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からの~ リトル三国志

リアル三国志を満喫した翌日は「リトル三国志」ですよ!

ちうことで台東区の書道博物館へ。
書道博物館では現在、夏休み時期に合わせて古代文字の世界を紹介する子供向け展示を企画してらっさるのですが、トーハクの三国志展に合わせた三国志関連の作品の展示も行われています。という訳で書道博物館の「リトル三国志」(公称)も見に行ってきたとです!


書道博物館といえばゆるい注意書きで一時期話題になってたらしいのですが(顔真卿展のときにいろいろ調べていたときに知った)、入口に着いたところからこんな感じです。書道博物館さんの手にかかれば、「写真撮影禁止」が

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こうなる(笑)。センスが素敵すぎる…。
あと、これを書いた人を多分私は知っている…たぶん、自分が大学の書道部に所属していた時に、部員全員がお世話になった方だ…。すごく面倒見のいい方で、ろくにサークル活動に行っていなかった(…)私にも、印を彫ってくだすったりしました(印はまだ大事に持ってますよ)。あの方ならなんか納得する(笑)。

ということで三国志展とは違って写真撮影禁止なので、注意書きを撮ったところで「そだね~」ってことでデジカメをしまって中に入ります。
エントランスにはコインロッカー(無料)もあって、おのぼりさんにはとてもありがたいです。荷物を預けて静かな館内をゆっくり見て回りました。


企画展の「漢字のなりたち ―古代文字の世界―」は子供向けではありますが、大人でも十分見ごたえがあります。キャプションの内容はやさしい言葉でふりがなも付けられていますが、展示されているものは逸品ぞろい。

展示内容は公式サイトなどでも見られますが、甲骨文字や青銅器、碑文の拓本など。殷~三国時代の古めの文物がメインです。甲骨文字がこれでもかと見られます。

個人的にけっこうツボだったのは、後漢の「武氏祠石闕画像銘」(拓本)です。トーハク三国志展にも曹操高陵の画像石の一部が出てましたが、全景はこんな感じになるんだと思います。でかい。
で、この画像石の拓本をよく見たら、三段目のゾーンが刺客列伝になってるらしいのがかろうじて分かってテンションが上がった! 曹沫・専諸・要離・荊軻・予譲なんかの暗殺シーンが描いてあります。よって、曹沫に脅されている斉の桓公とおまけの管仲、荊軻と秦王政(始皇帝)・秦舞陽・樊於期(の首)、予譲に上衣を渡した趙無恤なんかも描かれてますので、春秋戦国好きや刺客好きの方(?)は楽しめると思います。説明の中で趙無恤が「カタキ」って紹介されてたのがなんかツボでした(笑)。
なお、前の記事で曹操高陵から出た画像磚をご紹介しましたが、そのうちの
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こちらの磚に描かれた人物について、三国志展図録で「武氏祠の画像磚の雷神の表現と共通している」的なことが書いてあったんですが、その「武氏祠の画像磚」の絵がたぶん、書道博物館のコレではないかと…。探せばその雷神がいるかもしれない…。


他にも青銅器・有名な作品の拓本(石鼓文とか泰山刻石とか)・秦の権(おもり)なども展示されてましたが、詳細を語るだけの知識がないので(…)割愛。


2階の中村不折記念室がリトル三国志の展示室になってました。こっちの文物についていくつかメモ。

■上尊号碑(拓本)(魏)
曹丕に皇帝即位を勧める内容の上奏文。魏の有名人の名前がいっぱいありました。覚えてるのは華歆・賈詡・曹真・夏侯尚あたりかな…。あと「輔」という名と「若」という名の人がいたが(名前は「華歆」とかではなく「臣歆」と書いてあるので判然としない)、これは鮮于輔と劉若かな? 官職名との照合ができればもっと分かると思うのですが、魏にそんなに詳しくない自分にはこの程度が限度。
…調べたら原文があった…(簡体字)。この冒頭部が拓本で見られるのですが、他には王朗・曹仁・王忠(たぶん)・高柔(たぶん)・曹休の名前もあるっぽい…。「秋」というのが誰だか分からない;

■薦季直表(拓本)(魏)
鍾繇の書もありますよ~。書道の教科書にもよく載ってるやつ。丸っこくてかわいい感じの楷書。

■三体石経(魏)
古文・篆書・隷書の三体で儒教の経文を記した碑。各文字が三つの書体で書かれていて、字体の違う同じ漢字が三つ並んでいる。読みづらそう…。

■谷朗碑(拓本)(呉)
呉の碑は珍しいらしいのですが、その拓本。谷利と関係がある人なのかなあ? ちゃんと見なかったのが悔やまれる…。

■封禅国山碑(拓本)(呉)
こちらも呉の碑の拓本。『三国職官表』で時々見かけた「国山碑」はこれのことなんだろうなあ。正史に見えない人の名前なんかも載ってるっぽい。ちゃんと見なかったのg(略)。…知らずに行くともったいないことになるなあ;

