【2009.12.31の日記】


…あっっ!!
そういえば今月の最初の日記で、司馬氏の由来を書きますね~と言って書いてなかった!!のでここで書きます(お前…)。いろいろ調べようと思ったけど、どう調べていいか分からんところがあったので、分かった範囲で書きます。分からないところは放置です…;

『元和/姓纂』という本で司馬氏の解説を見てみて、ちょっと調べてみると、司馬氏情報の大元は『史記』の太史公自序(巻130)のようです。ここで司馬遷が司馬氏の由来を語ってるのです。

それによると、司馬氏の遠いご先祖は重黎で(というか、重さんと黎さんが別人らしく、司馬氏は黎さんの方の子孫らしい…けどよく分からん<コラ)、尭・舜の頃や夏・商(殷)の頃は、重黎の子孫ってことでいろいろやってたらしい(よく分からんのでアバウト;)。

周の頃は、その子孫の程伯休甫という人が周王室に仕えていて、宣王の頃にそのご本人だか子孫だかが司馬氏になったらしい。恵王・襄王の頃の乱の際に周から逃げて晋に来た。そんで、晋に来てから…士会(隨会)と一緒に秦に亡命して、少梁の地に入ったって書いてあるんですけ…ど…! ここで士会が出てくるなんて思わなかったんですけど…!! 司馬遷のご先祖は士会ファンで、士会と一緒に亡命までしちゃったってことですか! …うおぉ(鼻血)。

ちなみに少梁という地はもともと秦の地でしたが、士会の秦亡命中に秦が何度も晋と戦った際、(左伝の記録上)唯一晋に取られた地であります…つまり、少梁が晋に取られた時、司馬氏はその地と一緒に晋に戻ったんでしょうかのう…。少梁の地がその後どうなったのか分からんので、気になる方はご自分でお調べください…(お前;)。

で、周から晋に行った後の司馬氏は、その後衛とか趙とか秦に分散していったらしいです。今書けるのはそこまでです;
とりあえず、司馬氏が晋の司馬である韓厥とか魏絳の子孫ではないことは分かった…。あと、士会ファンの一族だということも分かった…(ファン…なのか?/笑)。それだけでも十分おなかいっぱいです、ありがとうございます。
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by huangque | 2011-01-01 05:35 | 司馬晋関連

【2006.04.20の日記】


陸遜の孫の陸雲(字は士龍)の面白話行きます。
まともなはずの本読んで図書館で噴きかけるなんてそうそうないよ…。

陸雲の兄の陸機は、祖父陸遜に似て厳格な人だったんですが(陸遜は正史だとほんとうに真面目な人なんです)、その弟の陸雲は、ひとつ妙な癖があって…。

陸雲という人、笑い出すと止まらなくなる癖があったらしい。

兄弟揃って、晋の名望家・張華という人物に会いに行ったときのこと。(張華は、三国志演義の最後のほうで出てきますよね…杜預などと同様、呉討伐積極派の人物。文人としても有名)

この張華、外見を気にするお洒落さんだったようで、ひ、ヒゲにリボンをつけてたらしい(笑)。で、その張華を陸雲が見たとたん、陸雲はいきなり笑い出して(←失礼だな!)、面会が終わるまでずっと笑ってたらしい。ヒゲリボンの張華も張華だけどさ…ちょっと失礼すぎだろ陸雲さんよ…(笑)。くそ真面目な陸機は、隣でどんな顔をしてたのか…。
張華自身は寛大で、陸兄弟の人物を見抜いていい評判を広げてくれたりしてるみたいです。

あと、陸雲が喪服をつけて船に乗っていたとき。
ふと、水面に映った喪服姿の自分を見て笑い病が発症し(えぇ!?)、船から落っこちて溺れかけたらしい…。何が可笑しいんだ! ここまでくると重症です。水面に映った月を掬おうとして落水したとかいう話ならまだかっこいいけどさ…自分の姿見て笑い転げて船から落ちるとか…ありえんだろ…(笑)。
変なきのこでも食べたんじゃないかと勝手に思っておきます。

ま、こんな妙な病気はありましたが、陸雲は兄と同様文才に秀で、また温厚な人柄で思いやりがあり、存命中から陸雲の社が建てられて人々から敬慕されていたようです。
ただ、西晋という混乱の時代に、陸兄弟、張華、そして数日前の日記の甘卓も、非業の死を遂げたようです。この時期、畳の上で死ねた人なんて、一握りしかいないのでは…あんまり詳しくないので分かりませんが。

* * *
keyword: 【陸雲】【陸機】【張華】
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by huangque | 2011-01-01 01:40 | 司馬晋関連

