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明の「蒋欽」

澤田瑞穂『中国史談集』を読んでます。
まだ途中なのですが、明に「蒋欽」という人がいた…というのが気になって先にこれだけメモ。

三国志をご存知の方ならば「蒋欽」といえば呉の将を連想しますよね。
が、明にも同じ「蒋欽」という名の人物がいたそうです。
では、明の蒋欽がいかなる人物だったかというと…


蒋欽、字は子修、江蘇常熟の人。
当時、明の武宗(正徳帝)のもとで劉瑾を筆頭とする宦官たちが跳梁跋扈していた。宦官の専横を憎む正統派士人たちは「奸党」などと呼ばれて弾劾されたらしい。陽明学の祖・王守仁(陽明)も、この時に鞭打ちの刑に遭った上左遷されたとか。

蒋欽も、この「奸党」と呼ばれた士人に属し、命を落とすまで宦官一党に抵抗した人物。

ある時劉瑾に憎まれて棒打ちの上投獄され、南京御史の官職まで剥奪された。
やっと牢から出た後も、蒋欽の義心はくじけることなく、出獄後3日で「国賊劉瑾を誅殺し、その上私をも殺して劉瑾に謝すべし」と激烈な上奏文を書いている。やはり棒打ち30回の刑に処せられて投獄された。
が、それでも蒋欽の御史としての誇りは彼を衝き動かし、牢獄の中から、打たれた痛みに耐えながら、劉瑾を弾劾する上奏文を書き上げた。これを奉ればまた罰を受けるのは目に見えている。これが自分の最後の上奏文となろうという覚悟の上で、蒋欽は上奏文を獄吏に託した。

結局、蒋欽の上奏文が皇帝・武宗に届いたかは分からない。劉瑾の一党に握りつぶされたかもしれない。が、罰の棒打ちだけは三度蒋欽の身を襲った。
前回打たれた傷が癒えないままさらに打たれて、罰が終わった後の蒋欽は息も絶え絶えで、その後数日して、獄中で息を引き取ったという。

…以上が明の蒋欽に関する記述です。正義心の強い人物だったのですね…。


劉瑾の専横は、約5年間も続き、劉瑾の徒党でない者は皆何らかの被害をこうむったとか。また、劉瑾が遊び好きの武宗の気を引くために武宗の気に入りそうなものを作り、その資金作りのために搾取を行ったものだから、民は困窮に陥ったとか。

が、宦官同士の内訌で劉瑾はついに叛徒の罪を着せられ、一族もろとも処刑。劉瑾を憎む人々は、劉瑾の死体の肉を争って買って喰らい、溜飲を下げたとか…。

なお、劉瑾に反対した人物の中に、明の古文辞派の領袖として有名な李夢陽や康海、それに李東陽なんかも出てきて個人的にびっくり。名前を知ってても、経歴はよく知らなかったので。
以前ざっと中国の文学史を見たときに出てきた名前に、こんなところで再会できるとは…。
(古文辞派:秦・漢の文章と盛唐の詩を至上の文学とみなし、それに学んだ文学の一派らしい。)


さらに余談ですが…
劉瑾が縛に就いた後、劉瑾の罪を17条だの19条だのを書き上げた檄文やら上奏文が武宗に奉られたらしい。
ここでふと思い出したのが陸遜…。陸遜を憎んでいた(と思われる)楊竺がでっちあげた陸遜の罪状は、劉瑾の罪以上の20条にも及ぶんですよね…。

劉瑾は、政敵をことごとく排除し、武宗の歓心を買い、あるいは賄賂をむさぼり取ったり搾取を行って民衆を苦しめたりと好き放題悪逆の限りを尽くしたのだから、その罪状が多くても当然。
が、陸遜は社稷の臣としての忠誠を尽くし、悪逆非道を行ってはいないのに、劉瑾以上の数の罪をでっちあげられたということになります。

どれだけ楊竺が滅茶苦茶なでっちあげを行ったかが察せられるというものです。
by huangque | 2005-12-22 03:02 | 本めも

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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