元曲「趙氏孤児」【楔子】

さて、ブログにメモします!と宣言しながら全然書いてなかったので(汗)、まずは「趙氏孤児」という戯曲のあらすじのご紹介を胡散臭くやってみたいと思います(…)。
…本当、元曲のテキストは尋常でなく読みづらい! 読めない部分に関しては、「多分こうだろう」という推測も交えてますので(おい)あしからず…あくまで参考までに。


本題に入る前に、「元曲」のご紹介を軽く。
元曲は、元代に隆盛した演劇のことです。
4幕で完結するのが基本形。幕数を数えるときは「折」という単位を使い、たとえば第一幕は「第一折」といいます。
4幕で収まらない場合は、「楔子(せっし)」という補助幕を挿入することが許されています。このスレッドでご紹介するのは、この「楔子」です。
私も今元曲について地道に調べてるところでたいした知識がなくて申し訳ないのですが、そんな感じだと思います。

ちなみに、テキストは『元曲選校注』(王学奇・主編/河北教育出版社)に入っている「趙氏孤児」を参照します。形式は、楔子1幕、折数は5、と、元曲の基本形からちょっと外れてます。


…と、前置きが長くなりました(汗)。
では、元曲「趙氏孤児」の楔子のあらすじを下に。
宮城谷さんの「月下の彦士」をお読みの方は「えぇ!?」と思う点多数かと…(笑)。
*薄い文字は超個人的メモなのでお気になさらず…笑

  *   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作
題目:公孫杵臼恥堪問
正名:趙氏孤児大報仇
簡名:趙氏孤児

【楔子】
登場人物:
 屠岸賈(浄)
 趙朔(冲末)
 公主(旦)←趙朔の妻。霊公の娘(ということになってます)

(楔子は、屠岸賈のモノローグがほとんど。屠岸賈が趙朔に死を与えるまでのいきさつを、屠岸賈自身が延々と語ってます。)

屠岸賈は、晋の「大将」を務めている。
君主・霊公の下の文武の諸官の中で、武に関しては屠岸賈、文に関しては趙盾(ちょうとん)が、最も主の信頼を受けている。(←趙盾が霊公、すなわち夷皐に信頼されてる…という時点で「えぇ!?」な設定です…笑。今後もそんなのがいっぱい出てきます)。しかし、屠岸賈と趙盾は不仲で、屠岸賈は何度も趙盾を亡き者にしようとした。

ある時は、刺客のショ【金+且】ゲイ【鹿+兒】を差し向けて趙盾を殺させようとしたが、ショゲイは樹に頭を打ちつけて死んでしまった。

またある時は、霊公から賜った神ゴウ【敖+犬】という猛犬に、趙盾と同じ衣装をつけた人形に咬みつくよう100日間も訓練し、霊公の御前で「この犬は讒臣に咬みつきます」と言って放った。訓練されたとおり、犬はその場にいた趙盾に襲い掛かったが、「殿前太尉」の提弥明が犬を撲殺し、また趙盾に恩を持つ霊輒(れいちょう)という人物によって、趙盾は馬車で逃げ去ることができた。
趙盾は逃げのびることができたが、犬に咬みつかれそうになったため「讒臣」とされ、屠岸賈は趙盾の一族郎党を皆殺しにした。

ただ、趙盾の子・趙朔だけは、霊公の公主(娘)を娶った駙馬都尉である(主君の一族に連なっている)ので、手を下せなかった。

そこで屠岸賈は、偽の命令書をでっちあげ、弓の弦・薬の入った酒・短刀の3つの物を使者に持たせて趙朔を責めることにした。(つまり、讒臣の一味として、弓の弦で首を吊るか、毒薬の入った酒をあおぐか、短刀で自刃するか、好きな方法で自殺せよ、ということ。「弓の弦」でどう死ぬのかいまいち判然としないけど…やっぱ自縊かな。)

一族を殺され、自らの死を悟った趙朔は、妻の公主に向かって言った。
「おまえは子を宿している。生まれたのが女の子だったらそれまでだが、男の子であれば、『趙氏孤児』と名づけ、成長するまで待って、親の仇を討たせるように…」
屠岸賈が差し向けた使者に面会した趙朔は、短刀で自殺した。
嘆き悲しむ妻の公主は、宮殿の中に閉じ込められることになってしまった。
(以上)

