カテゴリ:三国関連( 51 )

個人的めも

正史をチラ見して気付いた事をメモっておこう…

・歩氏について(歩騭なんかの)
歩騭伝の注に、歩騭の祖先は晋の大夫の揚という人で、歩という地を邑として賜った的なことが書いてあるのですが、これって郤至の祖父(かつ郤シュウの父)に当たる歩揚じゃないのかい…? 晋の大夫だし、揚ちう名だし、歩邑を賜ってるから歩揚という訳だし…。つまり歩騭の歩氏って、郤氏から分かれたんじゃないのかい…?
郤氏は晋で滅ぼされてるので、その子孫がいるのかどうか分からんけど(これが問題だ…;)、郤至の弟の郤毅(歩毅と書かれてる箇所もあったよな)が殺されたとは左伝なんかには書いてないし、もしかすると彼の子孫が歩騭…なんて、妄想したらダメでしょうかっ!?

ちなみに朱然はもともと施氏ですが、施氏っていうと魯にいたよなー。郤シュウ(に要請された声伯)に嫁さんを取られた(…)施孝叔なんていたなー。
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by huangque | 2014-01-29 23:10 | 三国関連

【2009.04.09の日記】


正史三国志(呂蒙伝)で、呂蒙殿が魯粛と論議している時、魯粛の意見を聞いた後に「あなたのご意見は何故穣侯(秦の魏冄(ぎぜん))の主張に沿うものばかりなのでしょう…」とか言っている件で。

この「穣侯の主張」というのがどんな主張なのかがよく分からんところだったのですが、魏冄を蹴落として秦の宰相になった范雎(はんしょ)の意見と対比させてみればなんとなく話が通じる気がしてきた。
范雎は「遠交近攻」論者で、その論を以て秦王(昭襄王)の心を掴み、魏冄に代わって丞相になったらしいのですが(すんません戦国時代はあんまり詳しくないのでけっこうアバウトなのです;)、裏を返せば魏冄は「遠交近攻」の逆、つまりは近い国と仲良くして遠くの国を攻めるというのを基本方針にしていたともいえる。

つまり、「穣侯の主張」というのは、近くと親密にすることで、劉備と結ぶことを指しているのかもしれない。と思った。それだけです(エエッ)。
…っていうか、魏冄は史記に列伝が立ってるんだから(范雎もな)、それを読みなさいという話ですよね…ちゃんと訳本を持ってるのですよ…。でも読むのめんどくs(コラ)

しかし、みやぎたにさんの『戦国名臣列伝』の魏冄がほんまかっこええー
溢れる才覚を持っているのに、それを発揮せずに腰を据えて時が来るのを待つことができるあたりがほんま。先見の明がある人だからこそ待つことができるんだよな…いくら才能があっても、目の前のことばかりに囚われて驀進すれば、そのうち足元を掬われる。先を見据えていないから。

* * *
keyword: 【呂蒙】
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by huangque | 2011-01-01 05:05 | 三国関連

樊城の水攻めの前例

【2009.04.09の日記】


バイト中にみやぎたにさんの『戦国名臣列伝』を読み返している。
(*中国の戦国時代です…ややこしやー)

秦の白起のあたりを読んでいたのですが…白起が楚の副都の鄢(えん)という地を水攻めにしたということが書いてあってですね…その鄢(三国時代だと宜城という地に当たるくさい)という地が樊城にかなり近かったりしてですね…あの辺昔からどんだけ水攻めしやすいんだよ!とか思ったりして…(関羽も樊城を水浸しにしました)。
いずれも漢水(という川)のほとりなので、川の水を引っ張ってくれば水攻めもやりやすいのかもしれないけど、同じような場所で関羽のみならず白起まで水攻めをやっていたと知って、なんだかテンションが上がりました。

ちなみに、白起は夷陵を燃やしてもいるらしい…陸遜より先に白起がやってたのか…(笑)。みやぎたにさんの本によれば、夷陵は楚の陵墓がある土地のようですので、戦略的に火計がしやすかったのか、それとも墓を燃やすという行為に特別な意味があったのかは、私には分かりません。
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by huangque | 2011-01-01 05:00 | 三国関連

