唐突にびふぉーあふたー

昨日今日は、大雪のせいで強制ひきこもり生活でした。自分の場合、普段からひきこもり傾向なんですが…。しかし、昨日一度外に出ましたな。車が雪に埋まってたから掘り返したんですよ…車を救助するのに1時間半かかりました!!かいてもかいても雪がなくならない!!!おかげで今日は腕周り肩周りが痛いとです(涙)!!! 他にもまあ雪のせいで酷い目に遭いました…ウッ。

   *   *   *

先日懐かしい絵を見つけました。これです↓
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前にどこかに上げた記憶がありますが(どこに上げたかを覚えていないんですが;)、10年以上前に描いたオリジナル絵です。水滸後伝の登場人物ですね…二代目たち若人4人です(持ち物から親父を判断してくらさい/笑)。コピー用紙に描いてあるのでもともとらくがきのつもりで描いたのだと思いますが、それにしても「う~ん;」だなぁ…; なので画像もちょっと小さめにしてあります(笑)。

苦笑しつつも懐かしさにひたってたのですが、ふと「今の自分が同じ構図で描いてみたらどうなるんだろう…」と思い、構図・衣装はなるべくそのままで描いてみました。


出来上がったのがこれです(アフター)↓
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デジタルで塗ると見栄えが圧倒的によくなるので、こんなのと較べたら昔の自分は「卑怯じゃー!」と今の自分に対して言うかもしれませんが…。
ええと、絵の中にも名前を入れましたが、青いのが小李広・花栄の息子の花逢春、緑のが金鎗手・徐寧の息子の徐晟、紫のが双鞭・呼延灼の息子の呼延ギョク、赤いのが鉄扇子・宋清の息子の宋安平です…アレッ、安平くんは宋清の子でいいんだよなぁ…?<エッ(※水滸離れすること甚だしいので、こんな記憶すら曖昧;;)

さて、デジタルに関係のない主な修正点は、
・みんな顔が長かったので(笑)子供らしく童顔にした。過去絵は頭と体のバランスが悪いんですよね…;
・徐晟の顔の向きを変えた(あごが出て見えたので)。昔はこういう向きの顔を描けなかったんだよなぁ…。顔のアタリの縦線と横線が垂直に交わるような描き方しかできなかった…(そもそも顔のアタリ線を引いてなかった)。
・呼延ギョクの顔を俯かせた。アオリ気味なのが宋安平とかぶるし、あと動きを出す都合上。
・アオリもヘタだったなぁ…昔は、顔のパーツを上に上げただけで; 今でもそれほどアオリはうまく描けないんですが(汗;)、宋安平の顔をアオリ気味で描きました。
・左右の二人に動きをつけた。昔は動きをつけるのがヘタで、ぎこちない感じがかなり強かった。それをできるだけ直したつもり…。骨格とか筋肉についてさっぱり無知だったからなぁ…今でも最低限しか(すら?)覚えてないんですが(大汗;;)。

昔の絵は、今見るとへたくそで恥ずかしいのですが、でもあの頃は本当に描くのが楽しかったんだよなぁ…。FOへの投稿も本当に楽しかったなぁ…。
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by huangque | 2014-02-16 22:13 | ■日記

絵なしですみませぬ

どうも絵を描く余裕がなかとです!(涙) 気分的に余裕がないですね~…。


絵は描いてませんが、調べ物はいろいろやってました。正史の朱然の記事を拾ってまとめる作業が終わりました。ベースは自分なりに固めたので、ちまちま人物列伝の記事を書き始めたいです。


朱然伝もなかなか謎が多かったですな…たとえば、
・朱然伝だと227年に石陽を攻めたとあるんですが、どうもそれが間違ってて226年が正しい様子(呉主伝、明帝紀によると)。
で、石陽攻めが226年だとすると、韓当の没年に影響があるんだよなぁ…。韓当は227年没だ、と書いてあるのをよく見かけるのですが、彼は石陽攻めの時には既に没してるんですよね…(←石陽攻めの際、息子(韓綜)が喪に服していた、と「韓当伝」にある)。つまり、韓当は226年に没していると考えなければならない…。
・また朱然伝では242(赤烏5)年に柤中を攻めたとあるんですが、それに対応する他の記事がなくて、裴注に引かれてる『異同評』は237年じゃないの?と言ってるけどその意見にもどうも納得できなくて、もうよく分からん!
…という感じになって…といったことがちょくちょくありました。朱然伝にある242年の柤中攻めは、自分としては241年の樊城包囲戦のことを言ってるんじゃないかと思ってるんですが…。柤中は樊城に近く、樊城に向かう途中で通るようなので、同じ出来事を言ってるんじゃないかと。


朱然といえば、二宮の変が起こった後にも存命だったので、あの件に何かしら関わっていそうなんですが、どうしてたんでしょうかね…息子(朱績=施績)は孫和派に属しますが、本人の動向は謎。呂壱事件に関しては「内政の事は知らないんで」なんて感じで陸遜と潘濬にたらい回しにしてましたが(笑)、そんなスタンスだったんでしょうかのう。晩年は病気で2年も臥せってたらしいから、身動きが取れなかったのかもしれないけど(その割に没する前年に江陵に城壁を築いてるが…)。行政手腕ではなくて勇猛果敢さを評価されている人なので、本人もそんな理解で、敢えて政治向きのことに深入りしなかったのかなあ。


もう一つ、朱然と言えば孫権と一緒に勉強した学友コンビですが、胡綜という人も孫権と一緒に学問をしたことがあるようなので、3人で勉強してたのかもー。で、この胡綜、孫権に負けず劣らずの酒乱だったらしい(笑)。学友同士で一緒に酒でも…なんてことになったら、朱然一人でとばっちり喰らってたんだろうなー(笑)。
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by huangque | 2014-02-09 23:34 | ■日記