  *   *   *

…と、楔子はこんな感じです。

趙盾を殺そうとしたのは、歴史書に拠れば霊公なのですが、屠岸賈を悪人に仕立てるためにみんな屠岸賈がやったことになってます。
他にも、趙盾が逃げ去って戻ってこないとか、霊公が殺されないとか、霊公の娘が趙朔の妻だとか(ほんとは霊公の叔父の娘が趙朔の妻)、ツッこみはじめればきりがないくらい「えぇ!?」な場面があります。
この後、韓厥や程嬰も出てきますー。…って、実は私もまだ最後まで読んでなくてあらすじ知りません(笑)<っておい!
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# by huangque | 2005-12-22 03:14 | 本めも

『史記』小事典・世家編

『「史記」小事典』 久米旺生・丹羽隼兵・竹内良雄編 徳間文庫 2006


なんとなく読み始めてしまいました。司馬遷の『史記』の超ダイジェスト版。
史記…読んでみたいとは思うのですが、どうも敷居が高くて読めないので(春秋戦国ってごちゃごちゃしてていまいち分からんのです)、この一冊を買って、史記の雰囲気だけでも味わいたいな…と。
高島さんの『中国の大盗賊』のメモはまた後日…。史記の世家のメモを先に取ります。

「世家」というのは…自分でもいまいちよく分かっておらんです(苦笑)。手持ちの『漢語林』の説明では、「諸侯や王の事跡を述べた編」。
その中でも、春秋戦国の列国の起源が前々から気になっていたので、こちらにちょいちょいメモしときます。
では、この本に載ってる順に…
(姓と爵位については、春秋戦国史さまの記載を参考にさせていただいてます)

■呉≪姫姓/子爵≫
周の古公亶父の長男・太伯と次男・仲雍が、末弟・季歴に位を譲るために出奔して建国(ちなみに、季歴の子が周の文王)。それから数えて19代目が寿夢。その孫が公子光、すなわち闔閭。夫差の代に、越によって滅ぶ。

■斉(呂氏。斉太公世家)≪姜姓/侯爵≫
斉は、周の建国に功あった太公望(呂尚)の流れの呂氏の時代と、呂氏を倒して立った田氏の時代に分かれるが、そのうち呂氏の時代の歴史を収める。(田氏の斉については別に「田敬仲完世家」項目がある。)
呂氏の斉は、太公望呂尚がここに封じられて始まる。最も盛んだった時期が、桓公の時代。その後は家臣の力に圧倒され、田常が簡公を弑殺、その孫の田和が康公を海辺の地に遷し、康公の死によって、斉は田氏のものとなる。

■魯≪姫姓/侯爵≫
開祖は周の武王の弟・周公旦。実質的に魯の地に赴任してきたのは、周公旦の子・伯禽で、実質上の初代魯君となる。
周辺の楚・斉・晋などの列強に脅かされ、さらに三桓(魯の桓公の流れを汲む孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)が強力で、君主の権力は不安定だった。BC249年に楚に滅ぼされる。

■燕≪キツ[女+吉]姓or姫姓/(公爵→)伯爵≫
開祖は召公セキ【百+大+百】。姓は姫氏。43代続き、王喜のときに秦に滅ぼされた。

■管≪姫姓/―≫・蔡≪姫姓/侯爵≫・曹≪姫姓/伯爵≫
どれも、武王の弟が封ぜられた国。管は周公旦に対して反乱を起こして一代で滅び、蔡・曹も小国だった。

■陳≪キ[女+為]姓/侯爵≫
舜の子孫の国。
厲公の子である敬仲完(陳完。のち田完と姓を変える)は、内紛を避けて斉に逃げた。この敬仲完の子孫が呂氏の斉を滅ぼして田氏の斉を建てることになる(→田敬仲完世家)。

■杞≪ジ[女+以]姓/侯爵≫
「杞憂」で知られる小国。禹の子孫の国。

■衛≪姫姓/侯爵≫
周の武王の同母弟・康叔が始祖。暗君が続いて内紛も絶えない国だった。

■宋≪子姓/公爵≫
殷の紂王の庶兄・微子が始祖。盛んだったのは「宋襄の仁」で知られる襄公の頃。BC286、斉・魏・楚に滅ぼされ、その地は三分された。

■晋≪姫姓/侯爵≫
始祖は、周の武王の子・唐叔虞。唐叔の子の代に国号を晋とした(その前は「唐」)。文公(重耳)の頃に勢い盛んになるが、その後は家臣の力が強まり、BC376に趙・魏・韓に三分される。

