カテゴリ:春秋関連( 45 )

楚材晋用

今日も自分用の春秋めもです…。

タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。
この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。

ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。

左伝(襄公26年)だと、以下の四人。
①析公
・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命
・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る
(↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い)
②雍子
・父兄に讒言されて晋に亡命
・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける
③巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる
④苗賁皇(子越の子)
・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命
・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る

国語(楚語上)だと、この四人。
①王孫啓(子元の子)
・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命
・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る
②析公
・子儀の乱に際し晋に亡命
・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい
(↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している)
③雍子
・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命
・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る
④巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる

だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は
・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる
・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている
・析公の活躍が、国語では曖昧
…という三点ということになるでしょうか。

鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破ったかは書いてないのです。苗賁皇の名も見えますが、不遜な我が子を追い掛け回すししょーさんを見てコメントしてるだけ…(笑)。
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by huangque | 2014-12-01 23:36 | 春秋関連

春秋時代の暦法

【2012.12.31の日記】

数ヶ月前に天.地.明.察に嵌っていた時に、杜預が左伝に基づいて作った暦についての論文をみてメモを取っておいたのですが、それをアップし忘れていたので今年のうちに…。基本的な事ばかりですが、中国の古い暦に興味をお持ちの方は、下をご覧ください~だいぶゆるいまとめです(>_<);

「杜預の春秋長暦について」という渡邉よしひろ先生の論文のまとめです。
杜預の長暦の概略と、杜預が認識していた暦法の基礎についてのまとめをば。


■『春秋長暦』のこと
杜預が、左伝の「隠公元年より始まる各月の一日の干支を示し、『春秋』と左伝に記載された干支が何月何日に当たるかを計算したもの」。ご存じの方にとっては当り前の事なのですが…『春秋』や左伝では、日付(や年)を十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅卯…)の組み合わせで表してます。例えば、ヒツの戦いがあったのは「六月乙卯」の日、と『春秋』に記してあります。杜預は、この六月の一日の干支を示し、そして六月乙卯の日が何日だったのかを計算した、ということになるでしょうか。
『春秋長暦』は明の頃には既に散逸しており、現在見られるものは『永楽大典』などに基づいて作られた輯本『春秋釈例』に収められているらしいです。


■昔の暦について
戦国時代の四分暦に始まる中国の暦は、どれも「太陰太陽暦」。これは、地球が太陽の周りを一周する周期(一太陽年≒365.2422日)と、月が地球の周りを一周する周期(一朔望月≒29.5305日(平均))とを組み合わせたもの。1朔望月で1年の長さを計算すると、1年≒354.4308日にしかならず、一太陽年と較べると10.8114日短く、だいたい三年経つとそのズレが一朔望月分に達し、季節がズレていってしまうので、季節とのズレを解消するために閏月を入れて調節していたらしい。
※上記の数字は今の天文学が算出したもので、昔の中国ではそこまで正確な値は出てなくて、もすこしアバウトな数で計算してたと思われます。上の数字じゃ、『天.地 明 察』で宣明暦(唐代の暦)より正確な暦として出てくる授時暦よりも、一太陽年の長さが正確なんだもの… 。


■閏月のルール
戦国時代の頃から、「十九年七閏法」という閏月の置き方が確立していたらしい。19年を1章として、その間に7回の閏月を設けるのが「十九年七閏法」。
閏月を設けるタイミングは、太陽年に基づいて定められた「二十四節気」という季節の区分によって決まるらしいです。「二十四節気」は、一太陽年を24等分して設定したもので、冬至・夏至、春分・秋分…とかです。二十四節気には、「中気」と「節気」との別があり、これが交互にやって来ます。

ちなみに二十四節気というのは…(※★=中気、☆=節気)
★冬至/☆小寒/★大寒/☆立春/★雨水/☆啓蟄/
★春分/☆清明/★穀雨/☆立夏/★小満/☆芒種/
★夏至/☆小暑/★大暑/☆立秋/★処暑/☆白露/
★秋分/☆寒露/★霜降/☆立冬/★小雪/☆大雪/
(この論文の中の例では冬至を最初に持ってきてたのでそれに従いました。)