【2009.03.19の日記】


前の日記で『三国志平話』の転生譚について書きましたが、これを元ネタにした短編小説もあるようです。
明の馮夢龍という人が書いた『喩世明言』という短編集の中に「鬧陰司司馬貌断獄」というのがあるのですがそれです。

話の筋はだいたい『平話』と同じ流れですが、かなり詳細に書きこまれてます。主人公の名は司馬貌、字は重湘。『平話』の主人公は「司馬仲相」なので、氏が同じ別人のようですが、「仲相」と「重湘」は、中国語で発音すると同じか酷似しているはず。いずれにしろ、彼があの世の裁判を見事にやってのけて、彼が司馬仲達に転生して三国を統一するという話には変わりありません。

が、『平話』では司馬さんに課せられた案件は1つだけだったのに、『喩世~』では4件の案件を裁いてます。したがって、登場人物も増えていて、『平話』では韓信、英布、彭越、劉邦、呂后、蒯通(<この人が諸葛亮に転生する)くらいしか出てこなかったのに、蕭何・樊噲・項羽・項伯・雍歯・紀信…などなど、もっといっぱい楚漢がらみの人たちが出てきて、司馬重湘の裁きを受け、三国時代に転生してます。


*   *   *


【2009.03.22の日記】


『喩世明言』にある「鬧陰司司馬貌断獄」という話が語る転生譚で、楚漢攻防期の誰が、三国時代の誰に転生したかについて。

『三国志平話』にある転生譚では、既に書いた通り、韓信→曹操、彭越→劉備、英布→孫権、劉邦→献帝、呂后→伏皇后、蒯通→諸葛亮 となっており、「鬧陰司~」の方でもこれは共通。しかし、さらに多くの人物が転生することになってます。以下、「鬧陰司~」の転生話のネタバレ。無駄に伏字にしておきます(笑)。

・蕭何→楊脩
(韓信を劉邦に推薦したのを賞して、生まれ変わった後は曹操の下で才覚を発揮して栄耀を得るが、韓信を殺す策を立てたので、韓信の生まれ変わりである曹操に殺されることになったらしい)

・許復→龐統
(許復は、韓信の寿命を占った人らしい。それが外れたので(ただし韓信の悪行によって寿命が縮んだらしいのだが)、韓信と同じ32歳で予期せず死ぬことになるらしい…が、龐統って32歳だったか…? 35だよな…)

・樊噲→張飛
(ぱっと見…?笑  豪快な人といったらこの人、という感じですね)

・項羽→関羽
(安直に名前つながり…笑。もとい、項羽の「羽」は名ではなく字ですが。)

・紀信→趙雲
(紀信って、劉邦の身代わりになって死んだ人でしたっけ…。忠義に死んだのに賞与を受けられなかったので、趙雲に生まれ変わらせて、受けるべきだった誉れを受けさせてくれたんだそうです)

・戚氏→甘夫人
(戚氏は劉邦の妾。美人。それを呂后に妬まれて、言葉に書くのも恐ろしい刑戮を受けるという…あの、人豚の件です…。)

・如意→劉禅
(如意は戚氏の子。劉邦が皇太子にしてくれると言っていたのに、呂后に反故にされた。皇太子になれなかった分、来世で劉禅に転生して、富貴を受けられるようにしたんだそうです)

・丁公→周瑜
(丁公は、もと項羽の将で、劉邦を助けたのだが、劉邦が天下を統一した時に殺されたらしい。全然知らんのですこの人のこと…。項羽に最後まで仕えられなかったので、周瑜となって生まれ変わった後も孫権に最後まで仕えられず、志半ばで死ぬことになるらしい…が、よく分からん理屈だ…(笑))

・項伯・雍歯→顔良・文醜
(ふたりとも項羽に背いたので、項羽の生まれ変わりである関羽に斬られなさい、だそうで)

・楊喜・王エイ・夏広・呂勝・楊武・呂馬童→ベン喜・王植・孔秀・韓福・秦キ・蔡陽
(こいつらも項羽に負い目がある人物たちなので関羽に斬られなさいと…。この6人は、関羽の五関突破の際に殺された人物たち)