■楚≪羋姓/子爵≫
楚の先祖は、黄帝の孫・顓頊(せんぎょく)。周の成王のときに楚に封ぜられる。春秋時代、荘王が「鼎の軽重を問う」ほどの勢いを持っていた時期もあったが、戦国時代の懐王の頃、秦の張儀の策に弄ばれて一気に弱体化、BC223に秦によって滅ぼされた。

■越(越王勾践世家)≪ジ[女+以]姓/子爵≫
越王勾践は、禹の末裔だと言われている。この巻の大半は、句践に仕えた名臣・范蠡のために割かれているらしい。

■鄭≪姫姓/伯爵≫
始祖は、周の第11代・宣王の庶弟。他の国と比べると新しい国みたいですね。BC375、韓に併呑された。

■趙≪嬴姓/―≫
顓頊の後裔。その流れにある殷の蜚廉に二人の子があり、兄の悪来が秦の先祖、弟の季勝が趙の先祖に当たる。
季勝の曾孫・造父は周の成王の御者となり、功あって趙城を賜り、以後趙氏を名乗る。造父から7代後の叔帯が、周の幽王の無道を厭って晋に行った。
趙簡子の時に、晋の有力者である中行氏・范氏を追放し、その子の趙襄子のときに知伯を破って、魏氏・韓氏とともに晋を三分して趙を建国した。

■魏≪姫姓/―≫
魏の先祖は、周の文王の子・畢公高(ということは、武王や周公旦の兄弟か…)。武王が殷の紂王を討った後、畢に封ぜられて姓を畢とするが、その子孫は一度庶民にまで落ちぶれる。
畢万という者が晋の献公に仕え、魏に封ぜられた。畢万の孫・魏武子は、重耳(文公)の亡命に随行している。その子孫の魏桓子のときに、趙・韓とともに晋を三分した。

■韓≪姫姓/―≫
姓は姫氏で、周と同じ。その後裔が晋に仕えて韓原に封ぜられ、韓武子と言われるようになる。

■斉(田氏。田敬仲完世家)≪キ[女+為]姓/―≫
こちらは田氏の斉。
陳の厲公の子である陳完(諡を敬仲)は、国の内紛から逃れるために斉に行った。斉に来て以降、陳完は田氏を名乗る。この子孫が後に呂氏の斉を乗っ取り、田氏の斉を建てる。
田完から6代後の田乞は巧みに人心を掴み、晏嬰をして「斉は田氏のものとなろう」と言わしめる。乞の子・田常は簡公を弑し、その弟を立てて自らは宰相の地位に就いた。常から4代後の田和が周から諸侯として認められ、田斉最初の侯となる。三代目の威王の頃、人材を集めて国力を強化し、「王」を名乗った。

春秋戦国時代で、世家に入っている国はこんなところでしょうか…。
ちなみに秦は、世家ではなく本紀に入っています。本紀とは「帝王の事跡を記した」(漢語林)部分。秦は中華を統一してるので、他の国より格上の扱いなんですね。

始祖・先祖によって分類すると…
●周と同じ姓(姫姓)の国:
呉(太伯・仲雍)
魯(周公旦)
燕(召公セキ)
管(周武王次弟・叔鮮)
蔡(周武王四弟・叔度)
曹(周武王五弟・叔振鐸)
衛(周武王八弟・康叔)
晋(周武王の子・唐叔虞)
鄭(周宣王の弟・桓公)
魏(周文王の子・畢公高)
韓(姓は姫らしい)
●周と異なる姓の国:
斉(太公望/姜姓)
斉(田完。陳の流れを汲むので、舜の子孫と考えていいか)
陳(舜/キ[女+為]姓)
越(禹/ジ[女+以]姓)
杞(禹/ジ[女+以]姓)
宋(殷の微子/子姓)
楚(顓頊/ビ姓)
趙(顓頊―季勝/エイ姓)
秦(顓頊―悪来/エイ姓)
ちなみに禹は顓頊の孫(夏本紀による)。
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# by huangque | 2005-12-22 03:11 | 本めも

