小説十八史略メモ【戦国1】

『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


春秋時代と戦国時代の境目は、晋が趙・魏・韓に三分された時期に置かれるようです。西暦で言えば、晋の三分は紀元前453年、呉王夫差が死んで呉が滅んでから20年経った時。ただし、趙・魏・韓が周から諸侯として認められたのが紀元前403年になるので、この時を戦国時代の始まりとみなすことも多いようで。私が持ってる世界史の資料集には、紀元前403年から、秦が天下を統一する紀元前221年までが戦国時代、と書いてあった。

ということで、以下は戦国時代のメモ。有名人が多いですな…。


【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)
■知伯<晋>
晋の有力者「六卿」(知氏・趙氏・魏氏・韓氏・中行氏・范氏)の一人で、六卿の中で最も有力。まず范氏・中行氏を滅ぼし、韓氏・魏氏をおどしつけてともに趙氏を滅ぼそうとしたが、韓・魏両氏に裏切られて身を滅ぼす。この本には採用されていないけれど、趙の君主・趙襄子を狙った刺客・予譲は、この知伯の知遇を得ていたんですよね。予譲は「士は己を知るもののために死す」「塗炭の苦しみ」の語でも有名。
■趙襄子・魏桓子・韓康子<晋>
各々「六卿」の一人。魏桓子・韓康子は知伯の力を恐れてやむなくこれに味方し、知伯に逆らった趙襄子を攻めたが、趙襄子の配下・張孟談の説得と奇策によって趙襄子の味方をし、知伯を破る。
知伯の死後、三氏は知伯の領土を三分した(これが晋の三分)。
■張孟談
趙襄子に仕える。知伯の水攻めに遭って苦しんでいるとき、知伯を逆に水攻めにしてやろうという奇策を携え、魏桓子・韓康子を説いて味方につけた。

■孫ピン【月+賓】<斉>
兵法書『孫子』を著した孫武の子孫。斉の人。同じ塾で学んだホウ【广+龍】涓に憎まれ、罠にはめられてヒン【月+賓】刑(足斬りの刑)にされる。後、斉に戻り、田忌のもとで軍師となった。魏・趙に攻められた韓が斉に援軍を求めたとき、田忌とともに出兵し、魏の将軍となっている因縁のホウ涓と戦う。孫ピンは、かまどの数を減らして(兵が逃げ去っていることを装い)ホウ涓を油断させ、馬陵に誘い込んでホウ涓を破った。
■田忌<斉>
斉の将軍。威王の頃、政争に敗れて一時亡命したが、威王が死に、宣王が即位すると、再び斉で将軍となった。孫ピンと組んで出征することが多かった様子。鄒忌と仲が悪い。
■鄒忌<斉>
斉の宰相。この人というと、ナルシストのイメージが強いのですが…(笑)。美貌が売り。
■ホウ【广+龍】涓<魏>
趙の首都・邯鄲で孫ピンとともに学ぶが、家柄・才能ともに自分以上の孫ピンを憎み、罠にはめて彼を足斬りの刑にする。後、魏に仕え、恵王のもとで将軍となる。馬陵の戦いで孫ピンの策に引っかかる。――宵闇が周囲を包む頃、ホウ涓は馬陵に着いた。巨木に何か文字が書いてあったので、ホウ涓は火をともした。木には「ホウ涓 此の樹の下に死なん」とあった。孫ピンは予め馬陵の高地に兵を伏せ、火がともったらそれに向かって矢を放てと命じていた。ホウ涓の兵はことごとく射殺され、ホウ涓は自殺したとも捕らえられたともいう。
■魏の恵王<魏>
ホウ涓の主君。孟子が「五十歩百歩」のたとえ話をしたのは、この恵王の前。『孟子』に「梁恵王」という編名があるが、「梁恵王」とはこの魏の恵王のこと。後出の「商鞅」の段にも出てきます。
■太子申<魏>
魏の(恵王の?)太子。馬陵の戦いで死んだらしい。