■玄莫帖(拓本)(蜀)
諸葛亮の筆跡だという二行の文がある。「玄莫~」で本文が始まるのでそう呼ばれる。諸葛亮の字の左側には魏の梁鵠の字もありまする。

■三国志呉志第二十残巻
これが見たかった!! 世界最古級の『三国志』の写本といわれる逸品。呉志第二十は『三国志』の最終巻。韋曜(昭)伝の最後のあたりと華カク伝の頭あたりの部分が残っています。韋昭の名前はやっぱり「韋曜」になってるんだなあ。あと、呉の最後の皇帝の孫コウのコウの字が「晧」(偏が日)なのか「皓」(偏が白)なのか最近混乱してたんですが(…)、こちらの残巻だと「晧」(偏が日の方)になってた…。
呉志第二十の残巻は来月4日までの展示で、その後呉志第十二の残巻に切り替わりますので、呉志第二十を見たい方はお早めに。呉志第十二は虞翻伝の部分ですね…虞翻先生の于禁イジメの場面が見られるようです(よりによってなんちう部分が残ったんだか…;)。


企画展だけでもこんな感じで大変満足できるんですが、本館の方の常設展もすごかった…甲骨文・青銅器・碑・塼・印などがごろごろ置いてある。トーハク三国志展で展示されている熹平石経(書道博物館のは魯詩・公羊伝とかの部分)・鎮墓瓶・刻字塼(リトル三国志展の方にもある)・神獣鏡のお仲間も見られます! 三国志展とハシゴするのもおススメ。館内の注意書きを見るのも楽しいっす(笑)! ゆっくりマイペースに見られるのも嬉しい。


こうやって書いてみると記憶が曖昧な部分が多いので、やっぱりもう一回三国志展→書道博物館を巡らないといかんな…。呉志の展示替えの後にまた行こう…。

by huangque | 2019-07-23 00:10 | 三国関連

リアル三国志じゃあ~

だいぶ前になりますが、以前の日記で言ってた通り13日に三国志展行ってきましたー! 例によって渦巻殿にパワハラを行使して(…)ご一緒してもらいました。いつもありがとう~! ランチビュッフェを楽しんでから三国志展に行きました。ワインも飲み放題の孫権大歓喜コース(笑)だったんですが、途中でワインが(一時的に)切れてたりしましてね…張昭の罠かと思った(笑)。張昭さんの差し金(?)もあったので、お酒はほどほどにして三国志展に行きましたです。


最初の土曜だったので行列になってたらどうしよう…と心配だったのですが、入場待ちもなくスムーズに入れました。中も思ったほど混雑してなかった…2月に行った顔真卿展は尋常でなく混んでて、そんな感じだったらどうしようかと思ってたのでよかった…。

事前に図録を購入して予習済みだったので、見るべきポイントはなんとなく掴めていたと思います。やはり予習は大事だな…。写真も撮れるので、図録にはないような角度から写真を撮ってみたり、図録に別の写真が掲載されてしまっている(公式の正誤表参照)文物を撮ってみたりしました。

展示されている文物はパッと見インパクトがある物があまり多くないので、ところどころに展示されている横光三国志の原画や人形劇の人形がいいアクセントになっていたと思います。リアル路線からは外れてますが、テレビや漫画が入口の方も楽しめる工夫にもなってる気がします。


ではでは、個人的にツボった展示をいくつかご紹介~


「会稽曹君喪軀」磚(塼)(作品番号11、以下カッコ内の番号は作品番号だと思ってくらさい)
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『三国志の考古学』で言及されていたので気になっていたもの。厚みがわかるように横の方から撮ってみた。曹氏一族墓からは様々な刻字塼が出土しており、これもその一つ。「喪軀」の二字は後で書き足したのか、左下に肩身狭そうに書いてあるんですね~。字も簡略…「軀」とか言われなきゃ読めぬ。


酒樽(26)
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図録だと見えない内部も細かな模様が施されてます。素敵。上蓋の内部にも同じような模様があります。