で、これを判決した司馬重湘と、その妻である汪氏は、司馬懿とその妻に生まれ変わるということになってます。なんか滅茶苦茶な気もしますが(笑)もし興味がございましたら、『喩世明言』をご覧ください~。お察しかと思いますが、史実ではなく演義が話のベースになっているみたいですね。
…しかし、楚漢攻防期に詳しくなくて、たいした解説をつけられなくてすみません;;
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by huangque | 2011-01-01 04:55 | 三国関連

【2009.03.15の日記】


そういえば、『演義』の元ネタの一つに、元の頃に出版された『三国志平話』という書物があるのですが(こーえーさんから訳が出てますよ/笑)、その冒頭に語られる話によると、三国の三英雄…すなわち曹操・劉備・孫権は、漢の建国に功績があったにも関わらず誅殺された三人の名将の生まれ変わりである、という話があるんですよね。

韓信が曹操、英布(黥布)が孫権、彭越が劉備に生まれ変わって漢を三分し、彼らを殺した劉邦・呂后を献帝とその皇后に生まれ変わらせて報いを受けさせる、という話になっているのです。で、それらを決定した裁判官である司馬仲相という人物を司馬仲達に生まれ変わらせ、この名裁判を嘉して天下を統一させることになった…とかとか。

『演義』は、この荒唐無稽な話をバカバカしいと思ってか採用していないのですが、『平話』にはそんな荒唐無稽すぎる話が残ってるようです。『演義』は、レベルの高い読者の要望に堪えるようにするため、あまりに荒唐無稽な話は切り捨て、史実に基づいて修正を加えていったようです。まあ、『演義』が最も参考にしているのは正史三国志と司馬光の『資治通鑑』・朱熹の『通鑑綱目』(およびそれらの関連書)であって、『平話』ではないので、ある意味それが自然なのかもしれません…。

『演義』の史実化については、金先生の『三国志演義の世界』に詳しかったです(<読了しました)。わたなべよしひろさんの『図解雑学三国志演義』にも、そのあたりの話があると思いますので、お持ちの方はご覧くだされ…。
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by huangque | 2011-01-01 04:50 | 三国関連

孫策の側近たち

【2008.01.28の日記】


阿蒙時代の呂蒙殿、自分を侮辱した役人を斬り殺して逃走したことがあるんですが(笑)、その後出頭して孫策に見出されて策兄の側近になったんですよね。
で、実は周泰(と蒋欽?)も孫策の側近だったことがあるらしく。周泰は後に、権ちゃんに欲しがられて(笑)権ちゃんのところに行っちゃうんですが、もしかすると呂蒙殿と周泰が同時に孫策の側近だった=同僚だった可能性があるってことですよね…。呂蒙殿が孫策の側近になった時期は特定できないので真実は永遠に闇の中なんですが、妄想のネタにはなるかもしれない…(笑)と思ってます。
それにしても。左右に呂蒙殿と周泰と蒋欽を侍らせてるなんて贅沢すぎですよな!

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keyword: 【呂蒙】【孫策】
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by huangque | 2011-01-01 04:05 | 三国関連

呂蒙の命日

【2007.12.01の日記】


219年の12月、関羽が討たれたのですよね。で、同じ月に相次いで呂蒙殿も病没、ということで、12月にこの絵(<サイトのトップに呂蒙を描いて置いたのです)を合わせました。演義(岩波訳)には、呂蒙殿は12月7日に死んだと書いてありました。根拠は不明ですが…。


*   *   *


【2007.12.04の日記】


1日の日記の呂蒙殿が死んだ日について。岩波文庫の訳だと12月7日なんですが、ものによっては日付が書いてない(あるいは違う)ものがあるようです。立間訳や井波訳には、この節はないかも…手元に無いので確認できませんが。
清の毛宗崗と言う人が整理したテキストをもとに訳してる演義(毛本)には、この日付は書いてないと思われます。神田に行って勢いで買ったこの毛さんの演義を見てみたら、日付が書いてなかったので。岩波のほうは、毛さんの演義が出るより前の本(いわゆる嘉靖本)も取り入れて訳してるらしいので、一口に演義といっても、微妙な部分での違いはたくさんあるのです。小難しい話になりまして申し訳ない;

