくるのは、彼が楚に仕えた後、晋に行ったから。


自分は春秋時代についてはかなりの無知なので分からんことだらけなのですが(汗)、この頃の出来事や言行を記した文献を渉猟した宮城谷さんの推理は、春秋に詳しい方にとっては興味深いんじゃないかと思います。

でも、たいして春秋時代を知らなくても、聞いたことのある話もたくさん出てきました。「大義親を滅す」という言葉は衛の石サクのエピソードだったのか…! この石サクを見ていると、三国時代の呉の全琮とちょっと重なって見える。自分の息子が、正統ではない公子にやたらと接近するとか、さ…。

伍子胥や孫武は、知ってる方も多いのでは。伍子胥は、父兄の仇である楚という国に復讐し、楚の平王の屍を掘り起こして鞭打った…という、いわゆる「死屍に鞭打つ」話で知られてるし、孫武はかの兵法家・孫子のことで、呉王の後宮の女性たちを訓練して披露した話は聞いたことがある方も多いのではと思います。
自分の好きな三国時代にからめて言えば、子産と季札の親密な交わりは、周瑜・魯粛の二人の関係を例えるのに用いられているし、自分と険悪な人物でも客観的に評価して推挙した祁奚の話は、呂蒙伝や蒋欽伝にも引かれてます。

漢字一字一字について細かく調査してらっしゃる宮城谷さんは、漢字を使うにもこだわりがある様子で、敢えて見慣れない漢字を使っていることも多くて、内容は決して簡単ではないと思います。それに、春秋時代の人たちのものの考え方は、慣れてこないとよく理解できないものも多い感じがするので難しく感じます…。でも、ちょっと大変でも漢和辞典を片手に読んでみると、それだけでも勉強になると思います。
それに、系図などもいくつか書いて載せてくれてますので、ちょっとしたおさらいにも使えると思われます、うまく使えば…<うまく使えない奴

春秋時代は、宮城谷さんのおかげでけっこう親しみが持てるようになりました。他にも、春秋時代に近付くのに簡便な本ってないのかな…やっぱりこの時代は難しいので、ガイドっぽいものがないと自分はちょっとつらいのです(涙)。
…紹介らしい紹介ができずにすみません;;

あと、自分の備忘録的に、別に20人の簡単なメモを作ろうと思ってます。
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by huangque | 2005-12-22 03:23 | 本めも

『物語西遊記』

『物語西遊記』  魚返善雄(訳) 社会思想社 1967



古本屋で入手した文庫本。
魚返さんの『水滸伝』の訳が面白いと聞いていたので、『西遊記』の魚返訳を見つけて買ってみました。『西遊記』関連の本は持ってなかったので、ちょうどいいかな、と…。

前書きには、『西遊記』のごく簡単な成立史と、日本・欧米で出た『西遊記』の訳本についての簡単な説明などがある。魚返氏が『西遊記』を訳するに当たってのスタンスは、前書きの「ここに要約された原文は現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量であることを信ずる」という言葉に見える。簡略ではあるが、最低限の内容は盛り込んで訳してあると思う。

魚返訳のいいところは、まず本文を100回に分けているところ。
たぶん、原典に使った『西遊記』のテキストは『西遊真詮』というやつだと思われるのですが(これが一番メジャーな『西遊記』だと、随分前に平凡社の西遊記の解説か何かで読んだんだけど…超うろ覚えですすみません)、それが100回本なのです。その章回をそのまま残してあるのです。
この訳本自体は本当に簡略なのですが、原典『西遊記』の回分けと一致しているので、本書で気になった部分があれば、『西遊記』の全訳から比較的簡単に探し当てて、もっと詳しく知ることができるのです。たとえば本書の「六.二郎の化け方」の悟空と二郎神との化かし合いを詳しく知りたければ、全訳『西遊記』の第六回を見ればいい、という感じ。
簡略でありながら原典との対照もできるので、『西遊記』全体のあらすじが分かるとともに、備忘録的な使い方もできると思います。

もう一点いいところは、何といっても訳が面白い。あの軽妙な訳がたまらんです。古典の逐語訳なんかは、(訳す人にもよるのですが)物によってはものすごく読みづらくて…。この西遊記訳は逐語訳ではなく抄訳ですし、節回しがなんとも言えず面白くて…。サクッと読めます。