■呉起<魯→魏→楚>
兵法家として、孫子とともに「孫呉」と並称される。衛の人。豪族の出身。若い頃、自分を侮った人間三十数人を殺害したという。出世欲が強く、孔子の弟子の曾子(名は参)に弟子入りしたものの破門される。魯で将軍となり、斉を破ったが、自分の保身のためには妻をも殺したので、魯で信用されずに地位を失い、魏に行く。魏では、不仲の公叔が宰相となり、役職を削られたので、楚に出奔した。
楚では悼王のもとで宰相となり、高位についている貴族の閑職を思いっきり削って経費削減をはかった。悼王が死ぬと、呉起に位を逐われた者たちが呉起を討とうとした。ただで転ばぬ呉起は、逃げて悼王の遺体におおいかぶさり、そこで射殺された。呉起に矢を放った者たちは、王にも矢を向けたとして粛清された。
兵法の巧みさと実践力と情熱はあるけれど、人間性には「?」がつく人ですね、この本を読む限り…。
(あと、呉起が魏にいたとき、田文、すなわち孟嘗君が宰相になったとあるけれど…孟嘗君って呉起よりずっと後の時代の人のような…)
■魏の文侯<魏>
魯を離れた呉起を迎え入れた魏の君主。死後、武侯が後を継ぐ。
■李克<魏>
文侯の頃の宰相。呉起を魏に迎えることを侯に勧める。
■公叔<魏>
魏の武侯の時、宰相・田文(孟嘗君)の死後に宰相となる。策をもうけて、呉起を魏から追い払った。
■楚の悼王<楚>
呉起を迎え入れた楚の王。呉起を宰相として、手腕を振るわせる。

■淳于コン【髟+几】<斉>
斉の「稷下の学士」のまとめ役。斉の威王や魏の恵王の頃の人なので、前出の孫ピンやホウ涓と同時代の人。親に売り飛ばされて奴隷となったが、読心術に秀で、斉の威王にも気に入られる。五尺に満たない短躯、不細工な顔、体力はないが、相手の心を読み取り、話術に巧みだった。博覧強記・滑稽多弁で知られる。人の心をたくみに掴んだので、癖の多い稷下の学士のまとめ役が可能だったのでは…とのこと。斉の威王を諫めた「鳴かず飛ばず」の語は有名。

■商鞅(公孫鞅)<秦>
秦で法治主義を実践した人物。衛の人。魏の宰相・公叔ザ【やまいだれに坐】の執事をしていた。公叔ザが病の床に就き、魏の恵王が後任の推薦を頼むと、公叔ザは商鞅を薦めた。「もし商鞅を用いませんときは、彼を殺してください。他国に行けば災いとなります」と言い添えて。これを察した商鞅は、友人の范差と協力し、魏を脱して秦に向かった。
商鞅は秦の重臣・景監に取り入って要職に就き、法を整備した。法を重んじ、たとえ王族周辺の人物であっても、法に触れれば罰した。太子が法を破ったので、その傅(お守役)の公子虔を鼻削ぎの刑、師の公孫賈をいれずみの刑にした。これ以降、人々は恐れて、法を遵守するようになった。これによって政敵も作ったが、この法整備が秦による天下統一を可能にしたといわれる。
斉の孫ピンが魏のホウ涓を破った馬陵の戦いに乗じて、商鞅は魏に出兵、大勝を収めた。魏の恵王は、商鞅を逃したことを歯噛みして悔しがった。
商鞅を信任していた秦の孝公が死んだ。常々商鞅を憎んでいた公子虔は、同志を集めて「商鞅に謀反の企みあり!」と言って追ってを差し向けた。商鞅は、国境の函谷関まで逃げた。関の周辺では、「旅券のない人はお泊めできません、罰せられます」と、自分の作った法に足を引っ張られ、なんとか魏に逃げ込んだが追放され、秦軍に攻められて殺された。その死体は車裂きにされたという。
■公子虔<秦>
商鞅の法によって鼻削ぎの刑を受け、商鞅を憎む。商鞅は、近侍の范差を送り込んで公子虔を懐柔しようとしたが、范差は公子虔を憐れんで肩入れをした。公子虔は商鞅を憎み続け、君主の孝公が死ぬと、公子虔は商鞅に恨みを持つ人々を集めて、商鞅を討った。
■范差
商鞅の友人(部下に近いかも)。商鞅が魏の恵王のもとから逃れるときも、恵王を言いくるめて、商鞅殺害を思いとどまらせた。商鞅とともに秦に落ち着き、ここでも商鞅の腹心として働いた。鼻削ぎにされた公子虔のもとに送り込まれたとき、公子の立場に同情し、公子たちが商鞅失脚の計画を立てていることを知っても、それを商鞅に報告しなかった。結果、商鞅は失脚した。
■秦の孝公<秦>
秦の君主。商鞅を信任し、秦を法治国家化させた。
■秦の恵王<秦>
孝公の後の秦の君主。見せしめのために、商鞅の死体を車裂きにした。