童子図盤(55)
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去年朱然墓に行った時はレプリカしか見られなかったけど、本物がお越しですぜ…朱然の棺の傍で1700年以上眠っていた本物ですぜ…目の前で拝めるなんてありがたやありがたや。しかし1700年以上の時を経たとは思われない状態のよさ。思ったよりも小ぶりな盤で、小皿という感じ。


犬(95)
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蜀犬日に吠ゆ、なんて言うが、そんなチンケな感じではない…かなりでかい。顔つきもだいぶリアル。
晋の霊公が飼ってた猛犬のゴウってこんな感じなんだろうなーと思った…これならちょーとんさんを食い殺せそうですわ…(唐突に春秋)。


「童子史綽」名刺(103)
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図録には1枚しか載ってませんが、史綽の名刺(木刺)が5枚来てました! このうち「童子史綽」と書いてあるのは左の2枚。史綽の名刺については『三国志の考古学』でも取り上げられていて、それによれば「童子」という称のある名刺はこの史綽のものが一例あるだけらしい。レア名刺。


次は文物じゃないんですが、曹操高陵を原寸大で再現した空間もあるんですよ!! 

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人様があまり写ってない写真を選びましたが…。
自分が唯一見たことがある朱然の墓と較べると…広いし高い! 魏王が葬られるに相応しい広大さを実感できます。いい仕事すぎる。
高陵ゾーンの入口が墓の東側に当たります。東側に墓の入口があるのは曹氏一族墓も同じで、曹氏の墓の特徴になってるようです。写真左側にはれんがを積み上げた塼室側面も再現されてます。朱然の墓のれんがの積み方とは違うなあ。れんがの積み方も、地域とか時期によって特徴が違うんだろうか。
なお、写真やや左の四角錐状の屋根を持つ空間が後室なんですが、そこには最近発見された白磁くんが鎮座してますよ!


画像磚(138)
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曹操高陵内で見つかった画像磚のかけら。写真の磚には大きなひびが入ってますが、図録にはひびの右側の写真だけが載っていて、左側の写真はありません。市松模様みたいな柄があるんですねえ。
高陵にはこのような破片だけではなく、大き目の画像磚もあったようです。ただし盗掘されて持ち出されてしまったらしい。そのうち4点ほどは奪還済みとのこと(詳細は『三国志の考古学』参照)。
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こちらの「白虎仁」の磚は、その4点の大型画像磚の一つ「義人趙宣行善図」と呼ばれる磚の一部と考えられているらしいっす。「義人趙宣」というのは春秋好きの方ならご存知・猛犬ゴウに襲われかけた春秋晋の趙宣子=われらが(?)趙盾さんです(笑)。飢えていた霊輒(画像磚だと「零輙」と書いてあるらしい)を助けた場面が磚に描かれてるのです。その磚の最下段に動物がいっぱい描かれていて、この白虎もその一部と考えられるみたいです。


特に印象深いのはだいたい以上ですかね…。2時間半くらい見て回ったでしょうか。派手な文物は少ないですが、展示のしかたがさすがなので、見ごたえは十分に感じられました。見そびれた文物があるのでまた行きます…高陵の石牌を見そびれるとか間抜けすぎるぅ…(涙)。


最後に。矢がすげい飛んでるゾーンに無双キャラのシルエットパネルが貼ってあったりしたんですが、
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どこのどなたがどういうチョイスをなさったのかさだかではありませんがほんとうにありがとうございます

by huangque | 2019-07-21 21:33 | 三国関連
いよいよ今日から三国志展開幕だ~いえい! 13日の講演会には落ちてしまったんですが(涙)、当落が出る前にホテルを予約してもーたので(笑)13日に上京します…。館内で写真が撮れるのがいいですね! デジカメを忘れずに持参しなければ…。


三国志展に向けていろいろと予習をしてます。
6月末に東方書店から出た『三国志の考古学』は読了。考古に関しては素人なのでちんぷんかんぷんだったのですが(汗)、曹氏一族の墓と曹操高陵の解説は難しいながらも興味深かったです。朱然にからめた名刺の話も面白かった。朱然の名刺は、本人自筆のものを模した明器の可能性もあるのね…。朱然の墓については、れんがの積み方とか「富且貴 至万世」の文が入ったれんがの話とかも期待してたんだけど、れんが関係の話はなかった…紙面の都合もあると思いますが残念。またそのうち自分用メモのページを作ろうと思ってます。三国志展に出展される文物もいっぱい出てくるので、三国志展の予習にはうってつけの本だと思います。


