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…また間が空いてしまいましたすみません; ぜんぜん呉祭ができてねえ…。。。でも、地道に調べ物はしていて、今年に入ってルーズリーフ30枚程度のメモを取っていたりします。使いどころが分からんメモだけど…(エッ)。

孫堅~孫策の頃の呉に詳しくなかったので、『資治通鑑』を見て時系列の確認をしながらまとめたりしていました。
そこでちょっと引っかかったのが、タイトルの荊州三郡について。この三郡というと、215年に孫権の命令で呂蒙が劉備側から奪取した三郡、というイメージが強いんですが、この三郡セットを孫堅~孫策の代の記事もチラチラ見かけたのです。


まずは孫堅が長沙太守となった頃。『通鑑』だと初平元(190)年あたり。
孫堅は長沙の区星の乱を平定して長沙太守となった後、零陵・桂陽の賊も討伐したとあります。例の三郡で反乱が起きて、孫堅がそれを鎮圧したっちうことになります。

孫堅はその後、なんやかんやあって荊州刺史の王叡を討ち(この王叡、孝子として有名な晋の王祥の伯父らしい…!)、董卓討伐に向かいます。で、王叡に代わって荊州刺史になった劉表が、董卓討伐をスルーして荊州に乗り込んできて、孫堅が平定した三郡を含む荊州を我がものとしたらしい。孫堅からすれば、自分が董卓討伐に行っているスキに、自分が平定した三郡を劉表に取られたようなものなのかも。


もう一か所が、『通鑑』建安3(198)年の記事。
長沙郡の人である桓階(魏志巻22に伝がある)が、劉表と仲が悪い長沙太守・張羨に対して「長沙・零陵・桂陽の三郡の力で劉表を撃退し、曹操と結ぶのがよい」的なことを進言してます。ここでも例の三郡がセットで出てきます。この三郡には孫堅の遺徳が残っており、だからこそ劉表に抵抗するにはこの三郡が相応しいのかなあ?などと妄想してしまいます。

なお、桓階は孫堅によって孝廉に推挙されたことがあり、孫堅が劉表の部将・黄祖により戦死した時は、その遺骸を引き取っています。彼のように、この三郡には孫堅に恩義を感じている人物が少なからずいたかもしれない…。


215年に孫権が、荊州の中でも特に長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取させたのは、このように孫家と縁の深い地だったからなのかなあ?などとも思ってしまいます。呂蒙が戦うまでもなく長沙・桂陽を降すことができたのも、もともと孫家にゆかりのある地だったから…なんて考えるのはナシでしょうかのう。


…などと、まあいろいろと妄想してしまいましたが(笑)、『資治通鑑』の184年~200年のあたりしか見てないので、後でこの考えが覆る可能性はあります。しかし、あの三郡が劉表が荊州を統治する前から孫堅と縁があったとは知らなかったなあ…。



【追記~】

…なんとなく『読史方輿紀要』(巻2・前漢の荊州刺史部んとこ)を見てたら、例の三郡の関係が分かった…孫堅の時代から400年も前から、あの三郡はつながっていたんだ…。

長沙・零陵・桂陽は、秦が郡県制を布いた際、もともと一つの郡(長沙郡)だったらしい。漢の文帝の頃から分裂してしまったらしいが、それまで50年くらい?はひとつの郡だった様子。たぶん、これがあの三郡がセットになってる所以だと思われる。あの三郡の関係は後漢末期の400年も前から始まってたんや…いや、もしかするともっと前の楚の頃から始まってるのかもしれんけど…。ちうか、そんなことが分かってしまう『読史~』がまたすげい…。

三郡と孫家(呉)の関係はまだ分からんけど、三郡がセットになってる理由に見当がついてすっきりした…。

『読史~』は時々見るのですが、見ていると呂蒙殿の見識の高さが分かるのもまた素敵。特に濡須塢の建設がいかに卓見であったかが分かる。あのあたりは後々「無為」なんて地名になるようなんだが(水滸伝にも出てきてた地名ですな)、それは曹操が濡須を攻めても「為すこと無く」退くしかなかったことがその由来らしい。だから無双8の濡須口の戦いで呉が負けた感じになるのがごにょごにょ(愚痴になるので以下省略)。

by huangque | 2019-02-17 23:25 | 三国関連
2019年ですね!! 呂蒙殿(と蒋欽と孫皎と陸績と関羽と夏侯淵と龐徳とかとか多すぎる;)の没後1800年ですね!!! ということで今年は勝手に地味にまったりと(…)ひとり呂蒙殿(とか呉)祭をやりたい所存です。

で、早速!
『読史方輿紀要』を見てたら呂蒙殿がらみの地名をけっこう見つけたのでまとめてみる!
以前見つけた呂蒙殿がらみの地名も『読史~』にあったものなのですが(青木定雄が作成した索引で調べた)、それ以外にもいくつかありました!