このうちの「中気」が、閏月のカギになるらしいです。
「中気」同士の間隔は、1朔望月より微妙~に長いので、そのうち1朔望月に「中気」を含まない月が生じます。そしたら閏月を置くらしいです。
……算数に弱いので、もう…まとめていて…辛い……<ダメな人。
高校生の頃はバカみたいに数学ができなかったので、数学の先生に「古典ばっかりじゃなくて数学もやってくれよな…ハア(溜息)」と嫌味を言われたことが…ある……(<古典はすごく好きだった)。しかし私が高校生の時に一番時間を費やしたのは間違いなく数学だったんだ…なのにできなかったんだ……ウッ。。。

ちなみに(その2)、十九年七閏法の詳細が、孔穎達の左伝疏(文公元年)に書いてあった…それによると、閏月を置くのは、①章に入って3年目の9月/②6年目の6月/③9年目の3月/④11年目の11月/⑤14年目の8月/⑥17年目の4月/⑦19年目の12月…の7回。だいたい32カ月に1回、閏月を置くらしい。


■大の月・小の月
1朔望月≒29.5305日、つまりだいたい29日半なので、30日の月と29日の月を交互に繰り返していると、暦と月の朔望がだいたい一致します。1ヵ月が30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と言います。
だいたい大の月と小の月の繰り返しで行けますが、0.0305日のズレが毎月生じ、そのうちズレが大きくなってきます。それを調節するために、大の月の後に連続して大の月を置くことがあるようです。これを「連大」と言い、だいたい13カ月~15か月に一度置くらしいです。

細かな数値に違いはあると思いますが、杜預は上記のことをだいたい知っていたらしいです。
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by huangque | 2011-01-01 08:05 | 春秋関連

屈原のなまえめも

【2012.7.2の日記】

某所で巫について語ってらっしゃったのが参考になりましたありがとうございます! 魂相手のお仕事…かっこええなぁ…。「顕を去って幽に就く」という言葉は、白川さんの『中国古代の文化』の「巫祝の伝統」の章のラストあたりにありましたね…どこかに出典があるのかなーと思って念のため中央研究院で楚辞補注含めて検索してみましたがヒットしなかったので、白川さんの言葉だと思います。
『文化』には、屈原の巫としての名が「霊均」だと書いてありましたが、「霊均」ちう名は「離騒」冒頭にあるんですね…屈原が父から「正則」という名と「霊均」という字をつけられた、という文が「離騒」冒頭にある…。注によれば「正則」は「平」、「霊均」は「原」の意味で、自分の名と字を別の語で言い換えたんだ…という解釈がなされているようですが、白川先生はこれを屈原の巫者としての名前と解釈してるっぽいですね……って、いきなりディープなトークになってしまった;; そいえば詩経も楚辞もまともに読んだ事がありませ…n(殴) 手元には簡便な訳書しかないけど、注もついてるのでまずはこれを読んでみよう…。そう思い立って2,3度開いて放置した過去があるなぁ…<コラ;

…あかん、「正則」ちうと無双のあのリーゼントのチンピラのイメージしか出てこない…!!
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by huangque | 2011-01-01 08:00 | 春秋関連

巫って何ぞやー

【2012.6.28の日記】

巫って何なんやーと思って、白川先生の『古代中国の文化』を引っ張り出して少し見てました。ざっと見ただけなので把握し切れてないのですが、要は鬼神・自然神を対象とする呪術者で、歌舞を以て祈るのが巫…らしい(一方、霊魂(特に祖霊?)を対象とし、言葉を以て祈るのが「祝」らしい)。「巫」という字も、袖を持って舞う形らしい。

あと、左伝の中の巫も少しチェックしてみたのですが、巫というのは人の死を予言してばかりいるなぁ…。先日の日記で挙げた桑田の巫・梗陽の巫もそうだし、楚に范の巫の矞似という人もいたんだけど(『左伝』文10)、彼も楚の成王・子玉・子西の横死を予言してた。