三国志展の図録も買いました! こちらはまだ半分くらいしか目を通してませんが…(遅)。『三国志の考古学』のおかげで、なかなか貴重な文物が来ることも分かった。しかし誤字が多い…士燮さん(三国の)の名前がやたらとヘンなことになってるのは許せぬ(笑)。公式でも正誤表が出てましたな…写真の取り違えはけっこう致命的なミスな気がするが、何の写真と取り違えたんだろうか…。おおきい画像がほしいです…。

なお、正誤表以外にも誤りがあったので、気付いたところを下に挙げておきます。矢印の左が誤、右が訂正後。

・(p27上段)杏園村一号墓→董園村一号墓 …玉豚が出土した墓。p57ではちゃんと董園村一号墓に直っている。『三国志の考古学』第一章も参照。曹氏一族墓に「杏園村一号墓」という墓はなさげ
・(p40)範県→范県 …「范」を「範」の簡体字だと勘違いして直している気がする…士会の封邑とされる范のあたりのことだと思うんだけど(唐突に春秋)。だから「范」のままでいいのでは。これは確証はないっす。自分が勘違いしてたらすみません…
・(p43)三顧草盧→三顧草廬 …「いおり」の意味の字はまだれが付く
・(p51)貂蟬(しょうぜん)→貂蟬(ちょうせん) …ふりがなの誤り。「貂」を「ショウ」と読むのには何か根拠があるんだろうか…大漢和を確認しても「チョウ」という音しかない。「蟬」を「ゼン」と読むのは呉音読み、「セン」と読むのは漢音読みっぽい(by漢辞海)。つまり貂蟬=「チョウセン」が一般的な読みとなるはず。
あと、公式ツイッターで蔡邕に「さいゆう」とふりがなが振ってあったけど、正しくは「さいよう」だよな…大漢和を確認しても「邕」に「ユウ」という音はない
・(p51)蔡帽→蔡瑁 …蔡瑁なら別にいいか…と思ってしまう(演義のイメージ) 会場のキャプションも「蔡帽」になってたなあ…蔡瑁なら(略)
・(p56)巧臣→功臣 …ごく単純な誤字の類
・(p111地図・112地図・p120地図)士變→士燮 …變=「変」の旧字。間違い方があんまりでござる…(涙)
・(p115地図)士樊→士燮 …「変」と間違われるよりはこっちの方がまだ…(五十歩百歩)
・(p131)曹休の印 …印影が左右反転してるのでは?
・(p201)刺士→刺史 …「刺士」ってのは見たことがないのでたぶん…
・(p249)健康→建康 …やりがちなヘルシーなミス
・(p255)合肥新城の戦い→合肥の戦い …川本人形の甘寧の説明部分。もしかすると人形劇にそういう場面があるかもなのですが(<人形劇は見たことがない)、甘寧が合肥新城の戦いに参加するのは正史や演義ではありえない…
・(p258上段)建安九年(二〇四)、曹操は官渡の戦いで袁紹を破ると、献帝を擁して実権を握った。…鄴城に拠点を移して… …これらの出来事が全て204年の出来事のように読めるんだけど、武帝紀を見ると「官渡の戦いで袁紹を破る」=200年、「献帝を擁し(て実権を握った)」=196年、「鄴城に拠点を移して」=204年
・(p275下段)曹睿→曹叡 …普通はこちらだと思うのですが…
・(p281上段)曹崇→曹嵩 …正誤表で曹嵩の名前は訂正されてるが、もう一か所誤字がありました

…講演会に落ちた私怨(…)があるとはいえ、自分のことを棚に上げた揚げ足取りが我ながらヒドイ(すみません)。でも、トーハクさんで出してる図録にこんなに間違いがあるのは、いろんな意味で気がかりではある…。

by huangque | 2019-07-09 00:20 | 三国関連
…また間が空いてしまいましたすみません; ぜんぜん呉祭ができてねえ…。。。でも、地道に調べ物はしていて、今年に入ってルーズリーフ30枚程度のメモを取っていたりします。使いどころが分からんメモだけど…(エッ)。

孫堅~孫策の頃の呉に詳しくなかったので、『資治通鑑』を見て時系列の確認をしながらまとめたりしていました。
そこでちょっと引っかかったのが、タイトルの荊州三郡について。この三郡というと、215年に孫権の命令で呂蒙が劉備側から奪取した三郡、というイメージが強いんですが、この三郡セットを孫堅~孫策の代の記事もチラチラ見かけたのです。


まずは孫堅が長沙太守となった頃。『通鑑』だと初平元(190)年あたり。
孫堅は長沙の区星の乱を平定して長沙太守となった後、零陵・桂陽の賊も討伐したとあります。例の三郡で反乱が起きて、孫堅がそれを鎮圧したっちうことになります。