【2006.04.14の日記】


あ、正史話なのですが、甘寧の子孫に関して…
正史三国志には、甘寧には甘瓌(かんかい)という息子がいたことしか書かれてないのですが、晋書という歴史書の方には、甘寧の他の子孫の話があるようで…ほんとかよー? しかも、江南の人々の心を掴む有力者の一人だったらしい…。
晋書の成立が唐代とかなり遅いので、なんだかうさんくさい気もするんですが…。
やっと学校の図書館が使えるようになったので、晋書を見に行って真偽の程を調べてきますー。

*   *   *

【2006.04.16の日記】


さて今日は、おとといの日記でぼやいてた甘寧の子孫(らしい)という甘卓という人物について調べてきました…。


この甘卓という人、三国時代の後の西晋の人物らしいので…晋書を探してみました。…ほ、ほんとにいた!!
以下、甘卓伝の抜粋。(中華書局『晋書』による)

「甘卓字季思、丹楊人、秦丞相茂之後也。曽祖寧、為呉将。祖述、仕呉為尚書。父昌、太子太傅。呉平、卓退居自守。(以下略)」

適当に訳:
甘卓、字は季思、丹楊(=丹陽)の人で、秦(←戦国時代の)の丞相・甘茂の後裔である。曽祖父の甘寧は、呉の将軍だった。祖父の甘述は、呉に仕えて尚書になった。父の甘昌は(呉の)太子太傅となった。呉が平定されると、甘卓は身を引いて隠居していた。(以下略)

ひいおじいちゃんが「甘寧」だって書いてあるマジでーーー!!! これ見て図書館で一人でドキドキしてる自分…(笑)。
てか、この「甘寧」はほんとに濡須口で曹操を驚かせたあの甘寧字興覇のことなんだろうか…と、冷静になって考えてみた。

結論。…この甘卓の曽祖父の「甘寧」は、あの甘寧とはやっぱり別人と考えるのが自然なような気がしてきた…。
根拠は、甘卓の原籍地…。甘卓は丹楊の人、と書いてあるんですが、あの甘寧字興覇の方は巴郡臨江の人…丹楊と臨江、直線距離で1000キロ離れてて場所が全然違う…。

しかも、正史三国志の甘寧伝の記述を追いかけてみるに、甘寧が丹楊に行ったこともないみたいだし…。丹楊にいちばん近いところで濡須口までしか…それでも直線距離で70キロくらい離れてます。
もし甘卓が甘寧の子孫ならば、甘卓は甘寧と同様「巴郡臨江の人」と書かれるべきだと思う…中国では、生まれた土地ではなく先祖の故郷(原籍地)を記述するのが普通のような気がするし…(甘寧自身も、南陽で生まれたけれど先祖が巴郡に住んでたから「巴郡臨江の人」って書かれてるみたいだし…甘寧伝の注(呉書)による)。

甘卓は甘寧の子孫、というのは後世の牽強付会の可能性があると個人的には思います…晋書がどんな書物に依拠して書かれたかにもよりますが…そこのところは無学ゆえ分かりません。
でもやっぱり、正史三国志にも、宋(←晋書が書かれた唐より前の王朝)の裴松之による三国志注にも「甘寧の子孫に甘述/甘昌/甘卓という人物がいる」と書かれてないから、やはり胡散な気がします…。他にも胡散だと思われる点はあるし…。
裴松之が見なかった史書を唐代になって見つけたとでもいうのだろうか…。うーん…。

*   *   *

【2006.11.17の日記】


ずーーっと前、晋の甘卓という人物をここでご紹介したのを覚えてらっしゃる方はいらっさるでしょうか…。
甘卓…先祖に呉の「甘寧」がいる人物でございます。

で、以前私は、甘寧の原籍地が「巴郡臨江」、甘卓の原籍地が「丹陽」と原籍地が違うから、この二人は同族ではないと思う、と言って、「甘卓の先祖は甘寧興覇」説を否定気味にとらえてました。
が…
先日借りてきた『六朝江南の豪族社会』(大川富士夫)をぺらぺら見ていたら、こんな一節が…

「晋代になると、呉代に文人士大夫として著名な北来の士人が南人となって丹陽に土着している。広陵の張闓(ちょうがい)、沛の薛兼、臨江の甘卓などがそれである。」云々。

って…
甘卓って、もともとは臨江…つまりは甘寧と同じ場所の出身だったってことですか…。ってことは、甘卓は、やはり甘寧の子孫と見て間違いないのか…!?
この甘卓って人、呉の士大夫の間ではけっこう名も知れてた人だったみたいなので、まさかあの甘寧の子孫がそんな士大夫じみてるはずがあるかい!と思い込んでたのですが…そ、そうか、そうなのか(何が)。

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keyword: 【甘卓】【甘寧】
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by huangque | 2011-01-01 01:35 | 司馬晋関連

