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今年最後

年内に年賀状を投函するというミラクルを実現しましたー!!<低次元奇跡 ここ数年、年内に年賀状を描き終えた記憶がないのです…; 年賀絵は、年明けにアップします。一見謎の人選です。

明日(というか今日)から数日間実家に戻るので、これが今年最後の日記になります。最後なのにたいしたことを書かなくてすみません; すわ日記も来年に持ち越しです…旧暦ならまだ年内だから、考えようによってはセーフ…!<エッ 忘れないうちに書きます。来年またちょっと遠くの神社にも行きたいです。 

では、よいお年を~(>_<)!
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by huangque | 2014-12-30 00:15 | ■日記

春秋かれんだー

サイト更新しました。春秋的カレンダーを作りました。
http://hachi.watson.jp/cn/cal0.html
今日は何の日~?的にお楽しみくらさい! 記事を拾ったまま見直しもしていないので、引用ミスがある可能性が極めて高いのですが(汗)、もしミスを見つけてくださったら、一言から管理人にこっそり教えてください…実際、河曲の戦いをミスってて慌てて訂正したりしました…。河曲をネタに同人誌も描いたのにな! 経文にも伝文にも12月って書いてあるのに11月のところに載せていた…;

四季ごとに表を作って、ちょっとした絵も入れてみました。絵だけまとめたのを下に…
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人選に偏りがありますが、それもこれも夏に重大事件が重なりすぎるせいです…春秋時代の四大大戦(城濮・ヒツ・鞍・鄢陵)が悉く夏なんだもの…; 夏は戦の時期なんですね…。で、正月は殺人事件がいっぱい起こる季節みたいですよ…ガタガタ。まあ、士季殿がいっぱいいて怒る方はいらっしゃらないので大丈夫ですよね。怒ったら怒ったで、士季殿の息子に戈で寝首を掻かれないように気を付けないといけないし…(笑)。

この表は、清代に成ったしゅんじゅー大事表をもとに作成したので、最近の暦法研究の導き出した日付とズレていることがたびたびあります。自分の手持ちの本と日付が違うわあ~という場合があると思います。一日ズレるパターンが多いですね…他には、二か月ズレるパターンもたびたびあります…魯は周正を使ってるのに晋なんかは夏正を使ってて、周正と夏正が二か月ズレるから何だかんだというのが原因らしいのですが、自分にはまだいまいち分かり切らない…。

後日、春秋時代の暦(ちうか太陰太陽暦)のちょっとした説明まんがも描きたいと思います。あの表を見て、四季の区分がヘンだなーとか、十二か月が全て30日になってるのがヘンだなーとご不審を抱かれる方に、その理由をなんとなくご説明できるような漫画を描きたいと思います(希望)。


今、必死にお年賀絵を描いています…明日には投函したいけど少々厳しいかもしれない…。でも今年中に投函できそうです。近年にないミラクルです(<ダメ人間)。すみませんすみません; すわ日記も今年中になんとかしたい…。

…あ、そういえば今日から冬の祭典かあ…。遠方住まいなので、気軽に行けないのですよね…まあ、近場に住んでいても気軽に行けるイベントじゃないのですが…人口密度的に。
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by huangque | 2014-12-28 20:37 | ■日記

すわ日記②

まずはサイトの話。明日はクリスマスですが、それ的なことは何もできない気がします! が、今年中には春秋的かれんだーを、最低限の形を整えてアップすべくちまちま作業しております。
年賀状のことをすっかり忘れていてどうしようかと…(<毎年恒例)。ひつじ…何を描けばいいんや…。叔向(=「羊」舌キツ)とか祁奚(字が黄「羊」らしい)とかですかね! でもデザがない! 無双キャラ…にしても、誰を描けばいいのか迷う。うーん、迷ってるうちに新年になりそうです! 毎年のことですが、年賀状を25日までに投函できそうにない…。。。


では、すわ日記の続きです! 一日目の続き、下社春宮と手長神社です。

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by huangque | 2014-12-23 20:23 | ■日記

すわ日記①

自己満足のすわ日記です!!!