孫堅はその後、なんやかんやあって荊州刺史の王叡を討ち(この王叡、孝子として有名な晋の王祥の伯父らしい…!)、董卓討伐に向かいます。で、王叡に代わって荊州刺史になった劉表が、董卓討伐をスルーして荊州に乗り込んできて、孫堅が平定した三郡を含む荊州を我がものとしたらしい。孫堅からすれば、自分が董卓討伐に行っているスキに、自分が平定した三郡を劉表に取られたようなものなのかも。


もう一か所が、『通鑑』建安3(198)年の記事。
長沙郡の人である桓階(魏志巻22に伝がある)が、劉表と仲が悪い長沙太守・張羨に対して「長沙・零陵・桂陽の三郡の力で劉表を撃退し、曹操と結ぶのがよい」的なことを進言してます。ここでも例の三郡がセットで出てきます。この三郡には孫堅の遺徳があり、だからこそ劉表に抵抗するにはこの三郡が相応しいのかなあ?などと妄想してしまいます。

なお、桓階は孫堅によって孝廉に推挙されたことがあり、孫堅が劉表の部将・黄祖により戦死した時は、その遺骸を引き取っています。彼のように、この三郡には孫堅に恩義を感じている人物が少なからずいたかもしれない…。


215年に孫権が、荊州の中でも特に長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取させたのは、このように孫家と縁の深い地だったからなのかなあ?などとも思ってしまいます。呂蒙が戦うまでもなく長沙・桂陽を降すことができたのも、もともと孫家にゆかりのある地だったから…なんて考えるのはナシでしょうかのう。


…などと、まあいろいろと妄想してしまいましたが(笑)、『資治通鑑』の184年~200年のあたりしか見てないので、後でこの考えが覆る可能性はあります。しかし、あの三郡が劉表が荊州を統治する前から孫堅と縁があったとは知らなかったなあ…。



【追記~】

…なんとなく『読史方輿紀要』(巻2・前漢の荊州刺史部んとこ)を見てたら、例の三郡の関係が分かった…孫堅の時代から400年も前から、あの三郡はつながっていたんだ…。

長沙・零陵・桂陽は、秦が郡県制を布いた際、もともと一つの郡(長沙郡)だったらしい。漢の文帝の頃から分裂してしまったらしいが、それまで50年くらい?はひとつの郡だった様子。たぶん、これがあの三郡がセットになってる所以だと思われる。あの三郡の関係は後漢末期の400年も前から始まってたんや…いや、もしかするともっと前の楚の頃から始まってるのかもしれんけど…。ちうか、そんなことが分かってしまう『読史~』がまたすげい…。

三郡と孫家(呉)の関係はまだ分からんけど、三郡がセットになってる理由に見当がついてすっきりした…。

『読史~』は時々見るのですが、見ていると呂蒙殿の見識の高さが分かるのもまた素敵。特に濡須塢の建設がいかに卓見であったかが分かる。あのあたりは後々「無為」なんて地名になるようなんだが(水滸伝にも出てきてた地名ですな)、それは曹操が濡須を攻めても「為すこと無く」退くしかなかったことがその由来らしい。だから無双8の濡須口の戦いで呉が負けた感じになるのがごにょごにょ(愚痴になるので以下省略)。

by huangque | 2019-02-17 23:25 | 三国関連
2019年ですね!! 呂蒙殿(と蒋欽と孫皎と陸績と関羽と夏侯淵と龐徳とかとか多すぎる;)の没後1800年ですね!!! ということで今年は勝手に地味にまったりと(…)ひとり呂蒙殿(とか呉)祭をやりたい所存です。

で、早速!
『読史方輿紀要』を見てたら呂蒙殿がらみの地名をけっこう見つけたのでまとめてみる!
以前見つけた呂蒙殿がらみの地名も『読史~』にあったものなのですが(青木定雄が作成した索引で調べた)、それ以外にもいくつかありました!


