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やっとこまとまった…

新元号初のサイト更新です…かつ、今年初めての更新です(…)。新元号早々の更新は狙った訳ではなく、たまたまアップできる状態にできたのが今日だっただけです…。

ちうことで、去年行った朱然墓のレポがやっとできました(>_<)。家族墓地博物館のサイトにあった、朱然墓と家族墓の簡報の概要にはそれなりに目を通して書いたつもりです…久々にこれでもかと中日辞典を引きました…。考古的用語が多くて難しい(>_<)。もっと載せたい写真もあったのですが、あれ以上は長すぎると思い自重。馬鞍山市博物館についても書きたかったのですが、次回レポに回します。

なお、朱然墓レポのページに描いた朱然の絵ですが、朱然墓から出土した諸々を一緒に描いてみました。描いたものはこんな感じ↓
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だいたいレポのページに写真を載せましたが、青銅器の水差しだけは載せてません。あんな感じの青銅器も出土してます。…しかし自分が描く無双朱然が全然朱然にならないのはどうすればいいんだろう; 朱然の平服は革鎧脱いだあれでいいと思います!!(主張) 呂蒙殿も同様。呂蒙殿は5衣装でもいい。凌統も防具取ればそれでいいと思う! …話が脱線している;

あと、今年の勝手に呉祭の一環で、前々からまとめていた呉のみなさんの官爵変遷一覧もアップしました! けっこうな人数をまとめたので、そろそろ上げてもいいだろう…。もともと自分の参考用に作ったもので、実は隠しページとして今までこっそりサイトに置いてました…。間違い等は例によってあると思いますが、最初の一歩の参考にはできるかと思います…思いたい。

あとは、今まで描いた絵をギャラリーに上げたりリンクを整理したり。リンクはどれくらいぶりに手を入れたんだろう…リンク切れもかなりあったので、リンクが生きてて面識のある方のサイトへのリンクだけ残しました。


次は中国旅行レポの続きをまた上げたいです。あとさすがにトップ絵を描きたい…1年半くらい変えてないので;;

# by huangque | 2019-05-01 22:15 | ■日記

10連休か…

あと一週間で連休…それなりに休みは貰えそうだ…。

連休あたりにはサイトを更新できるようにちまちま作業をしております。呉関連のコンテンツを上げて、あとは去年の中国旅行の朱然墓のページを上げたい…トーハクの三国志展もじわじわ近づいてるし!! 三国志展には何度行ってもいいぜ…という気分でいます。お知り合いさんが行くならついていきたい。今年は職場の鬼畜度が少し下がったので、東京に出やすくなったしな…今年も既に何度か展覧会を見に行ってます。お知り合いさんの絵の展示会とか顔真卿展とか奇想の系譜展とかに行ってきました。


トーハクの三国志展がむそ8とコラボっててステキですね! いい意味でゆるいトーハクさんが好きだ…またびじゅ○ューンともコラボしてほしい…(笑)。むそ8君主のアクキーがセットの前売券とかもあるようですが(自分は図録セットの前売券狙い)、他にもコラボグッズとかあるのかな? あるととても嬉しい…文具とかがあるといいなあ…。トーハクさんなら意表を突いた斜め上にも行きそうだけど(笑)。

三国志展公式サイトのむそ8コラボカウントダウンページ、今は朱然になってますね! 朱然の墓から出土した本物の漆器が来るのか…楽しみすぎる…。去年朱然墓に行って、家族墓地博物館も見てきたんですが、出土した漆器は貴重すぎるものなので、展示されていた漆器は全てレプリカだったんですよね…。ちなみに、三国志展公式サイトに上がっている漆器の盤のレプリカの写真はこちらです↓
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絵や字が見やすいように明るく加工してあります。下の二枚が例の盤のレプリカです。表(左)には細緻な絵、裏(右)には文字があります。この文字、トーハクのサイトだと「蜀郡牢」だと書いてあるのですが、朱然家族墓地博物館のサイトだと「蜀郡牢」だと書いてある…どっちが正しいんだろう…? 朱然の墓については、家族墓地博物館のサイトにすごく詳しい説明がありますので、気になる方はご覧になるとよいと思います…てか、つい最近まで博物館のサイトがあることを知らんかった…(お前);

去年の中国旅行記がなかなか上げられないのは、朱然家族墓地博物館の朱然墓の説明を読んでからページを作ろう…と思って読み始めたら詳しすぎて(あと普通に中国語に難儀していて;)読むのに骨が折れているっちうのも原因の一つです(笑)。でも、いろいろ目を通してみると面白い。朱然の墓の発見が、いろんな定説を覆した大発見だったんだーというのが分かってくる。


…カウントダウンに満寵のシルエットがないってことは、合肥新城で出土したものは来ないってことなのかな? 何か来るかなーと思ってたんですが(>_<)。

# by huangque | 2019-04-21 22:46 | ■日記

むーー

…徒然なるままに日記を書こうとすると、これといったタイトルが浮かばなくて困る…。で、今日みたいに謎の感動詞になったりする…。気づいたら前の日記から一か月経ってしまった; ここ一か月ほどは、時間があれば呉のみなさんの官職一覧をまとめたりしていました。例によって自己満足資料ですが、そのうち表立って公開できる形にしたいなーと思ってちまちま作業をしています。

大きな絵を描く根性がなかなか出ないのですが(…)小さめの絵は描いてたりします。
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普段やらない塗り方を試してみたかった陸遜。影を普段より濃い目にして、目と髪の塗り方を変えてみた。あとは補正とかテクスチャでごまかしてみたり…。。。目のハイライトの位置を変えるだけで、印象がずいぶん変わる気がする…。

あと、ありがたいことにご質問をいただいたのでご回答をここで…。
ぴくしぶとかついったーをやってるかどうかなのですが、ついったーはやってません。ぴくしぶはこちらです。サイトに上げた絵ばかりなので目新しさはほとんどありません…(稀に大き目の画像や差分がある程度です…)。そんな感じです!