まずは、諏訪大社について基本的なことをば。
大社にあった説明(上社本宮のもの)をご覧いただくのが一番早い気がするので、ごらんくらさい…(おま)。

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ご覧のとおり、諏訪大社は鎮座地が四カ所に分かれています。
諏訪湖東南方向にある上社(かみしゃ)は、本宮(ほんみや)と前宮(まえみや)、
諏訪湖北方向にある下社(しもしゃ)は、秋宮(あきみや)と春宮(はるみや。とうぐうではない)に分かれていまする。

祀られているのは、建御名方神(タケミナカタノカミ。『古事記』では大国主神の子)と、その后神の八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)。上社にタケミナカタ、下社にヤサカトメが祀られているそうです(上社前宮の主祭神がヤサカトメだと、どこかで読んだ気もする…)。

ご神紋は、下のような梶の葉です。

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上社と下社で、梶の葉の足(?)の数が異なります。上社が四本(右)、下社が五本(左)が基本らしいです。

   *   *   *

諏訪大社で特徴的なのは、本殿が(上社前宮を除き)存在しない、ということ。らしい(アバウト)。つまり、神様の居場所となる建物がない、ということになりますかね…。本殿はありませんが、それぞれ御神体があります。上社本宮は山、下社は木が御神体だそうです。
本殿がないのは、日本の古代祭祀の形を残しているからだとか何だとか…。昔は、神のいる聖域を示す目印的なものだけがあって、社殿がなかったようなのですが、仏教が立派な寺院を建てたのに影響されて、社殿を建てるようになったらしい。つまり、仏教寺院の影響を受ける以前の信仰のかたちを残しているらしいです。

   *   *   *

ということで~
まずは一日目のにっき。
一日目の行程を全部書こうとしたらえらい分量になってきたので、まずは最初に行った下社秋宮の旅行にっきです。
自分用のメモを兼ねた胡散臭い説明とか、同人的な(主に東方的な)メモが多少入ったりしますので(積極的には言及しませんが…)、そういったものがお嫌いな方は、続きをクリックしないようご注意ください…。

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by huangque | 2014-12-21 01:24 | ■日記

すわー

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諏訪に行ってきたとです! 一泊二日で! 上の写真は諏訪大社下社秋宮の神楽殿です(うしろに幣拝殿)。

古事記読んだし(<漫画で)、東方的聖地だし、運動不足解消のための散歩もできるし!と、不純な動機だらけですが(すみません…)、雪もちらつく中行ってきました。電車+バス+徒歩の旅です。行程は、

一日目:(下諏訪駅下車)諏訪大社下社秋宮→下社春宮→(電車で上諏訪駅へ)→手長神社
二日目:バスで諏訪大社上社本宮→上社前宮→(徒歩でラーメン食べに行く←エッ)→(本宮前で足湯←エッ)→本宮に戻りバスで上諏訪駅→お土産買って帰る

という感じです! 二日で10キロくらい歩いたかな…いい運動になりました。足の裏にマメができるくらい歩いた…<普段の運動不足が知れる。

また、自己満足の旅日記をつけたいと思います…。古事記を読んで(<漫画だけど)神社に行くと、祭神がどんな神様かが分かって面白いですね。
諏訪大社には、タケミナカタと、その妻のヤサカトメが祀られていますが(タケミナカタの兄のコトシロヌシも下社に祀られている様子)、社殿の中にある摂末社の神様もなんとなくわかりました。下社秋宮に、タケミナカタを諏訪に追い払ったタケミカヅチが祀られてたんですが…寛大(?)だなぁ…。


話は変わりますが、年末までに春秋的カレンダーを作ろうと思ってちまちま作業をしています。まんがもちょっと載せて、春秋的事件をかれんだーにまとめたいと思います。自分のメモを兼ねた説明もちょこちょこ書きこみたいけど、そこまではできないかもしれない…。

では、土日を使って、古事記まんがを読んだ知識を生かしつつ(…)自己満足旅日記を書きたいと思います(希望)!
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by huangque | 2014-12-19 22:15 | ■日記

楚材晋用

今日も自分用の春秋めもです…。

タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。
この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。

ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。

左伝(襄公26年)だと、以下の四人。
①析公
・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命
・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る
(↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い)
②雍子
・父兄に讒言されて晋に亡命
・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける
③巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる
④苗賁皇(子越の子)
・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命
・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る

国語(楚語上)だと、この四人。
①王孫啓(子元の子)
・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命
・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る
②析公
・子儀の乱に際し晋に亡命
・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい
(↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している)
③雍子
・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命
・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る
④巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる

だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は
・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる
・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている
・析公の活躍が、国語では曖昧
…という三点ということになるでしょうか。

鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破ったかは書いてないのです。苗賁皇の名も見えますが、不遜な我が子を追い掛け回すししょーさんを見てコメントしてるだけ…(笑)。
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by huangque | 2014-12-01 23:36 | 春秋関連