【丹陽付近】→駆け出しの頃、このあたりの反乱鎮圧に従事
呂城(『読史~』巻25、鎮江府ー丹陽県ー呂城)
呂蒙が築いたと言われ、(『読史~』が著された清の時点で)城壁も残っている様子。水運の要衝。


【廬江(皖城)付近】→皖城の戦いで魏の朱光を破り、その後廬江太守になっている
呂蒙城(巻26、安慶府ー懐寧県ー皖城)
『城邑考』なる文献によれば、呂蒙が皖城に駐屯した時に築いたという。

呂蒙城(巻26、安慶府ー桐城県ー陰安城)
桐城県東南にあり、呂蒙が築いたと言われている。
※なお、桐城県の南の方には、魯粛が駐屯したといわれる「魯鎮城」という場所もあるらしい!
魯粛さんも実は皖城攻略に従軍していて、その後で横江将軍に任命されている(魯粛伝)。


呂亭(巻26、安慶府ー桐城県ー呂亭)
桐城県の北の方にある。呂蒙がかつてここに軍を駐留させたといわれている。

呉塘陂(巻26、安慶府ー潜山県ー呉塘陂)
呉陂堰ともいわれる。「魏志」にある、揚州刺史の劉馥が開いた「呉陂」がこれに当たるらしい。
魏の朱光と呉の呂蒙が争った場所がまさにここで、塘は朱光が造ったともいわれる。
あるいは、呂蒙がこの地に水を通し、300頃の稲田に水を注いだともいわれる。

※皖城のあたりにはやたらと呂蒙殿がらみの地名がありますな。呂蒙殿が築いたとされる城も複数あります。皖攻めの時の呂蒙殿は、土塁とか築かずに速攻!を主張してるので、皖を攻略して廬江太守になった後に、城を築いたり水田を開いたりしてるんでしょうね。


【沙羡付近】 →赤壁に近い。陸口や夏口にもちょっと近い
●呂蒙城(巻76、武昌府―嘉魚県―沙陽城) 嘉魚県=漢の沙羡県らしい。
嘉魚県の南西80里のとこにある。孫権が呂蒙を零陵に派遣した時、呂蒙がここに築いたものらしい。
『郡県志』なる文献によれば、呂蒙が荊州を平定した後に(215年の三郡奪取の方かな)ここを守ったらしい。
※この頃呂蒙殿は廬江太守なんだけど、廬江から長江を遡って荊州方面に行くなら、確かにこのあたりを通る。それ以外に沙羡と呂蒙殿の接点ってあるのかな…。


【公安・孱陵付近】 →荊州奪還後に孱陵侯に封ぜられる。公安で病気療養して没する
●呂蒙城(巻78、荊州府―公安県―馬頭城)
公安県の北25里のところにある。呂蒙が孱陵に駐屯した時、城を築いた。
※…とはいうものの、孱陵に駐屯したようなことは書いてないし、荊州奪還して孱陵侯に封ぜられてから没するまでに城を築いてる時間的余裕もあったんだろうか…; それとも江陵に攻め込む前のこと?? 孱陵は公安に近く、呂蒙殿は荊州奪還後に公安で療養してたから、その時に城を築いたのか…?でもやっぱり時間的な猶予がない;;
ちなみに孱陵の近くには、孫権の妹(=無双でいう孫尚香)が劉備との仲が悪くなったときに住んでた城があるらしいです。



【零陵付近】 →215年に孫権の命令で長沙・零陵・桂陽の三郡を奪取
●呂蒙城(巻81、永州府―零陵県―応陽城)
呂蒙が(劉備側の)零陵太守・郝普を攻めた際、城を築いて攻撃を仕掛けた。


【烏程・故鄣付近】 →駆け出しの頃、この近くの広徳県の県長に任ぜられている
●呂山(巻91、湖州府―長興県―呂山)
長興県の南東20里のところにある。またの名を「程山」。呂蒙と程普が山賊を討伐した際に駐屯した。
※なんか、これと関係ありげな話が、同じ巻91の湖州府―帰安県―石城山の記事に引かれている(帰安県は烏程に該当)。張元之(張玄之)の『山墟名』なる文献によれば、厳白虎がここ(石城山)に石を積んで城を築き、呂蒙殿と戦ったらしい(私の持ってる、中華書局のやつの影印本だと、「呂蒙」が「石蒙」になってるけど笑)。呂蒙殿が厳白虎と戦った、なんていう記事は見たことがなかったんだけど、そんな話もあるのかー。
…と思ってたら、さんごくし集解の呂蒙伝に同じ話が引かれてた; ただし、集解だと(趙一清の(たぶん『三国志注補』の)また引きで)『(太平)寰宇記』巻94が出典になっている。


by huangque | 2019-01-01 02:19 | 三国関連

けんこう実録

…2018最後はこっちですすみません! 仕事納めでテンションが上がり、やっと書きあがった年賀状を吹雪の中投函してきてテンションがおかしくなり(…)、日記を書きたい衝動に駆られてしまった…。

まあ、たまたまネットで見つけた『建康実録』が面白かったというのが一番の動機です…。
むしろ今まで目を通していないあたり呉好きとしてアカンような気もするのですが(汗)、無双界隈だと練師の名前の出所だということで話題になっていたという印象が強い文献です。