…戦国時代のメモも長くなってきたので(笑)、またスレッド分けます。
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# by huangque | 2005-12-22 03:09 | 本めも

小説十八史略メモ【春秋2】

『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


春秋時代のメモが長くなりすぎたので、春秋時代の呉越関連の人物をこちらに分けてメモします…。斉の桓公・晋の文公関連の人物は下のスレッドです。


【春秋・呉越関係人物】
■伍子胥<呉>
もとは楚の人。父の伍奢と兄の伍尚が楚の平王に殺される。平王の子の太子建、そして建の遺児・勝とともに各地を放浪した末に、呉の公子光(後の呉王闔閭:コウリョ)に仕える。後、呉軍を率いて楚の都・郢(えい)を攻略し、既に死んでいた楚の平王の死体を掘り出して鞭打ち、積年の恨みを晴らした。闔閭の死後に即位した夫差と馬が合わず、自殺を命じられた。「わが死体の目をくり抜いて呉の都城の東門に置け。越が呉を滅ぼすのを見てやるわ!」と言って自殺した。伍子胥の遺体は皮袋に入れられて長江に捨てられた。
■申包胥<楚>
伍子胥の親友。伍子胥が楚を出るとき、「俺は楚をひっくり返してやる」と言うと、申包胥は「ならば俺は楚を再興させよう」と言った。後、伍子胥・孫武らの呉軍が楚の首都・郢を陥とした。申包胥は秦に援軍を請い、拒否されても7日間飲まず食わずで秦の宮殿前で哭き続けた。ついに折れた秦の哀公は楚に兵を与え、楚は呉を撃退した。
■楚の平王<楚>
息子の建の嫁にしようと思っていた秦の王女が好みの美人だったので、家臣の費無忌にそそのかされて自分でもらってしまう。建もこれを知っていたので、平王はその逆襲を恐れ、建のお守役であった伍奢(伍子胥の父)と建を殺そうとした。建は亡命し、伍奢は殺害された。
■費無忌<楚>
もと、太子建の少傅(お守役の副担当)。太子建に取り入るよりは平王に付いた方がいい身分になれる、と考え、秦の王女を平王に薦めることでご機嫌を取った。加えて、太子建一派が権力を握れぬように…と、建と、その太傅だった伍奢を讒言した。平王の死後誅殺される。
■太子建<楚>
楚の平王の子。父に疎まれ、宋に亡命。その後は伍子胥とともに晋・鄭を渡り歩く。晋の頃公に「鄭に入り内応してくれぬか」とそそのかされ、建は承諾するが、事を起こす前に露見した。鄭の宰相・公孫僑(子産)が鄭の定公に建の殺害を勧めた。建の死後、伍子胥は建の子・勝を連れて鄭を出た。
■鄭の定公<鄭>
楚から逃げてきた太子建を手厚く保護する。後、建が恩義を裏切って晋に応じようとしたので、宰相の子産の勧めで建を殺した。
■季札<呉>
呉の寿夢(じゅぼう)の末子で、国内外で評判が高い人物。父の寿夢は季札を王にしたがったが、季札はあくまで辞退した。
■呉王僚<呉>