巫臣も、もしかして人の死が見える人だったのかなー…というか、そういう設定もアリかなーと思ってます。夏姫が楚に来た後、荘王や子反に対しては夏姫を娶るのはおよしなさいと言ってるのに、夏姫が連尹襄老に嫁ぐ時には別段止めてないんですよね。そしてそれから一年も経たないうちに襄老は邲の戦いで戦死。楚が晋から歴史的大勝を得た戦いでまさかの戦死…。襄老がすぐ死ぬ(=夏姫の配偶者がいなくなる)のが分かってたから、夏姫が襄老に嫁ぐことには口を挟まなかったのかもー…とかなんとなく考えてます。夏姫を連尹襄老に嫁がせたのは荘王ですが、裏には巫臣の口添えがあったりして。

あと、巫臣が夏姫と駆け落ち(…)するために動き出したのも、たぶん荘王の死(宣18=BC591年7月)の一年前くらいからじゃないかなーと思います。巫臣があれこれ工作して夏姫を鄭に寄こすよう鄭から楚に申し入れをさせた際、荘王の下問を受けた巫臣が答えた中に「荀首が新たに中軍の佐となった」という言葉がある。荀首が中軍の佐となったのは、郤克が中軍の将に昇格し中軍の佐の座が空いた後と考えるのが妥当なので、つまり中軍の将だった士会が引退して郤克がその座に座った後、すなわち宣17=BC592年8月以降と考えるべきだろうと思われます。つまり巫臣が荘王の質問に答えたのは、BC592年8月以降だと思われます。工作を行ったのはその少し前。自分の意見によく耳を傾けてくれた荘王が間もなく亡くなるのが分かっていたから、荘王への忠を尽くした後に楚を離れようとした…とmousouするのもアリかしら…。次の王の共王さまは幼くて、荘王没後に権力を握るのは共王の養育係でもある子重・子反の二人に間違いないので、それを嫌ったのかもー。

…と、そんな取りとめのないmousouをしております。

あと、上記の調べ物をしてた際に気付いたのですが…岩波訳の左伝だと連尹襄老が死んだ後に襄老の子である黒要が夏姫と「結ばれた」と書いてあったので、てっきり夏姫が黒要に下げ渡されたのかと思ってたのですが、左伝の原文では「烝」という字が使われてました。「烝」というのは、身分が上の女性に姦通することらしい。つまり黒要は、死んだ親父の嫁を略奪して自分のものにしたってことなのか…なんて奴や…。巫臣が夏姫に「俺の嫁になれ!」とハッキリと言ってるのがその後なので、巫臣は夏姫を黒要から引き離してやりたかったのかもしれん…。
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by huangque | 2011-01-01 07:55 | 春秋関連

巫臣についてちょっとメモ

【2012.6.25の日記】

「巫」というと、桑田の巫(晋景公の死を予言した人)とか梗陽の巫(荀偃の死を予言した人)みたいな、予言者としてのイメージが自分の中にあるのですよね…。でも巫臣の言動を見るに、そういった一面は希薄で、合理的な思考の上に策を立てる策士の色の方が強いのです…いかにも「巫」らしい言動がないのですよね…。
なので、うちの巫臣は「巫」らしい時とそうでない時の両側面を持ってます。大人モードの時は「巫」らしくない策士で、子供モードの時は神職者になります。

…ところですごく今更なのですが、巫臣の名前の構造が分からん…<エエッ。氏は「屈」、名が「臣」、字が「子霊」で、「巫」は職業名ってことでいいんですか…? 『大事表』の系図だと「屈巫臣」って書いてあるんだけど何なんやこれはー。
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by huangque | 2011-01-01 07:50 | 春秋関連

晋厲公・秦康公めも

【2012.2.3の日記】

■厲公の名は「州蒲」じゃなくてもともと「州満」?
会箋を見てたらそんな説があったのでエエッと思ったのですが、自分が見られる範囲の諸説を見るに、「州満」推しの説を唱える人がかなりいる。左伝は厲公の名を「州蒲」と記し、一方史記では厲公の名が「寿曼」となっており、左伝と史記で厲公の名が全く異なっているのです。そこで昔の学者(例:唐の陸.徳.明)は、左伝の伝える厲公の名はもともと「州満」だが、、周の穆王の諱の「満」を忌んで「州蒲」としたのではないかと推理しておるようです。「州満」ならば「寿曼」とも音が近く相通じるようなのです。