ただ…ちょっと訳しすぎかな、という印象もあって(笑)。分かりやすくするために、固有名詞的なものも訳してたり、別の分かりやすい言葉に置き換えてるところがあって…。赤脚大仙を「ハダシ仙人」とか、弼馬温をそのまま「馬屋番」、とか。原典に忠実に訳してある本と見比べるときにちょっと困惑しそうです。が、その点はもともと「現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量」を目指す本書が「必要または十分」から外れると見なした箇所かと思うので、そこまで求める自分が間違ってるかもしれません。

『西遊記』のあらすじを知りたければ、まずこの本を読んでおけばいいと思います。今では古本屋を探さないとないかもしれませんが…。

魚返さんの水滸伝訳も欲しいなぁ…(笑)。
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by huangque | 2005-12-22 03:22 | 本めも

『中国古代の民俗』

『中国古代の民俗』 白川静 講談社学術文庫 1980



一冊は白川さんの本を読んでおかないと…と思い、古本屋で見つけて買いました。
   …む、難しい!!!(笑)
白川さんといえば漢字学なんですが、もともとは『万葉集』も研究してらっしゃったんですよね…ずっと前にテレビで見た気がする。日本の古代歌謡である万葉と、中国の古代歌謡である『詩経』を比較しつつ論が展開します。引用してある『詩経』の文も難しいし、『万葉集』のことばも難しい。時々解釈を入れてくれますが、時々訳も解釈もなくて意味が取れず辟易しまくりです;;

内容は、本の裏表紙に説明してある通り。中国古代の民俗を明らかにするのが本書の目指すところで、その方法として、
・古代文字の構造から古代人の生活や思惟を考察
・古代歌謡としての詩篇(詩経など)の発想と表現手法から生活習俗を考察
・以上から考察できたものを、日本の民俗的事実と対応させつつ比較

以上三つの手法を通し、中国古代の民俗に迫っています。
ちなみに、本書中では、白川さんの前著である『中国古代の文化』に触れて、「これについては『中国古代の文化』で言及したので繰り返さない」と言って説明をスルーすることが幾度となくありますので(涙)、『文化』を読んでから『民俗』を読むのがいいのかもしれません…。ちなみに自分は『文化』は読んでません…。


白川さんの漢字解釈でいちばん印象的なのは、やはり「口」の解釈かと(第三章「言霊の思想」)。「口」を口耳のクチとするのが『説文解字』以来の解釈なのですが、白川さんは多くの甲骨文・金文を渉猟した結果、「口」を「サイ」と読み、祝詞を入れる器である、と新しい解釈を提供しています。

この理解に基づいて、「口(サイ)」が含まれた文字(告・言・吉…)や、「口(サイ)」の中の書物を開けた象形の「曰(エツ)」を含んだ文字(書・旨…)について解釈を加えています。この部分は、謎解きを見ているようで、難しいながらも面白い箇所でした。
たとえば「告」は、祝詞の入った「口(サイ)」の上に神木の枝を表す形象を乗せてサイが樹にかかっている形を表し、神に祝詞の内容を「告」げるさまを表すのだ、とか。


他にも、「詩の六義」(風・雅・頌・比・賦・興)のうち表現技法を言う比・賦・興のうちの興についての解釈も新鮮だったでしょうか。一般に、比=直喩、賦=直叙、興=暗喩 と理解されていますが、これについては諸説紛々らしく、今も昔も議論が絶えないとか。

白川さんの解釈では、「興」の字は「同(=同瑁を指す。酒器のこと)」を両手で捧げ持つ形で、聖所を清め地霊を招くために酒を地に注ぐカン【示+果】鬯(かんちょう)の礼の際、同で酒を注ぐ形。すなわち、「興」とは地霊を呼び起こすことだ、とのこと。詩の六義の一である「興」も、地霊を呼び起こし、その呪的な力を感受するための手法のことで、その地の地形や植生を詠み誉めることにより、その地の地霊の力を得ることができると考えられていたのではないか、とのこと。だと思います…すごく難しくてうまくまとまらぬ…(苦笑)。


他にも、『詩』などの古代歌謡に頻出するモチーフについての考察などは興味深いものでした。…読み通すだけで精一杯だったのでこれ以上まとめるのはしんどいのですが(…)、漢字や中国古代の風習について興味のある方は一読してみてもいいのではないかと思います。すみませんこんなまとめ方で…;;
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by huangque | 2005-12-22 03:21 | 本めも

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


by huangque

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