【丹陽付近】→駆け出しの頃、このあたりの反乱鎮圧に従事
呂城(『読史~』巻25、鎮江府ー丹陽県ー呂城)
呂蒙が築いたと言われ、(『読史~』が著された清の時点で)城壁も残っている様子。水運の要衝。


【廬江(晥城)付近】→晥城の戦いで魏の朱光を破り、その後廬江太守になっている
呂蒙城(巻26、安慶府ー懐寧県ー晥城)
『城邑考』なる文献によれば、呂蒙が晥に駐屯した時に築いたという。

呂蒙城(巻26、安慶府ー桐城県ー陰安城)
桐城県東南にあり、呂蒙が築いたと言われている。
※なお、桐城県の南の方には、魯粛が駐屯したといわれる「魯鎮城」という場所もあるらしい!
魯粛さんも実は晥城攻略に従軍していて、その後で横江将軍に任命されている(魯粛伝)。


呂亭(巻26、安慶府ー桐城県ー呂亭)
桐城県の北の方にある。呂蒙がかつてここに軍を駐留させたといわれている。

呉塘陂(巻26、安慶府ー潜山県ー呉塘陂)
呉陂堰ともいわれる。「魏志」にある、揚州刺史の劉馥が開いた「呉陂」がこれに当たるらしい。
魏の朱光と呉の呂蒙が争った場所がまさにここで、塘は朱光が造ったともいわれる。
あるいは、呂蒙がこの地に水を通し、300頃の稲田に水を注いだともいわれる。

※晥城のあたりにはやたらと呂蒙殿がらみの地名がありますな。呂蒙殿が築いたとされる城も複数あります。晥攻めの時の呂蒙殿は、土塁とか築かずに速攻!を主張してるので、晥を攻略して廬江太守になった後に、城を築いたり水田を開いたりしてるんでしょうね。


【沙羡付近】 →赤壁に近い。陸口や夏口にもちょっと近い
●呂蒙城(巻76、武昌府―嘉魚県―沙陽城) 嘉魚県=漢の沙羡県らしい。
嘉魚県の南西80里のとこにある。孫権が呂蒙を零陵に派遣した時、呂蒙がここに築いたものらしい。
『郡県志』なる文献によれば、呂蒙が荊州を平定した後に(215年の三郡奪取の方かな)ここを守ったらしい。
※この頃呂蒙殿は廬江太守なんだけど、廬江から長江を遡って荊州方面に行くなら、確かにこのあたりを通る。それ以外に沙羡と呂蒙殿の接点ってあるのかな…。


【公安・孱陵付近】 →荊州奪還後に孱陵侯に封ぜられる。公安で病気療養して没する
●呂蒙城(巻78、荊州府―公安県―馬頭城)
公安県の北25里のところにある。呂蒙が孱陵に駐屯した時、城を築いた。
※…とはいうものの、孱陵に駐屯したようなことは書いてないし、荊州奪還して孱陵侯に封ぜられてから没するまでに城を築いてる時間的余裕もあったんだろうか…; それとも江陵に攻め込む前のこと?? 孱陵は公安に近く、呂蒙殿は荊州奪還後に公安で療養してたから、その時に城を築いたのか…?でもやっぱり時間的な猶予がない;;
ちなみに孱陵の近くには、孫権の妹(=無双でいう孫尚香)が劉備との仲が悪くなったときに住んでた城があるらしいです。



【零陵付近】 →215年に孫権の命令で長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取
●呂蒙城(巻81、永州府―零陵県―応陽城)
呂蒙が(劉備側の)零陵太守・郝普を攻めた際、城を築いて攻撃を仕掛けた。