小説十八史略メモ【戦国2】

『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


戦国時代続き。
本当は、下のスレッドと分けたくなかったんだけど…修正しようとしたらことごとく更新が無効になったので(…)分けます。


【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)
■孟嘗君(田文)<斉>
多くの食客を養った「戦国四君」の一人。斉のビン【さんずいに民+日】王の叔父に当たる。「この日に生まれた子は、大きくなると父母を害する」といわれる5月5日に生まれ、父に捨てられそうになったが、母が密かに田文を養育していた。秦の昭王からの申し入れで、孟嘗君は秦に行って宰相になった。が、秦の朝廷では、やはり孟嘗君を用いるのをやめ、他国に行かれる前に殺そう、という話になった。これを密かに知った孟嘗君は、食客を使って秦の昭王の追っ手をかわし、秦から脱出した。秦の国境の函谷関を「鶏鳴狗盗」の徒によって脱出した話は有名。
孟嘗君は斉に帰ったが、ビン王との折り合いが悪く失脚。3000人いたと言われる食客は散り散りに去ったが、一人残った馮灌の尽力で斉の宰相に。再び多くの食客を養った。が、やはりビン王に憎まれて殺されかけたので、魏に奔ってそこで宰相となった。
■秦の昭王<秦>
孟嘗君を秦の宰相に迎えたい、と、母(宣太后)の弟の涇陽君を人質として斉に差し出し、孟嘗君を迎えた。
■幸姫
秦の昭王の寵姫。孟嘗君が殺されそうになった時、孟嘗君側から頼まれて、貴重な皮衣とひきかえに孟嘗君への追及の手を緩めるよう取り計らう。
■孔路
孟嘗君の食客。弁舌が得意。幸姫と折衝する役目。
■狗盗
孟嘗君の食客。盗みが得意。「狗盗」というのは、名前というよりは、特技から来たあだ名。幸姫に要求された皮衣を盗み出し、孔路がこれを幸姫に贈った。
■馮灌(ふうかん)
「馮驩」とも。孟嘗君の食客。弁舌が得意。孟嘗君が失脚した際でも、孟嘗君に付き従って尽力する。孟嘗君からの待遇が悪かった時、「長鋏(ちょうきょう)帰らんか」(わが剣よ、さあ帰ろう)と言って「弾鋏」(剣のつかをたたく)して不満をもらした話でも知られる。
■斉のビン【さんずいに民+日】王<斉>
斉王。孟嘗君と折り合いが悪く、何度も孟嘗君を失脚させる。ビン王の死後に即位した襄王は、孟嘗君と和解した。この本にはなかったけど、燕の楽毅に攻められて、斉の70余城を抜かれたのは、このビン王の時だったような。
■戦国四君
いちおうメモ…。戦国時代、多数の食客を抱えていた人物たち。
<斉>孟嘗君  名は田文。
<趙>平原君  名は趙勝。
<魏>信陵君  名は公子無忌。
<楚>春申君  名は黄歇(こうけつ)。

■鬼谷先生
縦横家。経歴不明の謎の人物。蘇秦・張儀の師。
■蘇秦<燕>
縦横家。鬼谷先生に学ぶ。張儀の兄弟子。けっこう野心家。周・秦と遊説したが失敗し、燕の文侯に取り立てられた。燕・趙・魏・韓・斉・楚の六国を同盟させて強国の秦に当たる「合従」の実現を目指す。まずは燕の隣国・趙の粛侯と同盟を結び、韓の恵宣王を「鶏口と為るも牛後と為るなかれ」と説得するなどして六国の同盟に成功、蘇秦は六国の宰相の印を帯びるまでになった。後、燕で悪い風聞が立ち、斉に赴いた(このときの斉の君主は、孟嘗君の段に出たビン王)。張儀が斉の大臣をたきつけて蘇秦を憎ませたので、蘇秦は斉の大臣が放った刺客に殺された。
しかし、自分の死体を策のために車裂きにさせるとは…生きても死んでも策謀一色の人物だな…。蘇秦の死後、合従策は崩壊する。
■張儀<秦>
鬼谷先生の弟子で、蘇秦の弟弟子。大志では蘇秦に劣るが、才能では蘇秦の上。蘇秦の「合従」と逆の「連衡」(秦が他の六国と同盟し、六国同士の同盟をさせない)を唱え、秦に仕官して蘇秦と知略を闘わせる。
蘇秦の死後、六国同士の同盟を切り離し、連衡策を実現していった。南方の楚を弱体化させる手口はかなりあくどい。「秦の六百里の土地を楚に差し上げます」と言って楚と斉の手を切らせたのに、約束を守ったから六百里の地をよこせと言って来た楚に対して「六百里? 私が差し上げようと言ったのは六里ですよ」ととぼけて見せた。怒って攻め込んできた楚を、秦はたやすくひねって破った。