寿夢の三男である余昧の子。余昧が王だった頃、僚が補佐をしていたので、余昧の死後、そのまま王位も継いだ。嫡流である公子光(闔閭)はこれに不満を持っていた。公子光の宴席で、刺客の専諸に殺される。
■専諸
胆力・武芸に優れる。これを太子光に買われ、呉王僚暗殺の任を受ける。専諸は魚の姿焼きの中に匕首を忍ばせ、これを僚に差し出すと見せかけて匕首を抜き、僚を殺害した。無論、専諸も僚の衛兵に殺された。
■公子光(呉王闔閭)<呉>
寿夢の長男である諸樊の子。王位を継ぐはずの嫡流であるのに、傍流の僚に仕えているのが不満だった。伍子胥を参謀に得、専諸に僚を討たせて、呉王闔閭として立つ。大国楚を破るなど、呉の威信を高めた。越との戦いで、越の名将・范蠡(はんれい)の奇策にはまって負傷し、その傷がもとで死んだ。
■夫概<呉>
闔閭の弟。兄が楚の申包胥と戦っている隙に、呉の都で王を称す。勇将ではあるがやや自意識過剰で、結局取って返した闔閭に敗れて楚に亡命した。
■呉王夫差<呉>
呉王闔閭の子。父が越との戦いで死んだ後、越への復讐を誓い、近侍の者に「越に父を殺されたのを忘れたか!?」と言わせたり、薪の上に寝たりして復讐心を養った。父の死後3年にして越を会稽山に追い詰め、越王勾践は降伏した。伍子胥は勾践を殺せと言ったが、夫差は勾践を殺さずに生かした。これが夫差の命取りになる。
■越王勾践<越>
呉の南方にある越の王。越王允常の子。名臣范蠡の助けで呉王闔閭を討ったが、後、范蠡の諫言を聞かずに呉に攻め込み、大敗して会稽山に追い詰められた。范蠡が、呉の重臣(伯ヒ【喜+否】)を買収したり、自らが育てた美女の西施を呉王夫差のもとに送り込んで篭絡させたので、命ひとつは助かった。苦い肝を嘗めて復讐を誓い(さきの夫差の故事とともに「臥薪嘗胆」の語で有名)、表向きは恭順を装った。夫差が覇者たらんと野心を燃やし、精兵を率いて北に向かった時、ついに勾践は立ち、呉都を攻めて夫差の太子・友を殺した。その後も越は攻撃の手を緩めず、呉の都・姑蘇を包囲すること3年にして、夫差は自殺、呉は滅んだ。勾践は「会稽の恥」を雪いだのである。
■西施
越の范蠡が呉王夫差好みの性格に育てた美女。夫差はすっかり西施のとりこになって、越王勾践を助けたり、伍子胥を自殺に追い込んだり、宮殿建築に金を使って呉を疲弊させていった。夫差が自殺し、役目を果たした西施は、范蠡とともに越を離れたとか。
■范蠡<越>
伍子胥も警戒した越の名臣。勾践に様々な奇策を授け、ついに呉を滅亡に至らせた。「越王勾践は、苦難はともにできても楽しみはともにできぬ…」と言い、呉を滅ぼした後、西施とともに斉にゆき、商業を営んで大富豪となった。斉で宰相になって欲しいと言われると、財産を知人に分けて陶という地に移り、また富を築いた。「陶朱公」ともいわれる。
■大夫種(たいふしょう)<越>
范蠡と同様、窮地の勾践を援護し続けた名臣。呉を滅ぼした後、范蠡は越を去ったが、大夫種は越に残り、勾践に仕えた。「苦難はともにできても…」という范蠡の予測は当たっていて、勾践は次第に猜疑心を強め、功臣たる大夫種は勾践に疑われて自殺させられた。