【烏程・故鄣付近】 →駆け出しの頃、この近くの広徳県の県長に任ぜられている
●呂山(巻91、湖州府―長興県―呂山)
長興県の南東20里のところにある。またの名を「程山」。呂蒙と程普が山賊を討伐した際に駐屯した。
※なんか、これと関係ありげな話が、同じ巻91の湖州府―帰安県―石城山の記事に引かれている(帰安県は烏程に該当)。張元之(張玄之)の『山墟名』なる文献によれば、厳白虎がここ(石城山)に石を積んで城を築き、呂蒙殿と戦ったらしい(私の持ってる、中華書局のやつの影印本だと、「呂蒙」が「石蒙」になってるけど笑)。呂蒙殿が厳白虎と戦った、なんていう記事は見たことがなかったんだけど、そんな話もあるのかー。
…と思ってたら、さんごくし集解の呂蒙伝に同じ話が引かれてた; ただし、集解だと(趙一清の(たぶん『三国志注補』の)また引きで)『(太平)寰宇記』巻94が出典になっている。


by huangque | 2019-01-01 02:19 | 三国関連

けんこう実録

…2018最後はこっちですすみません! 仕事納めでテンションが上がり、やっと書きあがった年賀状を吹雪の中投函してきてテンションがおかしくなり(…)、日記を書きたい衝動に駆られてしまった…。

まあ、たまたまネットで見つけた『建康実録』が面白かったというのが一番の動機です…。
むしろ今まで目を通していないあたり呉好きとしてアカンような気もするのですが(汗)、無双界隈だと練師の名前の出所だということで話題になっていたという印象が強い文献です。

『建康実録』は唐の許嵩という人物が編纂したもので、建康に都を置いた六朝の歴史を記したものらしい。
呂蒙殿の名前がちらっと見えたところを拾い読みしただけなので(…)全体的な信憑性の有無とかはよく分からんのですが(ネットで調べる分には信憑性がなさげなんだが…笑)、正史と違うことが書いてあって面白い。

たとえば、
・甘寧が濡須で曹操の陣営に夜襲を仕掛けたのは212年。(正史にははっきり書いてない。演義だと216-217年の濡須口の戦いでの出来事になってる。『資治通鑑』は213年のこととみなしている様子)
・甘寧が没したのは215年の冬。(正史を見る限り没年は特定できない)
・凌統が没したのは217年で、享年29。(正史だと享年49歳=237年没。ただしこれは正史の方が間違いだと思われる。『太平御覧』でも凌統の享年は29歳だと書いてあった)
・魯粛が没したのは218年秋。(正史だと217年)
・呂蒙の享年が40歳。(正史だと42歳)
・呂蒙殿が「南昌太守」なるものになってる(正史だと南郡太守。南郡太守と漢昌太守が混じって南昌太守になった???)
とかでしょうか。甘寧の没年がこうもハッキリ書いてあるのが衝撃だった…ちうか、没年が思いのほか早くてびっくりした…。

個人的に一番ツボに入ったのが合肥の戦いの記事ですかね…。
『実録』だと、合肥の戦いは216年の出来事ってことになってます(正史では215年)。
孫権が合肥から撤退を始め、1000人程度の兵とともに残っていたところを張遼に襲われるという筋は同じなんですが、張遼に襲われる前にのんきに将軍たちと宴会を開いてたって書いてあって…ま、まじか(笑)。のんきな宴会のせいで、凌統が手塩にかけて育てた兵が全滅したとか、そんなん嫌や…。正史だと、孫権以外に凌統・呂蒙・甘寧・蒋欽といった錚々たる呉の将も一緒にいることになってるんだけど、その連中ものんきに宴会やってたとか嫌や…(『実録』に従うならば甘寧は不在っちうことになるけど)。呂蒙殿の戦歴で唯一の手痛い敗戦の原因がのんきな宴会とかマジで嫌や…(笑)。張遼のかっこよさも2割くらい減になるから嫌や…。
窮地を脱した後、孫権が泣きながら血が出るまで指を噛んで生涯の戒めとした…みたいなことも書いてあるけど、確かにこれは大反省ものだよな…;

by huangque | 2018-12-28 22:33 | 三国関連
三国&春秋好きな方向けの雑感。

棒茄子が出るので、前々から欲しかったさんごくし集解を手に入れました。句読点を切ってあるのが欲しかったのですが見つからなかったので、影印本のやつをゲットしました。

で、ぺらぺらめくって虞翻伝あたりを見ていたら、自分的に衝撃的な注を発見してしまった!
虞翻伝で引かれていた『呉書』に対する注に士会の名前があって、何かと思って読んでみたら…于禁が魏に送還される際に虞翻が于禁に掛けた言葉が、繞朝が士会に掛けた言葉(@左伝)のパクリ引用だったらしい!!まじか!