■秦の康公について
…お恥ずかしい話ですが自分は左伝を最初から通して読んだことがなく、僖公33年から成公年間くらいしかまともに読んだことがありません…。。。僖公33年以前の記事には必要でない限り目を通していないのです…; 故に、僖公15年に、秦の康公(太子オウ)が出てくることをつい先日まで知らなかったのです…。しかもオカンが穆姫、すなわち晋の献公の娘であることもその時知った始末です…。つまり秦の康公って晋の献公(重耳のオヤジですな)の孫に当たるんですね…。康公は晋の外孫だと杜預が注で言っていたのは見たことがあり気になってはいたのですが、根拠となる記事がどこにあるか分からんかったので放置してたんですよね…そうか、そういうことだったのか…。
僖公15年の段階で、太子のオウすなわち後の秦の康公には弟がいるので、今絵板で描いている士会が晋に誘拐された頃にはいくら若くても30代前半ということになり、あんな少年ではないということになるんですよね…えへへガクッ。でももうあのまま行かせてもらいますっ(>_<)!
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by huangque | 2011-01-01 07:45 | 春秋関連

荀林父と狄についての私見

【2012.1.14の日記】

左伝文公13年に、晋の六卿が狄の賈季か秦の士会を戻って来させっぺーって相談してた時、荀林父さんは賈季を推して結局却下されてるのですが、何故荀林父さんが賈季を推したのか…を少し妄想してみた。

そもそもこの晋六卿会議は秦への対策を講ずるために開かれたものだと思われます。士会が秦に亡命してからというもの、晋はたびたび秦の侵攻に悩まされ、前年に河曲の戦いがあったばかり。文13の春にも詹嘉なる人物を瑕という邑に派して桃林塞なる場所を守らせているが、これは秦への対策であるらしい。つまり当時の晋にとっての悩みの種は秦であって、当時狄は特に晋を困らせていない様子。

だから六卿会議の議題は秦対策すなわち秦にいる士会をどうすっぺという事柄であって、狄はオマケにすぎないと思われます。にも拘らず、狄の賈季を連れ戻しましょうと発言した荀林父さんはぶっちゃけ空気が読めてないのである…(ある意味それが荀林父さんっぽいんですけど…;)。

後の行動を見てみるに、荀林父さんて赤狄対策に人並み以上に力を入れてる人のように見えるのですよね…宣15年に赤狄ロ氏を滅ぼしてるのはもちろん、宣6年にも赤狄への対策を講じているし…。文13年の六卿会議で荀林父さんが賈季を晋に戻そうと言ってるのも、彼個人は秦よりも狄を意識してるからのような気がするのです。目下の問題である秦をスルーしてしまうくらいに狄が気になって仕方ない感じ。賈季を晋に戻そうと言ってるのは、賈季その人自身の力を欲しているのではなく、晋の内情を知りる賈季を赤狄から除くことによって赤狄を弱めようとしているように見えるのです。

後々晋は郤缺も士会も郤克も赤狄を討つなり外交的に攻めたりしているので、そんな赤狄に早くから目をつけているのはある意味先見の明があるとも言えると思うのですが、この時にあってはただ空気読めてない感じになってしまってるのですよね~。

とりとめないけどメモがてら。
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by huangque | 2011-01-01 07:40 | 春秋関連

繞朝さんメモ

【2012.1.12の日記】

以下はメモ的。絵板でちょっと前に出てきた&この後もちょっとだけ出てくる予定の、秦の繞朝の話。
『左伝』では、士会に策を渡した後の繞朝のその後は記されていないのですが、『韓非子』の説.難.篇にある話によると、繞朝はあの後秦で殺されているらしい(原文短いので挙げる(岩波韓非)>(則非知之難也、処知則難也、故)繞朝之言当矣、其為聖人於晋、而為戮於秦也(、此不可不察))。殺された経緯については『韓非子』に明記がないけれど、たぶん『春.秋事.後』というやつにある繞朝の話と同根ですよね…。
『春.秋事.後』については私は読んだことがなくて、H丸さま宅で紹介なさっているのを見ただけなのですが、それによると士会が晋に連れ戻された後、繞朝の賢さを危険とみなして秦にうそ情報を流し、結果康公が繞朝を疑って殺したらしく…。つまり繞朝が殺された原因は士会が作ったものだということで…士会がすげいえげつない…こんな士会斬新すぎる…!
うち設定は左伝準拠で進めていくつもりなので、『韓非子』乃至『事後』のように康公が繞朝を殺すという話はスルーして参ります。ただ、すごくインパクトがあったのでここにメモっておきます。