■屈原<楚>
楚の三閭大夫。楚の王族(昭・屈・景の三姓がある)の出身。策謀を好まない愚直な人柄で、張儀を嫌う。張儀の策により、楚の内部では秦に近づこうという風潮が強くなったが、屈原はかたくなに反対した。張儀の謀略によって楚の中で孤立し、楚の懐王の子・頃襄王に追放され、汨羅の淵に身を投げた。その苦衷を吐露した「離騒」は有名。『楚辞』の作者の中での代表的人物。
■楚の懐王<楚>
楚王。張儀に手玉に取られた楚の凡君。一時期、楚に連行されてきた張儀を、寵姫・鄭袖の言葉で許し(もちろん張儀が裏で手回し済)たり、秦の六百里の土地に目がくらんで、屈原の言葉に従わず斉との同盟を破棄したりと、楚を国際的に不利な状況に追い込んだ。最後は、秦の誘いに乗って秦に赴き、そのまま人質に取られて客死した。
■靳尚<楚>
楚の重臣。屈原と逆の親秦派。張儀にいいように使われる。
■鄭袖
楚の懐王の寵妃。張儀の策にひっかかって、楚に送られてきた張儀を許すよう懐王に頼み込んだ。
■楚の頃襄王<楚>
懐王が秦で客死した後に即位。懐王の長男。反秦派の屈原を追放する。
■子蘭<楚>
懐王の末子。頃襄王の宰相。親秦派。
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# by huangque | 2005-12-22 03:10 | 本めも

小説十八史略メモ【戦国1】

『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


春秋時代と戦国時代の境目は、晋が趙・魏・韓に三分された時期に置かれるようです。西暦で言えば、晋の三分は紀元前453年、呉王夫差が死んで呉が滅んでから20年経った時。ただし、趙・魏・韓が周から諸侯として認められたのが紀元前403年になるので、この時を戦国時代の始まりとみなすことも多いようで。私が持ってる世界史の資料集には、紀元前403年から、秦が天下を統一する紀元前221年までが戦国時代、と書いてあった。

ということで、以下は戦国時代のメモ。有名人が多いですな…。


【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)
■知伯<晋>
晋の有力者「六卿」(知氏・趙氏・魏氏・韓氏・中行氏・范氏)の一人で、六卿の中で最も有力。まず范氏・中行氏を滅ぼし、韓氏・魏氏をおどしつけてともに趙氏を滅ぼそうとしたが、韓・魏両氏に裏切られて身を滅ぼす。この本には採用されていないけれど、趙の君主・趙襄子を狙った刺客・予譲は、この知伯の知遇を得ていたんですよね。予譲は「士は己を知るもののために死す」「塗炭の苦しみ」の語でも有名。
■趙襄子・魏桓子・韓康子<晋>
各々「六卿」の一人。魏桓子・韓康子は知伯の力を恐れてやむなくこれに味方し、知伯に逆らった趙襄子を攻めたが、趙襄子の配下・張孟談の説得と奇策によって趙襄子の味方をし、知伯を破る。
知伯の死後、三氏は知伯の領土を三分した(これが晋の三分)。
■張孟談
趙襄子に仕える。知伯の水攻めに遭って苦しんでいるとき、知伯を逆に水攻めにしてやろうという奇策を携え、魏桓子・韓康子を説いて味方につけた。