# by huangque | 2019-03-24 22:19 | ■日記

久々らくがき

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平服凌統~あまり絵を描いてないのにいつぞやの満寵のポーズとかぶるバリエーションのなさ…(涙)。ピンクすぎたかもしれない。が、呉の軟派担当だし、いいか…(コラ)。
ちょっと余裕があったのでリハビリでらくがき。自分の絵柄がよく分からなくなってきたので(…)、プラスに考えていろんな描き方や塗り方を試してみたいところ。
あまぞんプライムでトリックが見られるようになったので、うっかり一日中見てしまった…おもろい…。新作スペシャル3に長野ネタがちょこちょこ仕込まれてるのがたまらん(笑)。
あ、あとなんとなくブログのスキン変えてみたでござる。

# by huangque | 2019-02-24 22:54 | ■日記
…また間が空いてしまいましたすみません; ぜんぜん呉祭ができてねえ…。。。でも、地道に調べ物はしていて、今年に入ってルーズリーフ30枚程度のメモを取っていたりします。使いどころが分からんメモだけど…(エッ)。

孫堅~孫策の頃の呉に詳しくなかったので、『資治通鑑』を見て時系列の確認をしながらまとめたりしていました。
そこでちょっと引っかかったのが、タイトルの荊州三郡について。この三郡というと、215年に孫権の命令で呂蒙が劉備側から奪取した三郡、というイメージが強いんですが、この三郡セットを孫堅~孫策の代の記事もチラチラ見かけたのです。


まずは孫堅が長沙太守となった頃。『通鑑』だと初平元(190)年あたり。
孫堅は長沙の区星の乱を平定して長沙太守となった後、零陵・桂陽の賊も討伐したとあります。例の三郡で反乱が起きて、孫堅がそれを鎮圧したっちうことになります。

孫堅はその後、なんやかんやあって荊州刺史の王叡を討ち(この王叡、孝子として有名な晋の王祥の伯父らしい…!)、董卓討伐に向かいます。で、王叡に代わって荊州刺史になった劉表が、董卓討伐をスルーして荊州に乗り込んできて、孫堅が平定した三郡を含む荊州を我がものとしたらしい。孫堅からすれば、自分が董卓討伐に行っているスキに、自分が平定した三郡を劉表に取られたようなものなのかも。


もう一か所が、『通鑑』建安3(198)年の記事。
長沙郡の人である桓階(魏志巻22に伝がある)が、劉表と仲が悪い長沙太守・張羨に対して「長沙・零陵・桂陽の三郡の力で劉表を撃退し、曹操と結ぶのがよい」的なことを進言してます。ここでも例の三郡がセットで出てきます。この三郡には孫堅の遺徳が残っており、だからこそ劉表に抵抗するにはこの三郡が相応しいのかなあ?などと妄想してしまいます。

なお、桓階は孫堅によって孝廉に推挙されたことがあり、孫堅が劉表の部将・黄祖により戦死した時は、その遺骸を引き取っています。彼のように、この三郡には孫堅に恩義を感じている人物が少なからずいたかもしれない…。


215年に孫権が、荊州の中でも特に長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取させたのは、このように孫家と縁の深い地だったからなのかなあ?などとも思ってしまいます。呂蒙が戦うまでもなく長沙・桂陽を降すことができたのも、もともと孫家にゆかりのある地だったから…なんて考えるのはナシでしょうかのう。


…などと、まあいろいろと妄想してしまいましたが(笑)、『資治通鑑』の184年~200年のあたりしか見てないので、後でこの考えが覆る可能性はあります。しかし、あの三郡が劉表が荊州を統治する前から孫堅と縁があったとは知らなかったなあ…。



【追記~】

…なんとなく『読史方輿紀要』(巻2・前漢の荊州刺史部んとこ)を見てたら、例の三郡の関係が分かった…孫堅の時代から400年も前から、あの三郡はつながっていたんだ…。

長沙・零陵・桂陽は、秦が郡県制を布いた際、もともと一つの郡(長沙郡)だったらしい。漢の文帝の頃から分裂してしまったらしいが、それまで50年くらい?はひとつの郡だった様子。たぶん、これがあの三郡がセットになってる所以だと思われる。あの三郡の関係は後漢末期の400年も前から始まってたんや…いや、もしかするともっと前の楚の頃から始まってるのかもしれんけど…。ちうか、そんなことが分かってしまう『読史~』がまたすげい…。

三郡と孫家(呉)の関係はまだ分からんけど、三郡がセットになってる理由に見当がついてすっきりした…。

『読史~』は時々見るのですが、見ていると呂蒙殿の見識の高さが分かるのもまた素敵。特に濡須塢の建設がいかに卓見であったかが分かる。あのあたりは後々「無為」なんて地名になるようなんだが(水滸伝にも出てきてた地名ですな)、それは曹操が濡須を攻めても「為すこと無く」退くしかなかったことがその由来らしい。だから無双8の濡須口の戦いで呉が負けた感じになるのがごにょごにょ(愚痴になるので以下省略)。

# by huangque | 2019-02-17 23:25 | 三国関連

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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