『建康実録』は唐の許嵩という人物が編纂したもので、建康に都を置いた六朝の歴史を記したものらしい。
呂蒙殿の名前がちらっと見えたところを拾い読みしただけなので(…)全体的な信憑性の有無とかはよく分からんのですが(ネットで調べる分には信憑性がなさげなんだが…笑)、正史と違うことが書いてあって面白い。

たとえば、
・甘寧が濡須で曹操の陣営に夜襲を仕掛けたのは212年。(正史にははっきり書いてない。演義だと216-217年の濡須口の戦いでの出来事になってる。『資治通鑑』は213年のこととみなしている様子)
・甘寧が没したのは215年の冬。(正史を見る限り没年は特定できない)
・凌統が没したのは217年で、享年29。(正史だと享年49歳=237年没。ただしこれは正史の方が間違いだと思われる。『太平御覧』でも凌統の享年は29歳だと書いてあった)
・魯粛が没したのは218年秋。(正史だと217年)
・呂蒙の享年が40歳。(正史だと42歳)
・呂蒙殿が「南昌太守」なるものになってる(正史だと南郡太守。南郡太守と漢昌太守が混じって南昌太守になった???)
とかでしょうか。甘寧の没年がこうもハッキリ書いてあるのが衝撃だった…ちうか、没年が思いのほか早くてびっくりした…。

個人的に一番ツボに入ったのが合肥の戦いの記事ですかね…。
『実録』だと、合肥の戦いは216年の出来事ってことになってます(正史では215年)。
孫権が合肥から撤退を始め、1000人程度の兵とともに残っていたところを張遼に襲われるという筋は同じなんですが、張遼に襲われる前にのんきに将軍たちと宴会を開いてたって書いてあって…ま、まじか(笑)。のんきな宴会のせいで、凌統が手塩にかけて育てた兵が全滅したとか、そんなん嫌や…。正史だと、孫権以外に凌統・呂蒙・甘寧・蒋欽といった錚々たる呉の将も一緒にいることになってるんだけど、その連中ものんきに宴会やってたとか嫌や…(『実録』に従うならば甘寧は不在っちうことになるけど)。呂蒙殿の戦歴で唯一の手痛い敗戦の原因がのんきな宴会とかマジで嫌や…(笑)。張遼のかっこよさも2割くらい減になるから嫌や…。
窮地を脱した後、孫権が泣きながら血が出るまで指を噛んで生涯の戒めとした…みたいなことも書いてあるけど、確かにこれは大反省ものだよな…;

by huangque | 2018-12-28 22:33 | 三国関連
三国&春秋好きな方向けの雑感。

棒茄子が出るので、前々から欲しかったさんごくし集解を手に入れました。句読点を切ってあるのが欲しかったのですが見つからなかったので、影印本のやつをゲットしました。

で、ぺらぺらめくって虞翻伝あたりを見ていたら、自分的に衝撃的な注を発見してしまった!
虞翻伝で引かれていた『呉書』に対する注に士会の名前があって、何かと思って読んでみたら…于禁が魏に送還される際に虞翻が于禁に掛けた言葉が、繞朝が士会に掛けた言葉(@左伝)のパクリ引用だったらしい!!まじか!

試しに較べてみる↓
(左伝文公13年伝、繞朝→士会)
「無謂秦無人、吾謀適不用也。」
(呉書、虞翻→于禁)
「卿勿謂呉無人、吾謀適不用耳。」
これは…繞朝の台詞を踏まえてますわ…。

…でも、これって于禁に対してすごく優しい言葉をかけてるようにも見える…。繞朝が士会に掛けた言葉を引用して、虞翻が于禁に話しかけたってことは、于禁を士会になぞらえてるってことっすよね?

于禁と士会が置かれてる状況も何気に似てる…士会は思いがけない事情で祖国の晋から秦に逃れていたし、于禁も思いがけない大雨で関羽に敗れて捕虜になって呉にいた訳で…本人というよりはそれ以外の要因で自国を離れるはめになったあたりが似てる。

また、左伝文公13年の繞朝の台詞の少し前のところでは、郤缺が士会について「(秦に逃れたことについて)罪無し」と言ってる。しかも士会は、晋に帰国した後は最終的に晋のトップの執政になってる…。

つまり、于禁を士会になぞらえてるってことは、于禁に罪はないし、将来は国に戻って立派に出世することを期待している…という意味が込められてるようにも見えるってことです。そう考えると、虞翻は于禁に対してすごく優しいせりふを掛けたように見えるのです。