あ、次の日記では河曲の戦いの後で晋の六卿が賈季と士会のどっちを晋に戻すか相談してるくだりで荀林父が賈季を推した理由についての憶測(…)をメモっておこう。本当に憶測だけどー。
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by huangque | 2011-01-01 07:35 | 春秋関連

前の記事の続きの杜預注トーク

【2011.12.13の日記】

では、前の左伝杜預注の「君無道」話の続きです! 半分自分用メモです。
ぶっちゃけ面白さはミジンコほどもありません…予めご了承ください。


さて、弑殺事件のうち君主が悪いという「称君」の例は、春秋左氏伝の中に七例あると『儒教と中国』に書いてあります。具体例は本文中で挙げてありませんが、そこを勝手に掘り下げます。

有難いことに、『春秋大事表』(春秋乱賊表/巻45)に弑逆事件のリストがございまして、ここにその七例が挙げてありました。『左.氏.会.箋』にもその七例が挙げてありましたが。
では、その七例をここに杜預注(以下「杜注」)つきで挙げてみたいと思います。『大事表』は七例をさらに二つに分けてますので、『大事表』に従って経文をリストアップしてみまする。

【称国以弑者】
■文公18年:「莒弑其君庶其。」(紀公)
  杜注「称君、君無道也。」
■成公18年:「晋弑其君州蒲。」(厲公)
  杜注「不称臣、君無道。」
■昭公27年:「呉弑其君僚。」
  杜注「僚亟戦、民罷。(略)称国以弑、罪在僚。」
■定公13年:「薛弑其君比。」
  杜注「称君、君無道也。」

【称人以弑者】
■文公16年:「宋人弑其君杵臼。」(昭公)
  杜注「称君、君無道也。例在宣四年也。」
■文公18年:「斉人弑其君商人。」(懿公)
  杜注「不称盗、罪商人。」
■襄公31年:「莒人弑其君密州。」
  杜注「不称弑者主名、君無道也。」

以上が「君無道」の七例です。訓読は所々自信がないのでつけてませんが(コラ)杜預が「君無道」と注をつけまくってることがお分かりいただければよいです。杜預は必ずしも「君無道」の三字は使ってませんが、その場合でも「君主に罪がある」と一言添えてるんですなー。

ちなみにうちで扱ってる晋の厲公周辺をあらためて見てみると、杜預が無道を連呼してて微笑してしまう…。
成16のエン陵の戦いの前に士燮が「諸侯が晋から背けばいいのに」と言ってるとこでは「晋厲公無道、三郤驕」と注し(どうして士燮がそんな主張をしてるのかの説明なのですが、ここでは厲公は士燮の言葉を聞いてるだけ)、成17でエン陵の戦いの後に士燮が死を祈って卒したとこでは「伝言厲公無道、故賢臣憂懼、因祷自裁」と注し、同年に厲公が狩りに行ったときに獲物をまず婦人にふるまって大臣どもを後回しにしたとこでは「伝言厲公無道、先婦人而後卿佐」と注してます(今から見ればレディファーストなジェントルマンとも取れるけど、ここでは単に大臣を舐めてるだけです)。
自分が見つけたのはそんなとこですが、厲公は杜預からトータル4回「無道」と言われてます…そこまで厲公ってヒドイんかい杜預さんよ…。


ここでひとつ疑問が。じゃあ上記の七例以外の君主弑殺事件の場合、杜預は「無道」って言ってないのだろうか…? 「称臣」(君主じゃなくて臣の方が悪い)の例に入る晋の霊公や陳の霊公あたりはだいぶドイヒーなことで有名な気がするのだが、これらドイヒー君主に対して杜預は「無道」とは言ってないのか……?