■孫ピン【月+賓】<斉>
兵法書『孫子』を著した孫武の子孫。斉の人。同じ塾で学んだホウ【广+龍】涓に憎まれ、罠にはめられてヒン【月+賓】刑(足斬りの刑)にされる。後、斉に戻り、田忌のもとで軍師となった。魏・趙に攻められた韓が斉に援軍を求めたとき、田忌とともに出兵し、魏の将軍となっている因縁のホウ涓と戦う。孫ピンは、かまどの数を減らして(兵が逃げ去っていることを装い)ホウ涓を油断させ、馬陵に誘い込んでホウ涓を破った。
■田忌<斉>
斉の将軍。威王の頃、政争に敗れて一時亡命したが、威王が死に、宣王が即位すると、再び斉で将軍となった。孫ピンと組んで出征することが多かった様子。鄒忌と仲が悪い。
■鄒忌<斉>
斉の宰相。この人というと、ナルシストのイメージが強いのですが…(笑)。美貌が売り。
■ホウ【广+龍】涓<魏>
趙の首都・邯鄲で孫ピンとともに学ぶが、家柄・才能ともに自分以上の孫ピンを憎み、罠にはめて彼を足斬りの刑にする。後、魏に仕え、恵王のもとで将軍となる。馬陵の戦いで孫ピンの策に引っかかる。――宵闇が周囲を包む頃、ホウ涓は馬陵に着いた。巨木に何か文字が書いてあったので、ホウ涓は火をともした。木には「ホウ涓 此の樹の下に死なん」とあった。孫ピンは予め馬陵の高地に兵を伏せ、火がともったらそれに向かって矢を放てと命じていた。ホウ涓の兵はことごとく射殺され、ホウ涓は自殺したとも捕らえられたともいう。
■魏の恵王<魏>
ホウ涓の主君。孟子が「五十歩百歩」のたとえ話をしたのは、この恵王の前。『孟子』に「梁恵王」という編名があるが、「梁恵王」とはこの魏の恵王のこと。後出の「商鞅」の段にも出てきます。
■太子申<魏>
魏の(恵王の?)太子。馬陵の戦いで死んだらしい。

■呉起<魯→魏→楚>
兵法家として、孫子とともに「孫呉」と並称される。衛の人。豪族の出身。若い頃、自分を侮った人間三十数人を殺害したという。出世欲が強く、孔子の弟子の曾子(名は参)に弟子入りしたものの破門される。魯で将軍となり、斉を破ったが、自分の保身のためには妻をも殺したので、魯で信用されずに地位を失い、魏に行く。魏では、不仲の公叔が宰相となり、役職を削られたので、楚に出奔した。
楚では悼王のもとで宰相となり、高位についている貴族の閑職を思いっきり削って経費削減をはかった。悼王が死ぬと、呉起に位を逐われた者たちが呉起を討とうとした。ただで転ばぬ呉起は、逃げて悼王の遺体におおいかぶさり、そこで射殺された。呉起に矢を放った者たちは、王にも矢を向けたとして粛清された。
兵法の巧みさと実践力と情熱はあるけれど、人間性には「?」がつく人ですね、この本を読む限り…。
(あと、呉起が魏にいたとき、田文、すなわち孟嘗君が宰相になったとあるけれど…孟嘗君って呉起よりずっと後の時代の人のような…)
■魏の文侯<魏>
魯を離れた呉起を迎え入れた魏の君主。死後、武侯が後を継ぐ。
■李克<魏>
文侯の頃の宰相。呉起を魏に迎えることを侯に勧める。
■公叔<魏>
魏の武侯の時、宰相・田文(孟嘗君)の死後に宰相となる。策をもうけて、呉起を魏から追い払った。
■楚の悼王<楚>
呉起を迎え入れた楚の王。呉起を宰相として、手腕を振るわせる。

■淳于コン【髟+几】<斉>
斉の「稷下の学士」のまとめ役。斉の威王や魏の恵王の頃の人なので、前出の孫ピンやホウ涓と同時代の人。親に売り飛ばされて奴隷となったが、読心術に秀で、斉の威王にも気に入られる。五尺に満たない短躯、不細工な顔、体力はないが、相手の心を読み取り、話術に巧みだった。博覧強記・滑稽多弁で知られる。人の心をたくみに掴んだので、癖の多い稷下の学士のまとめ役が可能だったのでは…とのこと。斉の威王を諫めた「鳴かず飛ばず」の語は有名。