ちなみに、岩波訳では、関羽は10月に斬られたとありますが、これは正史とは異なりますね。関羽が斬られたのは12月。呂蒙が荊州占領への行動を起こしたのが10月です、確か。
それにしても、手元の毛さんの演義には、演義の本文に加えて毛さんのコメントがついてるのですが…呂蒙殿に対してありえんくらいネガティブで萎えます(涙)。分かってるさ、蜀と関羽を大贔屓の演義でのそんな扱いはさっ…うおおん。演義でこんなにコケにされてるから、正史での呂蒙のかっこよさを知る身としては、かえって応援したくなります。これだから呂蒙ファンはやめられんよ!!(笑)


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【2007.12.21の日記】


…あっ、前から語ろうとして忘れてたことを今思い出した!
wikiの呂蒙殿の項をたまたま見てたら、演義での没日が12月17日と書いてあったのです! 岩波訳だと12月7日だけど、17日になってる演義もあるらしい。一体演義もどんだけの種類があるんですかね、ややこしい…(笑)。しかし、7日よりは17日の方が事実に近いと思います。

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keyword: 【呂蒙】
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by huangque | 2011-01-01 03:55 | 三国関連

215年荊州騒動メモ

【2007.09.25の日記】

課題中です…が、ちょっとメモだけ。ほんま自分用です。。。

215年、荊州の帰趨をめぐって孫権・劉備が一触即発の状態になったとき、呂蒙は2万の兵を率いて長沙・零陵・桂陽の三郡を攻略した。
正史呂岱伝を見てみたら、同じ215年、呂岱が同じ三つの郡を攻めたとある。もしかして呂岱は呂蒙に従い、三郡攻略に従ったものか。この頃呂蒙は既に一郡(廬江)の太守を務めるほどになっているから、官爵の上下から言っても、呂岱(中郎将)が呂蒙に従うというのが自然…かな。中郎将の位の高さが分からないけど。

*呂蒙の場合、208年の黄祖討伐で横野中郎将となり、その後偏将軍(208年)になってるので、偏将軍>中郎将、かな。凌統も盪寇中郎将(214年)の後に偏将軍(215年)になってるから、やはり中郎将よりは偏将軍の方が上位だと見ていいんだろうな。
当時、呂蒙は偏将軍という位の上に廬江太守という官を加えられてるから、昭信中郎将だった呂岱よりはやはり上位でしょう。

正史呂蒙伝には、三郡攻略後、零陵を孫皎に任せたとあり、正史呂岱伝には、三郡攻略後は孫権が呂岱を長沙に留めたとあるから、呂蒙は三郡を奪取した際、零陵に孫皎、長沙に呂岱、桂陽に誰か(<オイ)を置いて益陽の魯粛の救援に赴いたんだろう。

以前うちの人物列伝の呂蒙伝を書く時にこれについても調べたけど、正史の中で呂蒙の名前のあるとこを索引で探して調べてたから、呂蒙の名前が出ていない呂岱伝には辿り着かなかったんだよね…時々正史をぱらぱら見てると、そういう遺漏が見つかって面白い。

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keyword: 【荊州】【呂蒙】【呂岱】【孫皎】
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by huangque | 2011-01-01 03:50 | 三国関連

陸凱貴盛

【2007.09.23の日記】

タイトルについてですが。『蒙求』という、中国の歴史上の人物をいろはにしたようなものにある一節。いろはみたい…と言ってもめっちゃ長いんですけど(笑)。
陸凱というのは陸遜と同じ一族で、陸遜の子の代にあたる人物。やはり呉に仕えてます。『世説新語』にこの話があるのですが、それによると。


陸凱が左丞相だったとき、皇帝の孫皓が「あなたの一族で朝廷にある(あった)者は何人いるのか?」と問うと、陸凱は「二人の宰相に5人の侯、将軍が十数人おります」と答えた。
孫皓「盛んなものだなぁ」
陸凱「君主が賢明で臣下が誠忠であるのが、国の盛んというものであり、父が慈しみに満ち子が孝行であるのが、家の盛んというものです。今、政は荒れ、民は疲れ切っており、国が覆るのではないかとばかり恐れております。どうして盛んだなどと申せましょうか」
(以上、だいたいこんな感じだと。)