…春秋時代のメモは以上。
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# by huangque | 2005-12-22 03:08 | 本めも

小説十八史略メモ【殷・周・春秋1】

『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


中国史のふりかえりのために、図書館から借りてきました。
やはり登場人物多いなぁ…名前は聞いたことあってもどんなことをしたか知らない人もいるなぁ…ということで、以下読んだ端からメモします。なので、私の知らない人物についての記述が多くなります。
ホントに「備忘録」そのものになってしまってすみませぬー;
検索機能のついてるブログだからこそ、こんなこともやりたくなるのです。

このスレッドには、先史~殷~周~春秋までの登場人物をメモ。
なお、『「小説」十八史略』と言うからには、筆者の陳さんの創作も混じっているかと思いますので、そこもご考慮の上メモをご覧くださいませ。

以下、登場人物の簡単なメモ。…うわぁ、漢字が出ない人がけっこういそうだな…!


【先史】
■ゲイ【羽+廾】
いきなり字が出ない…(笑)。
尭の世と夏王朝にこの名の人物(いや、もともとは神らしい)がいたという。いずれも弓の名手。天に10個の太陽が昇り、地上が灼熱にさらされた時、天帝の命を受けて天界を降り、9個の太陽を射落としたという伝説がある。弓術の弟子の逢蒙に殺された。弓の弟子が師匠を殺そうとする…というのは、中島敦の「名人伝」にもありますね。
■ジョウ【女+常】娥
ゲイの妻。元は同じく神だが、夫が天帝の怒りに触れため、夫ともども神籍を外されて人間になる。ある時、夫が崑崙山の西王母から薬をもらってきた。一粒飲めば不老不死、二粒飲めば神になれる、という薬を、ちょうど二粒。夫と一粒ずつ飲んで不老不死になろうという約束だったが、神に戻りたいジョウ娥は、一人で二粒飲んで天に昇った。天と地の間の月で一休みすると、体が蝦蟇蛙になってしまった。


【殷】
■紂王・妲己
殷最後の皇帝と、紂王を狂わせた美女。周公が妲己を紂王好みの女にしたというけど…こ、これは陳さんの創作…?
■比干・箕子
紂王の叔父、かつ殷の賢臣。比干は惨殺され、箕子は投獄される。


【周】
■文王
周の文王。古公亶父の孫、季歴の子。
■武王・周公
ともに文王の子。
■太公望
東海の人、姓は呂、名は尚。文王の祖父(太公)が望んだ賢者であるので「太公望」と呼ばれる。
■周の幽王・褒ジ【女+似】
周の国祚を傾けた暗君と、笑わない絶世の美女。褒ジは龍の唾液の化身だとか…。ある時、間違ってのろしが上がり、すわ大事と諸侯が都に駆けつけた。普段笑わない褒ジが、あわてて駆けつけた諸侯を見て、初めて笑った。幽王は大喜びで、以後、褒ジを笑わせるためだけにのろしを上げた。諸侯は懲り懲りして、本当に王が襲われてのろしを上げた時も「また褒ジを笑わせたいのだ」と言って無視した(狼少年みたいな話だ…)。幽王は異民族に殺され、周王朝は名目だけの存在となり、諸侯が覇を競う春秋時代に突入。


【春秋/斉の桓公・晋の文公周辺】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)
■斉の桓公<斉>
名は小白。キ【人+喜】公の子。襄公(後述)の弟であり、糾の弟。お守役に鮑叔牙。管仲を宰相に得、「春秋五覇」の筆頭に挙げられる。
■管仲<斉>
桓公の宰相。最初、桓公の兄の糾のお守役だった。小白(桓公)と糾が斉の国主の座を争ったとき、小白に矢を放って殺そうとしたこともあるが、友人の鮑叔牙の推薦で、桓公の宰相となった。
■鮑叔牙<斉>
小白(桓公)のお守役。管仲とは仲がよく、「管鮑の交わり」の故事で有名。糾を破ったとき、糾のお守役であった管仲を桓公に薦め、桓公を春秋の覇者にする。管仲の臨終の際の二人の会話はよいな…。
■斉の襄公<斉>
桓公の兄。名を諸児(しょげい)。妹の文姜(魯の桓公に嫁いでいる)と不倫&近親相姦をするという非道の君主。従弟の無知の反乱に遭って殺される。
■彭生<斉>
襄公の子。怪力の持ち主で、父の命令で魯の桓公を絞め殺した。後に事がバレて、魯の桓公殺害の罪をかぶって殺された。
■糾<斉>
小白の兄。母は魯の人。国主争いに敗れ、魯で殺された。
■曹沫<魯>
魯の荘公に仕える将軍。桓公の斉に敗れ、魯の地を斉に割譲することになった際、斉の桓公に匕首を突きつけて、魯地割譲を撤回させた。