■商鞅(公孫鞅)<秦>
秦で法治主義を実践した人物。衛の人。魏の宰相・公叔ザ【やまいだれに坐】の執事をしていた。公叔ザが病の床に就き、魏の恵王が後任の推薦を頼むと、公叔ザは商鞅を薦めた。「もし商鞅を用いませんときは、彼を殺してください。他国に行けば災いとなります」と言い添えて。これを察した商鞅は、友人の范差と協力し、魏を脱して秦に向かった。
商鞅は秦の重臣・景監に取り入って要職に就き、法を整備した。法を重んじ、たとえ王族周辺の人物であっても、法に触れれば罰した。太子が法を破ったので、その傅(お守役)の公子虔を鼻削ぎの刑、師の公孫賈をいれずみの刑にした。これ以降、人々は恐れて、法を遵守するようになった。これによって政敵も作ったが、この法整備が秦による天下統一を可能にしたといわれる。
斉の孫ピンが魏のホウ涓を破った馬陵の戦いに乗じて、商鞅は魏に出兵、大勝を収めた。魏の恵王は、商鞅を逃したことを歯噛みして悔しがった。
商鞅を信任していた秦の孝公が死んだ。常々商鞅を憎んでいた公子虔は、同志を集めて「商鞅に謀反の企みあり!」と言って追ってを差し向けた。商鞅は、国境の函谷関まで逃げた。関の周辺では、「旅券のない人はお泊めできません、罰せられます」と、自分の作った法に足を引っ張られ、なんとか魏に逃げ込んだが追放され、秦軍に攻められて殺された。その死体は車裂きにされたという。
■公子虔<秦>
商鞅の法によって鼻削ぎの刑を受け、商鞅を憎む。商鞅は、近侍の范差を送り込んで公子虔を懐柔しようとしたが、范差は公子虔を憐れんで肩入れをした。公子虔は商鞅を憎み続け、君主の孝公が死ぬと、公子虔は商鞅に恨みを持つ人々を集めて、商鞅を討った。
■范差
商鞅の友人(部下に近いかも)。商鞅が魏の恵王のもとから逃れるときも、恵王を言いくるめて、商鞅殺害を思いとどまらせた。商鞅とともに秦に落ち着き、ここでも商鞅の腹心として働いた。鼻削ぎにされた公子虔のもとに送り込まれたとき、公子の立場に同情し、公子たちが商鞅失脚の計画を立てていることを知っても、それを商鞅に報告しなかった。結果、商鞅は失脚した。
■秦の孝公<秦>
秦の君主。商鞅を信任し、秦を法治国家化させた。
■秦の恵王<秦>
孝公の後の秦の君主。見せしめのために、商鞅の死体を車裂きにした。


…戦国時代のメモも長くなってきたので(笑)、またスレッド分けます。
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# by huangque | 2005-12-22 03:09 | 本めも