で、何を言いたいのかというと、陸氏というはこういう、家柄よりも国を重んじる忠の血筋だと思うのですよ。だから、(無双5の設定の)陸家に固執する陸遜というのには違和感があるのです…。ま、最初はこだわってて、後で呂蒙殿なんかに戒められて態度を変えるとかならとてももえ~なのですがね(笑)。

ところで、陸凱の台詞に出てきた「二人の宰相、五人の侯、十数人の将軍」って誰なんでしょうね。宰相は陸遜(丞相)・陸凱(左丞相)だと思うのですが。侯になったのは私が見た範囲では陸遜(江陵侯)・陸凱(嘉興侯)、あと陸凱の弟の陸胤(都亭侯)も入れていいのかな。陸遜の孫、つまり陸抗の子である陸景も毘陵侯に封ぜられてるのですが、陸凱死去後の可能性が高い。将軍は、確かにたくさんいそう…数えきれぬ(笑)。
しかも正史を見る限り、陸氏の人々ってみんな正義感が強くて、悪事を働いた人が見当たらないんですよね…すごい一族だと思いますよ。

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keyword: 【陸凱】【陸遜】【孫皓】
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by huangque | 2011-01-01 03:45 | 三国関連

【2007.06.24の日記】

昨日の日記で触れましたが、南郡・襄陽がいつ誰の手に渡ったかについて。
日記を書いた後、気になって仕方がなくなってしまい、正史をひっくり返して調べてたら夜が明けていたという…珍しく集中してたようで(笑)。
赤壁の戦い(208年)の後、南郡(江陵)は…
○曹仁が南郡(江陵)にいて、周瑜と戦う
○209年、周瑜が曹仁を南郡から追い出し、南郡太守になる
○210年、周瑜没。この年、孫権が劉備に南郡を貸した様子。
江陵にいた魯粛が、長江下流の陸口に移動し、周瑜の後に南郡太守となっていた程普が江夏太守に移ってます。つまり、呉の人が南郡から撤退してるんですよね。江陵には関羽が入った模様。
○219年、南郡太守は麋芳。麋芳は長江を密かに遡行してきた呂蒙に降伏し、南郡は孫権のものに。孫権は呂蒙を南郡太守とする。呂蒙没後は諸葛瑾が南郡太守となっている。

襄陽は、終始魏が押さえていたようです。関羽が210年に襄陽太守になってはいますが、襄陽の地は押さえたことはないと思います。というのも、219年に関羽が荊州から北上したとき、「樊・襄陽」を包囲した、と書いてある記事があるのですよ。もしこの時関羽が襄陽を押さえていたなら、自分の味方のいる城を囲んで攻撃するなんてありえませんからね。また、219年の時点では魏が襄陽を抑えていたが、それ以前に関羽が一時的に襄陽を獲得したことがあるすれば、魏が襄陽を奪還したという記事があって然るべき。ですが、そのような記事も(私の見てみた範囲では)見当たらない…。関羽は襄陽太守という任を与えられたものの、それは名のみのものであったと思いまする。
ちなみに「徐晃伝」によると、関羽が攻め込んできたときに樊城を守っていたのが曹仁、襄陽を守っていたのが呂常という将だそうです。
演義は、関羽が襄陽太守になったという記事を踏まえたのか、209年に周瑜が曹仁と戦っている隙に、関羽が襄陽を占拠した、と書いてありますが、正史の記事を見ると、関羽が襄陽を押さえたというのはありえない話だと思われまする。


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【2007.06.25の日記】

昨日の補足(南郡の件で)。書き忘れたことが…。。。
周瑜が南郡を取ったとき(209年)、南郡のうち長江南岸の地域を早速劉備に貸し出してるようです。劉琦(荊州刺史(牧?)だった劉表の長子)の死後、劉備が荊州牧となり、長江南岸の公安を州都と定めて落ち着いてます。
で、周瑜の没後は親劉備派の魯粛が発言力を持つようになって、南郡全体を劉備に貸したようです。
…調べた本人だけが楽しい話ですみません(笑)。

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keyword: 【南郡】【江陵】【襄陽】【周瑜】
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by huangque | 2011-01-01 03:40 | 三国関連