試しに較べてみる↓
(左伝文公13年伝、繞朝→士会)
「無謂秦無人、吾謀適不用也。」
(呉書、虞翻→于禁)
「卿勿謂呉無人、吾謀適不用耳。」
これは…繞朝の台詞を踏まえてますわ…。

…でも、これって于禁に対してすごく優しい言葉をかけてるようにも見える…。繞朝が士会に掛けた言葉を引用して、虞翻が于禁に話しかけたってことは、于禁を士会になぞらえてるってことっすよね?

于禁と士会が置かれてる状況も何気に似てる…士会は思いがけない事情で祖国の晋から秦に逃れていたし、于禁も思いがけない大雨で関羽に敗れて捕虜になって呉にいた訳で…本人というよりはそれ以外の要因で自国を離れるはめになったあたりが似てる。

また、左伝文公13年の繞朝の台詞の少し前のところでは、郤缺が士会について「(秦に逃れたことについて)罪無し」と言ってる。しかも士会は、晋に帰国した後は最終的に晋のトップの執政になってる…。

つまり、于禁を士会になぞらえてるってことは、于禁に罪はないし、将来は国に戻って立派に出世することを期待している…という意味が込められてるようにも見えるってことです。そう考えると、虞翻は于禁に対してすごく優しいせりふを掛けたように見えるのです。

…でもなー、その言葉の前後の内容を見るに、やっぱり虞翻は于禁に対して冷たいので(笑)、そこまでの意味はないのかなあ? 繞朝の台詞を引く前のとこで、虞翻は孫権に「于禁を処刑した方がいい」って言ってますし。でも魏に帰った後の于禁のことを考えると、そちらの方が于禁の尊厳を損なわないような気もする…。于禁の死を単に望んでるようにも見えるし、国に帰って非業の死を遂げることを見越して于禁の尊厳を保とうとしてるようにも見える…どっちなんだろう。普段の虞翻の言動からすると前者なんだけど(笑)、後者のように考えるのもアリかなーと思います。
by huangque | 2018-07-04 22:43 | 三国関連
d0130026_10541928.jpg無双好きさん向け人物列伝に朱然を足しておきました。ブログの右にもリンクが貼ってありますので、そこからも飛べます。字を大きめにしました…新パソ子で見たら異様に字が小さかったので;;
列伝自体は5日前に更新したんですが、列伝を更新しただけでこたつで寝てしまって、その後は病気で…司馬昭病という重篤な病に侵されて(…)、ついさっきトップページの更新なんかもやりました…すみません;; 右には列伝に使った絵の加工前のものを上げてみました。加工後の絵とそう違いはないんですが…; もとの衣装を少しアレンジしました。できれば髪型も結髪なんかにしたかったんですが、あの髪型で結髪は無理だった…;



以下は言い訳。
前半部分に無駄な部分が多いと自分でも思っています…酒乱の学友の話なんかは特に(笑)。ただ、濡須口の戦いは、自分の中では「呂蒙殿が朱然を認めたきっかけの戦い」という位置づけなので、周泰なんかも巻き込んで(笑)少し長めにしました。

荊州奪還後に孫権が呂蒙殿を見舞った話も長めですが、これは「呉国創業の功臣が病にかかった際、孫権が最も心を砕いたのが呂蒙と凌統で、朱然はそれに次いだ」という、列伝の最後にも引いた正史の一節を分かりやすくするために分量を割きました。権ちゃんが最も心を砕くとストーカーレベルになるということは示しておかなければいけないと思ったのです(笑)。

朱然の戦歴で最も華々しいのはやはり223年の江陵防衛戦なので、そこは詳しく書きました。その後、江夏方面や襄陽方面にたびたび攻め込んでいるのですが、江陵防衛戦と比べると地味なので割愛。246年の柤中攻めは面白いかもですが。この前に呉で裏切者が出て、孫権はだいぶキレてたらしいのですが、朱然が柤中攻めに向かう前に「この戦いで勝って、殿のご立腹を解いてやりますよ☆」的な手紙を送り、その言葉通りに勝利を収めてきた、なんて話です。