■晋の献公<晋>
重耳(文公)の父。斉の桓公の娘・斉姜との間に申生を、狄(てき)の姉妹の間に重耳と夷吾を、驪姫(りき)との間に奚斉・悼子をもうける。美女の驪姫に寵愛を傾ける。
■驪姫<晋>
献公に嫁ぐ。故国の驪戎(りじゅう)を晋に蹂躙されたのを怨み、献公をそそのかして晋を滅茶苦茶にしてやろうと策謀する。献公の太子の申生に罪を着せる手口などは「見事」としかいえない。献公が死んだ後自殺。
■申生<晋>
献公の太子。素直すぎるたちで、驪姫の策で父に疎まれるようになると、もうこれまで…と諦めて自殺する。
■荀息<晋>
晋の大臣。献公から奚斉の後見を頼まれる。が、国内の家臣たちに奚斉を立てる意志はなく、奚斉・悼子が殺されると自らも殉死する。
■里克<晋>
晋の将軍。奚斉・悼子を殺して夷吾(恵公)を迎える。が、一時重耳派であったため、奚斉・悼子を殺害したことを理由に恵公から自殺を命じられる。
■夷吾(恵公)<晋>
父に疎まれると、一時抗戦するものの梁に逃亡。献公の死後、秦から兵を借りて晋に戻り、即位して晋の恵公となる。秦に対して義理に背くことばかりしたので、国内でも嫌われ、さらに秦の繆公(ぼくこう。穆公と同じ…?)に大敗した。13年在位の後病死。
■圉(ぎょ)<晋>
恵公(夷吾)の太子。恵公が秦の繆公に負けたとき、秦の人質となる。父が死にそうだと聞くと、秦を抜け出して晋に戻り、父の死後即位して晋の懐公となる。が、無断で秦から出たため秦の繆公は激怒して、亡命中の重耳に兵を貸して懐公を廃位させた。
■重耳(晋の文公)<晋>
「逃げの重耳」。父・献公に疎まれて国外に逃亡し、諸国を転々とし、斉の桓公・宋の襄公・楚の成王などの庇護を受けるが、冷遇されることも少なくなかった。19年の逃亡生活の後、ようやく晋に帰国し、文公となる。春秋五覇に数えられる。「三舎を避く」の故事でも有名。
■趙衰(ちょうし)・狐偃・賈佗(=胥臣)・先軫・魏武子<晋>
重耳を助け続けた5人の賢臣。重耳はよく彼らの言葉に耳を傾けた。ちなみに狐偃は重耳の母の弟にあたる。
■介子推<晋>
重耳を助けた臣の一人だが、重耳が晋に戻ると隠棲し、母とともに余生を送った。文公(重耳)の招聘に応じなかったので、文公が介子推のいる山に火を放って出てこさせようとしたが、介子推は木を抱いて焼死したという話がある(史記や左伝ではなく、呉越春秋に見える話らしい)。


他にも、春秋時代の呉・越の人物もメモしたいのですが、かなり長いのでスレッド分けます。続きは「小説十八史略メモ・2」にて。
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# by huangque | 2005-12-22 03:07 | 本めも

『巴黎本水滸全伝の研究』

白木直也『巴黎本水滸全伝の研究』 1965

水滸伝の版本を、文簡本を中心に考察した論文…かな。
水滸伝の版本の話を読んでみたいな、と思い、図書館で借りました。


一口に水滸伝と言っても、その種類はいろいろ。
100回本、120回本、70回本という分類の方法をご存知の方もいらっしゃると思います。
100回本を基準にすれば、120回本は100回本に田虎・王慶討伐の段を加えたもの。70回本は、梁山泊に108人の好漢が集まったところで強制終了させて、朝廷との戦いや遼・方臘討伐を描かないもの…という違いがあります。

さらにまた、「文繁本」「文簡本」という区別の仕方もあります。
「文繁本」は、記述が詳細なもの。
「文簡本」は文繁本に比べて記述が簡潔で、あらすじだけを追ったもの。
岩波文庫で出ている吉川幸次郎・清水茂による100回本の訳や、講談社(今は別の出版社で出てたけど…どこだっけ・ちくま文庫?)で出ていた駒田信二による120回本の訳は、全て「文繁本」の翻訳です。水滸伝はその描写力が卓越して面白いので、それを切って捨てた文簡本は面白みに欠けるのです。文簡本の訳本はありません。


…と、前置きが長くなりましたが。

この『巴黎本水滸全伝の研究』は、「文簡本」についての論文です。
タイトルにある「巴黎本(パリ本)」というのが、パリ国立図書館が所蔵する水滸伝文簡本のテキストの通称なのです。たった1巻と数ページが残っているだけ…という、中途半端といえば中途半端なテキストです。
が、他の文簡本と比較することで、このパリ本がどのような特徴を備え、他の文簡本(あるいは文繁本)といかなる相互影響関係があるかを考えた論文…だったと思います(汗)。