周処三害+二陸

【2005.07.27の日記】


今日は特に書くことがないので、世説新語の「周魴の子が陸遜の孫に人生相談」の話でも紹介。でもうろ覚えなのでかなり胡散臭いです…すみませ…; 興味のある方はどうぞ。



周魴の子、名は周処。乱暴者で、地元の人たちからは虎と蛟(みずち:龍の一種)とともに「三横」(三つの横暴なもの)と称され嫌われていた。
ある日周処は、虎と蛟を退治してくれと頼まれる。で、周処は山に入って虎と格闘、川に潜って蛟を成敗(す、すげーーーこの人…)。これで人々は喜んでくれるだろうと思っていたら、実は人々は、周処と虎・蛟が相討ちになって「三横」全てが死ぬようにと、周処に虎・蛟の退治を依頼したのだった…。

これを知った周処はものすごいショックを受けて、これをきっかけに真人間になろうと励んだ(ショックのあまり暴れまわるのではなくて真人間になろうとするところ、根は真面目な人なんだな)…けれど、周りの人は相変わらず周処を恐れ煙たがっていた…。

周処は思い悩んで、土地の名士である陸機・陸雲兄弟(これが陸遜のお孫さん)に相談しに行った。周処が行くと陸雲しかいなかったが、陸雲は「風聞は気にかけず、志を果たすことを第一となされよ」みたいなことを言い(すみません、このあたり全く覚えてない…)、周処はこれを励みとして勉学もしたりして、最後には晋の将軍になった………というような話です。

この周処、異民族の反乱の鎮圧に行き、そこで戦死したそうです。なんかかっこいいな…。
それと、陸機・陸雲兄弟ですが。二人揃って文才に恵まれて「ニ陸」と称されてましたが、性格は違っていたみたいです。陸機は慷慨の士で割合激しい性格。陸雲は穏やかでいつもにこにこしてたそうです。あ、この辺もうろ覚えですすみません;;

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keyword: 【周処】【陸機】【陸雲】【世説新語】
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by huangque | 2011-01-01 01:00 | 司馬晋関連

洛陽の紙価を高む

【2005.02.09の日記】

今日の中国語の授業、出席者がやたら少なくて、絶対に指名が回ってこないと思ってのにあやうく指名が来そうになってびびった…少ししか予習してなくてヒヤヒヤでした。今日は春節(旧正月)だったのですが関係あるんでしょうかね(多分ない/笑)。あ、そういえばこの中国語のテキストの中に「洛陽紙貴」って熟語があったな…陸遜のお孫さんがちょっとからむ故事(笑)。下にちょっと書いてみますか…お時間と興味のある方はおつきあいくだされ(笑)。


日本だと「洛陽の紙価を高む」といった方が通じがいいんでしょうかね。晋(司馬さんが建国した晋)の左思という人が書いた「三都の賦」という文章が大ヒットし、人々はそれを書き写そうとして、都の紙の値段が高騰したことが由来。この時代印刷なんてないので、みんな手書きで写すんです。なので「洛陽紙貴」というのはベストセラーが出ること、くらいの意味になるんですかね(なぜ疑問)。

三都の賦」の三都は、魏呉蜀三国の都。つまりこの賦は三国についてうたったものなんですな。読んだことがないので詳細は分かりませんが、読んだとしても難解すぎて分からんと思う…(笑)。左思はこれを書くのに十年もの時間を費やしたらしいです。

で、ここで陸遜の孫の陸機が出てくる訳で。この陸機、文学の才能抜群で、実は陸機も三都の賦を書こうとしてたらしいのです。でも左思の賦がかなり素晴らしかったらしく、陸機は「これには勝てん」といってさじを投げたらしいです。
陸機、三国ファンには馴染みが薄いのですが、中国文学の上だとかなりの重要人物らしく、私の漢和辞典だと文学史の中で赤字で書かれてます。でも私はこの時代の文章には無頓着なので、陸機がどうすごいの文を書いたかよく分からんです。「文選」という本に多分彼の文章が入ってると思うので、興味のある方は見てみてくだされ。


あ、あと左思は、三都の賦でも有名だけど、ブサイクでも有名だったらしく、都を歩いてたらおばさんからつばを吐かれたらしいです(笑うに笑えない…)。都の女性はこわいとです…。
この話は『世説新語』(容止編)にある話ですが、同じく世説の中に、左思とは対照的に、女性に取り囲まれた美男子・潘岳の話も載ってます…。潘岳も、陸機と並んで西晋の文壇を代表する文人ですね。

ちなみに『晋書』(巻55・潘岳伝)には、潘岳の対になるブサイクさんは張載という人物になってます。こちらも名のある文人ですね。

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keyword: 【左思】【陸機】【潘岳】【三都賦】
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by huangque | 2011-01-01 00:00 | 司馬晋関連