朱然といったら何と言っても墓!なので(…)墓の話も知ってる限りで入れました。『中国文明史図説5・魏晋南北朝』篇に、朱然の墓から出土した漆器の写真がいくつか載ってました。小洒落た食器やお盆や箱なんかが載ってます。この本に載ってる漆器は全部朱然の墓から出たやつ(だと思う)。
ちうか、この本によると、周魴やその子の周処の墓なんかも出土してるって書いてあるー! 周魴の墓から出た磁器の写真なんかも載ってますよ!やだ!(何) 墓っていうと朱然の墓の話はよく見聞きするんだけど、周魴の墓も出てるんじゃんか…! 周魴・周処の墓も有名なのかな…私が無知で知らなかっただけか…。
…朱然の話に戻ると、この本には朱然の名刺は載ってないんですが、他の呉の人(高栄という人物)の名刺が載ってます。朱然の名刺と内容はほぼ同じ。
朱然の名刺は、大三国志展のカタログ(←頂きもの)に載ってました。3種類載ってます。名刺って他人に書かせないっすよね…朱然の直筆ですよね…?? なお、こちらのカタログには、朱然墓から出土した漆器のレプリカの写真が載ってました。カタログの前についている解説には、朱然墓から出土した文物の重要性に触れているものもありました。…このカタログに載ってる漆器も全部朱然の墓から出たやつ(だと思う)。

列伝のほかに詳細的なページを作るのがお約束になっていますが、今回作るかどうかは、まだ考え中。作るとしたら江陵について語るページになるかもしれない…。先日、年末の棒茄子をはたいて読.史.方.輿.紀.要を手に入れたので、江陵の歴史について調べるのも多少容易なのだ…。江陵=郢(楚の都)だと思ってましたが、この本によると違うんですねえ…江陵は、楚の渚宮であって郢ではないらしい。
by huangque | 2014-03-22 11:34 | 三国関連

絵なしですみませぬ

どうも絵を描く余裕がなかとです!(涙) 気分的に余裕がないですね~…。


絵は描いてませんが、調べ物はいろいろやってました。正史の朱然の記事を拾ってまとめる作業が終わりました。ベースは自分なりに固めたので、ちまちま人物列伝の記事を書き始めたいです。


朱然伝もなかなか謎が多かったですな…たとえば、
・朱然伝だと227年に石陽を攻めたとあるんですが、どうもそれが間違ってて226年が正しい様子(呉主伝、明帝紀によると)。
で、石陽攻めが226年だとすると、韓当の没年に影響があるんだよなぁ…。韓当は227年没だ、と書いてあるのをよく見かけるのですが、彼は石陽攻めの時には既に没してるんですよね…(←石陽攻めの際、息子(韓綜)が喪に服していた、と「韓当伝」にある)。つまり、韓当は226年に没していると考えなければならない…。
・また朱然伝では242(赤烏5)年に柤中を攻めたとあるんですが、それに対応する他の記事がなくて、裴注に引かれてる『異同評』は237年じゃないの?と言ってるけどその意見にもどうも納得できなくて、もうよく分からん!
…という感じになって…といったことがちょくちょくありました。朱然伝にある242年の柤中攻めは、自分としては241年の樊城包囲戦のことを言ってるんじゃないかと思ってるんですが…。柤中は樊城に近く、樊城に向かう途中で通るようなので、同じ出来事を言ってるんじゃないかと。


朱然といえば、二宮の変が起こった後にも存命だったので、あの件に何かしら関わっていそうなんですが、どうしてたんでしょうかね…息子(朱績=施績)は孫和派に属しますが、本人の動向は謎。呂壱事件に関しては「内政の事は知らないんで」なんて感じで陸遜と潘濬にたらい回しにしてましたが(笑)、そんなスタンスだったんでしょうかのう。晩年は病気で2年も臥せってたらしいから、身動きが取れなかったのかもしれないけど(その割に没する前年に江陵に城壁を築いてるが…)。行政手腕ではなくて勇猛果敢さを評価されている人なので、本人もそんな理解で、敢えて政治向きのことに深入りしなかったのかなあ。


もう一つ、朱然と言えば孫権と一緒に勉強した学友コンビですが、胡綜という人も孫権と一緒に学問をしたことがあるようなので、3人で勉強してたのかもー。で、この胡綜、孫権に負けず劣らずの酒乱だったらしい(笑)。学友同士で一緒に酒でも…なんてことになったら、朱然一人でとばっちり喰らってたんだろうなー(笑)。
by huangque | 2014-02-09 23:34 | 三国関連