…と思って中央研究院で検索をかけてみたところ、晋霊公・陳霊公のあたりは特に「無道」とは言われてませんでした。晋の霊公について杜預は「霊公は君主失格だけど、良き史官(董孤)の法を示し、執政たる趙盾を責めるため、臣たる趙盾の名を記したのだ(霊公不君、而称臣以弑者、以示良吏之法、深責執政之臣也)」と言い、陳の霊公については、「霊公は悪いけどその悪は民に及んでないからセーフ(霊公悪不加民、故称臣以弑也)」と言ってます。「不君」だの「悪」だのとは言ってますが、「無道」とは言ってないんですねー杜預は。

でも、七例以外で「無道」と杜預が注している例外が一人だけいた。楚の霊王は上記七例から外れる「称臣」のパターンなのに(経文:楚公子比自晋帰于楚、弑其君虔于乾谿/昭13)、杜預は「霊王無道」と注している。
しかし経文に臣の名がある件についてはくどくどと言い訳をしていて、「霊王無道而弑称臣。比非首謀、而反書弑、比雖脅立、猶以罪加也」などと続けてます。要は、君主が無道であって臣の名が明記されないはずなのに公子比の名が明記されてるのは、まあ公子比にもいろんな事情があるんだけど(霊王の後に王となった訳だし)罪があると言うに足る、という分かるような分からないような理屈を言ってます。ここでのみ杜預は己の定めた凡例を自分で破ってますね…どうしたのだろうか。なお、私は楚の霊王に関しては全くの守備範囲外なのでさっぱり分かりません;;

メモは以上で~
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by huangque | 2011-01-01 07:30 | 春秋関連

「君無道」

【2011.12.12の日記】

昨日は夕ご飯を食べた後しばらくして腹痛に襲われてご論語論(<すげい一発変換やな/笑) …じゃなくてゴロンゴロンしてましたこんばんは。原因は失敗したシチューだと思う…。。。


さて、無駄に持って回った形になってしまいましたが(汗)わたなべよしひろ先生の『儒教と中国』の左伝杜預注についてのまとめ的なものを。

この本で杜預の左伝注の特徴の一つとして挙げているのは、君主弑殺を正当化する「君無道」という凡例でございます。
そもそも「凡例」というのは、杜預が開発(?)したもので、左伝の文を三種類に分類したものの一つ。その三種類とは、周公が規範を示したという最も重要な「旧例」(「凡そ」で始まるので「凡例」とも)、二つ目は孔子が規範を改めた「変例」、あとは史官が記したとするただの記事「非例」、でございまする。

杜預が必ず従うべきであるとする「凡例」の一つに、「君無道」がありまする。その凡例は左伝宣公4年の伝文(鄭霊公弑殺のくだり)にありまする。その凡例は、経文に弑殺した臣の名がない場合(例:晋弑其君州蒲/成18)は君主が悪い(称君)、臣の名が経文にある場合(例:晋趙盾弑其君夷皐/宣2)は臣が悪い(称臣)、というもの(原文:凡弑君、称君、君無道也。称臣、臣之罪也)。この前者が「君無道」、つまり君主が悪いことしたから殺されたのであって臣は悪くないんですよ、という凡例で、これに当てはまる七例の記事について、杜預は「君無道」といちいち注をつけているらしい。

つまり杜預の言う通りに解釈するなら、趙盾は経文に名があるので有罪、欒書・荀偃は無罪放免ちうことになります!(上で君主に罪がある「称君」の例として挙げた「晋弑其君州蒲」は、欒書荀偃が厲公を弑した事件の経文なのです)

ちなみに杜預がこの凡例を生みだしたのは、司馬昭の曹ボウ(魏の皇帝)弑殺事件を正当化するためだというのが、この本の説。この凡例を利用すれば、不孝でチャラい(<と司馬さんちが主張する)無道君主の曹ボウを司馬昭が殺しても何も悪くないということになり、司馬氏にとってはとっても都合がいい説となるのです。


さて、自分はこの「君無道」の凡例について、自分なりに掘ってみたい訳なのです…!
ということで、長くなったしちょっと調べ物もしないといけないので、続きは次の記事へ~(おま;;) さらに無駄に持って回ってしまってすみません; 自分用メモも兼ねるので、次の記事は少し煩雑になると思われます。
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by huangque | 2011-01-01 07:25 | 春秋関連

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


by huangque

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