小説十八史略メモ【春秋2】

『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


春秋時代のメモが長くなりすぎたので、春秋時代の呉越関連の人物をこちらに分けてメモします…。斉の桓公・晋の文公関連の人物は下のスレッドです。


【春秋・呉越関係人物】
■伍子胥<呉>
もとは楚の人。父の伍奢と兄の伍尚が楚の平王に殺される。平王の子の太子建、そして建の遺児・勝とともに各地を放浪した末に、呉の公子光(後の呉王闔閭:コウリョ)に仕える。後、呉軍を率いて楚の都・郢(えい)を攻略し、既に死んでいた楚の平王の死体を掘り出して鞭打ち、積年の恨みを晴らした。闔閭の死後に即位した夫差と馬が合わず、自殺を命じられた。「わが死体の目をくり抜いて呉の都城の東門に置け。越が呉を滅ぼすのを見てやるわ!」と言って自殺した。伍子胥の遺体は皮袋に入れられて長江に捨てられた。
■申包胥<楚>
伍子胥の親友。伍子胥が楚を出るとき、「俺は楚をひっくり返してやる」と言うと、申包胥は「ならば俺は楚を再興させよう」と言った。後、伍子胥・孫武らの呉軍が楚の首都・郢を陥とした。申包胥は秦に援軍を請い、拒否されても7日間飲まず食わずで秦の宮殿前で哭き続けた。ついに折れた秦の哀公は楚に兵を与え、楚は呉を撃退した。
■楚の平王<楚>
息子の建の嫁にしようと思っていた秦の王女が好みの美人だったので、家臣の費無忌にそそのかされて自分でもらってしまう。建もこれを知っていたので、平王はその逆襲を恐れ、建のお守役であった伍奢(伍子胥の父)と建を殺そうとした。建は亡命し、伍奢は殺害された。
■費無忌<楚>
もと、太子建の少傅(お守役の副担当)。太子建に取り入るよりは平王に付いた方がいい身分になれる、と考え、秦の王女を平王に薦めることでご機嫌を取った。加えて、太子建一派が権力を握れぬように…と、建と、その太傅だった伍奢を讒言した。平王の死後誅殺される。
■太子建<楚>
楚の平王の子。父に疎まれ、宋に亡命。その後は伍子胥とともに晋・鄭を渡り歩く。晋の頃公に「鄭に入り内応してくれぬか」とそそのかされ、建は承諾するが、事を起こす前に露見した。鄭の宰相・公孫僑(子産)が鄭の定公に建の殺害を勧めた。建の死後、伍子胥は建の子・勝を連れて鄭を出た。
■鄭の定公<鄭>
楚から逃げてきた太子建を手厚く保護する。後、建が恩義を裏切って晋に応じようとしたので、宰相の子産の勧めで建を殺した。
■季札<呉>
呉の寿夢(じゅぼう)の末子で、国内外で評判が高い人物。父の寿夢は季札を王にしたがったが、季札はあくまで辞退した。
■呉王僚<呉>
寿夢の三男である余昧の子。余昧が王だった頃、僚が補佐をしていたので、余昧の死後、そのまま王位も継いだ。嫡流である公子光(闔閭)はこれに不満を持っていた。公子光の宴席で、刺客の専諸に殺される。
■専諸
胆力・武芸に優れる。これを太子光に買われ、呉王僚暗殺の任を受ける。専諸は魚の姿焼きの中に匕首を忍ばせ、これを僚に差し出すと見せかけて匕首を抜き、僚を殺害した。無論、専諸も僚の衛兵に殺された。
■公子光(呉王闔閭)<呉>
寿夢の長男である諸樊の子。王位を継ぐはずの嫡流であるのに、傍流の僚に仕えているのが不満だった。伍子胥を参謀に得、専諸に僚を討たせて、呉王闔閭として立つ。大国楚を破るなど、呉の威信を高めた。越との戦いで、越の名将・范蠡(はんれい)の奇策にはまって負傷し、その傷がもとで死んだ。
■夫概<呉>
闔閭の弟。兄が楚の申包胥と戦っている隙に、呉の都で王を称す。勇将ではあるがやや自意識過剰で、結局取って返した闔閭に敗れて楚に亡命した。
■呉王夫差<呉>
呉王闔閭の子。父が越との戦いで死んだ後、越への復讐を誓い、近侍の者に「越に父を殺されたのを忘れたか!?」と言わせたり、薪の上に寝たりして復讐心を養った。父の死後3年にして越を会稽山に追い詰め、越王勾践は降伏した。伍子胥は勾践を殺せと言ったが、夫差は勾践を殺さずに生かした。これが夫差の命取りになる。
■越王勾践<越>
呉の南方にある越の王。越王允常の子。名臣范蠡の助けで呉王闔閭を討ったが、後、范蠡の諫言を聞かずに呉に攻め込み、大敗して会稽山に追い詰められた。范蠡が、呉の重臣(伯ヒ【喜+否】)を買収したり、自らが育てた美女の西施を呉王夫差のもとに送り込んで篭絡させたので、命ひとつは助かった。苦い肝を嘗めて復讐を誓い(さきの夫差の故事とともに「臥薪嘗胆」の語で有名)、表向きは恭順を装った。夫差が覇者たらんと野心を燃やし、精兵を率いて北に向かった時、ついに勾践は立ち、呉都を攻めて夫差の太子・友を殺した。その後も越は攻撃の手を緩めず、呉の都・姑蘇を包囲すること3年にして、夫差は自殺、呉は滅んだ。勾践は「会稽の恥」を雪いだのである。
■西施
越の范蠡が呉王夫差好みの性格に育てた美女。夫差はすっかり西施のとりこになって、越王勾践を助けたり、伍子胥を自殺に追い込んだり、宮殿建築に金を使って呉を疲弊させていった。夫差が自殺し、役目を果たした西施は、范蠡とともに越を離れたとか。
■范蠡<越>
伍子胥も警戒した越の名臣。勾践に様々な奇策を授け、ついに呉を滅亡に至らせた。「越王勾践は、苦難はともにできても楽しみはともにできぬ…」と言い、呉を滅ぼした後、西施とともに斉にゆき、商業を営んで大富豪となった。斉で宰相になって欲しいと言われると、財産を知人に分けて陶という地に移り、また富を築いた。「陶朱公」ともいわれる。
■大夫種(たいふしょう)<越>
范蠡と同様、窮地の勾践を援護し続けた名臣。呉を滅ぼした後、范蠡は越を去ったが、大夫種は越に残り、勾践に仕えた。「苦難はともにできても…」という范蠡の予測は当たっていて、勾践は次第に猜疑心を強め、功臣たる大夫種は勾践に疑われて自殺させられた。


…春秋時代のメモは以上。
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# by huangque | 2005-12-22 03:08 | 本めも

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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