個人的めも

正史をチラ見して気付いた事をメモっておこう…

・歩氏について(歩騭なんかの)
歩騭伝の注に、歩騭の祖先は晋の大夫の揚という人で、歩という地を邑として賜った的なことが書いてあるのですが、これって郤至の祖父(かつ郤シュウの父)に当たる歩揚じゃないのかい…? 晋の大夫だし、揚ちう名だし、歩邑を賜ってるから歩揚という訳だし…。つまり歩騭の歩氏って、郤氏から分かれたんじゃないのかい…?
郤氏は晋で滅ぼされてるので、その子孫がいるのかどうか分からんけど(これが問題だ…;)、郤至の弟の郤毅(歩毅と書かれてる箇所もあったよな)が殺されたとは左伝なんかには書いてないし、もしかすると彼の子孫が歩騭…なんて、妄想したらダメでしょうかっ!?

ちなみに朱然はもともと施氏ですが、施氏っていうと魯にいたよなー。郤シュウ(に要請された声伯)に嫁さんを取られた(…)施孝叔なんていたなー。
by huangque | 2014-01-29 23:10 | 三国関連
【2009.04.09の日記】


正史三国志(呂蒙伝)で、呂蒙殿が魯粛と論議している時、魯粛の意見を聞いた後に「あなたのご意見は何故穣侯(秦の魏冄(ぎぜん))の主張に沿うものばかりなのでしょう…」とか言っている件で。

この「穣侯の主張」というのがどんな主張なのかがよく分からんところだったのですが、魏冄を蹴落として秦の宰相になった范雎(はんしょ)の意見と対比させてみればなんとなく話が通じる気がしてきた。
范雎は「遠交近攻」論者で、その論を以て秦王(昭襄王)の心を掴み、魏冄に代わって丞相になったらしいのですが(すんません戦国時代はあんまり詳しくないのでけっこうアバウトなのです;)、裏を返せば魏冄は「遠交近攻」の逆、つまりは近い国と仲良くして遠くの国を攻めるというのを基本方針にしていたともいえる。

つまり、「穣侯の主張」というのは、近くと親密にすることで、劉備と結ぶことを指しているのかもしれない。と思った。それだけです(エエッ)。
…っていうか、魏冄は史記に列伝が立ってるんだから(范雎もな)、それを読みなさいという話ですよね…ちゃんと訳本を持ってるのですよ…。でも読むのめんどくs(コラ)

しかし、みやぎたにさんの『戦国名臣列伝』の魏冄がほんまかっこええー
溢れる才覚を持っているのに、それを発揮せずに腰を据えて時が来るのを待つことができるあたりがほんま。先見の明がある人だからこそ待つことができるんだよな…いくら才能があっても、目の前のことばかりに囚われて驀進すれば、そのうち足元を掬われる。先を見据えていないから。

* * *
keyword: 【呂蒙】
by huangque | 2011-01-01 05:05 | 三国関連

樊城の水攻めの前例

【2009.04.09の日記】


バイト中にみやぎたにさんの『戦国名臣列伝』を読み返している。
(*中国の戦国時代です…ややこしやー)

秦の白起のあたりを読んでいたのですが…白起が楚の副都の鄢(えん)という地を水攻めにしたということが書いてあってですね…その鄢(三国時代だと宜城という地に当たるくさい)という地が樊城にかなり近かったりしてですね…あの辺昔からどんだけ水攻めしやすいんだよ!とか思ったりして…(関羽も樊城を水浸しにしました)。
いずれも漢水(という川)のほとりなので、川の水を引っ張ってくれば水攻めもやりやすいのかもしれないけど、同じような場所で関羽のみならず白起まで水攻めをやっていたと知って、なんだかテンションが上がりました。

ちなみに、白起は夷陵を燃やしてもいるらしい…陸遜より先に白起がやってたのか…(笑)。みやぎたにさんの本によれば、夷陵は楚の陵墓がある土地のようですので、戦略的に火計がしやすかったのか、それとも墓を燃やすという行為に特別な意味があったのかは、私には分かりません。
by huangque | 2011-01-01 05:00 | 三国関連
【2009.03.19の日記】


前の日記で『三国志平話』の転生譚について書きましたが、これを元ネタにした短編小説もあるようです。
明の馮夢龍という人が書いた『喩世明言』という短編集の中に「鬧陰司司馬貌断獄」というのがあるのですがそれです。