…こんな曖昧な言い方なのは…この論文、読者に要求する前提知識のレベルがかなり高くて、水滸伝の版本に詳しくない私は四苦八苦だったのです…(へたれ)。


ではまず、この論文の中に出てくる文簡本のテキストにどのようなものがあるかをまとめてみる。

■パリ本
パリ国立図書館所蔵の文簡本。鄭振鐸(ていしんたく)が発見し、その存在を紹介。
正式なタイトルは「新刻京本全像挿増田虎王慶忠義水滸全伝」。
巻20全てと、巻21の8ページ(4葉)しか残っていない。
■京本
内閣文庫のものと、日光山慈眼堂のものの二つがあるらしい…。
正式なタイトルは「京本増補校正全像忠義水滸志伝評林」(でも、ページによっては表記が違っていたりするらしい)。
内閣文庫のものは、全25巻のうち頭の7巻と刊記(おくづけ)がない。
日光山慈眼堂のものは全て揃った「完本」。日本の豊田穣が発見したもの。
(内閣文庫のものと慈眼堂のものって、内容は全く同じなのかな? わ、分からん…!)
■三槐堂本
本自体は残っていないが、京本の序の欄外にある「水滸弁」という文に名前が出てくる。「水滸弁」によると、美文をかなり削った本だったらしい。
■黎光堂本
正式名称は「新刻全像忠義水滸誌伝」。全115回。この論文によると、京本をもとにして作られた、とのこと。

…とまぁ、書いてる本人もよく分かっていないのですが(汗)、文簡本にもいろいろなものがあるようです。で、これらを比較しながら、どれが先に成立してどれが後に成立したかを考察してます。

結論からいえば、成立した順番は
【パリ本→三槐堂→京本→黎光堂本】 であるとのこと。
文簡本の中ではパリ本の成立が一番早く、田虎・王慶の段を挿入したのもパリ本が最初だと思われる。
三槐堂本は、パリ本の中の美文をごっそり削除したものと思われる(現物が残っていないのでどうとも言えないけど…)。
京本は、独自の特色を出すため、新たに少し詩を加えたり、「評語」を加えて特色を出した。また、余呈という人物の扱いをよくしている(京本を出版している本屋が余氏というので、同姓のよしみで贔屓したと思われる)
黎光堂本は、パリ本と京本のいいところを折衷しようとしたと思われる。
…とのこと。らしい。

…文簡本にもいろんな種類があるんだなー、ということが分かったのが収穫でしょうか…。それ以外は難しくてよく分からなかった(汗)。
ここに書いたのは文簡本についてだけだったのですが、論文の中では文繁本との関連についても触れてます。が、私にはよく分からなかった…。
最初にあったのが20巻100回の文繁本水滸伝で、文簡本(パリ本)はそれを削って作ったもので、120回文繁本水滸伝は文簡本の後に登場した…という流れみたいです。多分。


…ほんと、自分用のメモと化してしまった…すみません;
水滸伝の版本に関して興味のある方は、高島俊男『水滸伝の世界』(大修館書店/ちくま文庫)がオススメです。分かりやすくまとめてくれています。
ほんと、高島さんのこの『水滸伝の世界』は水滸伝を読む人にとってはバイブルだよな…。濃厚でしかも面白いです。
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# by huangque | 2005-12-22 03:06 | 本めも

澤田瑞穂『中国史談集』

澤田瑞穂『中国史談集』 早稲田大学出版部 2000年

読み終わりましたー。
部分的な感想は下の2つの記事に書いたのですが、全体の感想。

歴史の裏舞台を語る…というのが全体の雰囲気。時代でいえば、宋・明・清の話題が多いです。
宋以降の知識階級の人々は、日記…あるいは日記のように考えたことを書き記していて、それが現在でもかなり残っているようです。それらの記事の中から、当時の人々の様子を記した部分を探し出して考察しています。刺青や民間伝説、奇怪な風習などについて、それらの記事を総合して、当時の実情に迫ろうとしているのが、この本の特色かと。

引用してある文献の数が半端でなく、著者の博覧強記ぶりが分かります…聞いたことがない文献の名前がいっぱい…。珍法・宦官・刺青・風俗・宗教・異聞…などの珍しい切り口で、今まであまり触れられることがなかった歴史の一部を語ってます。

刺青の話や宦官の話、あと宋の徽宗の話が、もともと興味のある点でもあったので面白かったですー。
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# by huangque | 2005-12-22 03:04 | 本めも

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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