話の筋はだいたい『平話』と同じ流れですが、かなり詳細に書きこまれてます。主人公の名は司馬貌、字は重湘。『平話』の主人公は「司馬仲相」なので、氏が同じ別人のようですが、「仲相」と「重湘」は、中国語で発音すると同じか酷似しているはず。いずれにしろ、彼があの世の裁判を見事にやってのけて、彼が司馬仲達に転生して三国を統一するという話には変わりありません。

が、『平話』では司馬さんに課せられた案件は1つだけだったのに、『喩世~』では4件の案件を裁いてます。したがって、登場人物も増えていて、『平話』では韓信、英布、彭越、劉邦、呂后、蒯通(<この人が諸葛亮に転生する)くらいしか出てこなかったのに、蕭何・樊噲・項羽・項伯・雍歯・紀信…などなど、もっといっぱい楚漢がらみの人たちが出てきて、司馬重湘の裁きを受け、三国時代に転生してます。


*   *   *


【2009.03.22の日記】


『喩世明言』にある「鬧陰司司馬貌断獄」という話が語る転生譚で、楚漢攻防期の誰が、三国時代の誰に転生したかについて。

『三国志平話』にある転生譚では、既に書いた通り、韓信→曹操、彭越→劉備、英布→孫権、劉邦→献帝、呂后→伏皇后、蒯通→諸葛亮 となっており、「鬧陰司~」の方でもこれは共通。しかし、さらに多くの人物が転生することになってます。以下、「鬧陰司~」の転生話のネタバレ。無駄に伏字にしておきます(笑)。

・蕭何→楊脩
(韓信を劉邦に推薦したのを賞して、生まれ変わった後は曹操の下で才覚を発揮して栄耀を得るが、韓信を殺す策を立てたので、韓信の生まれ変わりである曹操に殺されることになったらしい)

・許復→龐統
(許復は、韓信の寿命を占った人らしい。それが外れたので(ただし韓信の悪行によって寿命が縮んだらしいのだが)、韓信と同じ32歳で予期せず死ぬことになるらしい…が、龐統って32歳だったか…? 35だよな…)

・樊噲→張飛
(ぱっと見…?笑  豪快な人といったらこの人、という感じですね)

・項羽→関羽
(安直に名前つながり…笑。もとい、項羽の「羽」は名ではなく字ですが。)

・紀信→趙雲
(紀信って、劉邦の身代わりになって死んだ人でしたっけ…。忠義に死んだのに賞与を受けられなかったので、趙雲に生まれ変わらせて、受けるべきだった誉れを受けさせてくれたんだそうです)

・戚氏→甘夫人
(戚氏は劉邦の妾。美人。それを呂后に妬まれて、言葉に書くのも恐ろしい刑戮を受けるという…あの、人豚の件です…。)

・如意→劉禅
(如意は戚氏の子。劉邦が皇太子にしてくれると言っていたのに、呂后に反故にされた。皇太子になれなかった分、来世で劉禅に転生して、富貴を受けられるようにしたんだそうです)

・丁公→周瑜
(丁公は、もと項羽の将で、劉邦を助けたのだが、劉邦が天下を統一した時に殺されたらしい。全然知らんのですこの人のこと…。項羽に最後まで仕えられなかったので、周瑜となって生まれ変わった後も孫権に最後まで仕えられず、志半ばで死ぬことになるらしい…が、よく分からん理屈だ…(笑))

・項伯・雍歯→顔良・文醜
(ふたりとも項羽に背いたので、項羽の生まれ変わりである関羽に斬られなさい、だそうで)

・楊喜・王エイ・夏広・呂勝・楊武・呂馬童→ベン喜・王植・孔秀・韓福・秦キ・蔡陽
(こいつらも項羽に負い目がある人物たちなので関羽に斬られなさいと…。この6人は、関羽の五関突破の際に殺された人物たち)

で、これを判決した司馬重湘と、その妻である汪氏は、司馬懿とその妻に生まれ変わるということになってます。なんか滅茶苦茶な気もしますが(笑)もし興味がございましたら、『喩世明言』をご覧ください~。お察しかと思いますが、史実ではなく演義が話のベースになっているみたいですね。
…しかし、楚漢攻防期に詳しくなくて、たいした解説をつけられなくてすみません;;
by huangque | 2011-01-01 04:55 | 三国関連

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


by huangque