…でもなー、その言葉の前後の内容を見るに、やっぱり虞翻は于禁に対して冷たいので(笑)、そこまでの意味はないのかなあ? 繞朝の台詞を引く前のとこで、虞翻は孫権に「于禁を処刑した方がいい」って言ってますし。でも魏に帰った後の于禁のことを考えると、そちらの方が于禁の尊厳を損なわないような気もする…。于禁の死を単に望んでるようにも見えるし、国に帰って非業の死を遂げることを見越して于禁の尊厳を保とうとしてるようにも見える…どっちなんだろう。普段の虞翻の言動からすると前者なんだけど(笑)、後者のように考えるのもアリかなーと思います。
by huangque | 2018-07-04 22:43 | 三国関連
d0130026_10541928.jpg無双好きさん向け人物列伝に朱然を足しておきました。ブログの右にもリンクが貼ってありますので、そこからも飛べます。字を大きめにしました…新パソ子で見たら異様に字が小さかったので;;
列伝自体は5日前に更新したんですが、列伝を更新しただけでこたつで寝てしまって、その後は病気で…司馬昭病という重篤な病に侵されて(…)、ついさっきトップページの更新なんかもやりました…すみません;; 右には列伝に使った絵の加工前のものを上げてみました。加工後の絵とそう違いはないんですが…; もとの衣装を少しアレンジしました。できれば髪型も結髪なんかにしたかったんですが、あの髪型で結髪は無理だった…;



以下は言い訳。
前半部分に無駄な部分が多いと自分でも思っています…酒乱の学友の話なんかは特に(笑)。ただ、濡須口の戦いは、自分の中では「呂蒙殿が朱然を認めたきっかけの戦い」という位置づけなので、周泰なんかも巻き込んで(笑)少し長めにしました。

荊州奪還後に孫権が呂蒙殿を見舞った話も長めですが、これは「呉国創業の功臣が病にかかった際、孫権が最も心を砕いたのが呂蒙と凌統で、朱然はそれに次いだ」という、列伝の最後にも引いた正史の一節を分かりやすくするために分量を割きました。権ちゃんが最も心を砕くとストーカーレベルになるということは示しておかなければいけないと思ったのです(笑)。

朱然の戦歴で最も華々しいのはやはり223年の江陵防衛戦なので、そこは詳しく書きました。その後、江夏方面や襄陽方面にたびたび攻め込んでいるのですが、江陵防衛戦と比べると地味なので割愛。246年の柤中攻めは面白いかもですが。この前に呉で裏切者が出て、孫権はだいぶキレてたらしいのですが、朱然が柤中攻めに向かう前に「この戦いで勝って、殿のご立腹を解いてやりますよ☆」的な手紙を送り、その言葉通りに勝利を収めてきた、なんて話です。

朱然といったら何と言っても墓!なので(…)墓の話も知ってる限りで入れました。『中国文明史図説5・魏晋南北朝』篇に、朱然の墓から出土した漆器の写真がいくつか載ってました。小洒落た食器やお盆や箱なんかが載ってます。この本に載ってる漆器は全部朱然の墓から出たやつ(だと思う)。
ちうか、この本によると、周魴やその子の周処の墓なんかも出土してるって書いてあるー! 周魴の墓から出た磁器の写真なんかも載ってますよ!やだ!(何) 墓っていうと朱然の墓の話はよく見聞きするんだけど、周魴の墓も出てるんじゃんか…! 周魴・周処の墓も有名なのかな…私が無知で知らなかっただけか…。
…朱然の話に戻ると、この本には朱然の名刺は載ってないんですが、他の呉の人(高栄という人物)の名刺が載ってます。朱然の名刺と内容はほぼ同じ。
朱然の名刺は、大三国志展のカタログ(←頂きもの)に載ってました。3種類載ってます。名刺って他人に書かせないっすよね…朱然の直筆ですよね…?? なお、こちらのカタログには、朱然墓から出土した漆器のレプリカの写真が載ってました。カタログの前についている解説には、朱然墓から出土した文物の重要性に触れているものもありました。…このカタログに載ってる漆器も全部朱然の墓から出たやつ(だと思う)。

列伝のほかに詳細的なページを作るのがお約束になっていますが、今回作るかどうかは、まだ考え中。作るとしたら江陵について語るページになるかもしれない…。先日、年末の棒茄子をはたいて読.史.方.輿.紀.要を手に入れたので、江陵の歴史について調べるのも多少容易なのだ…。江陵=郢(楚の都)だと思ってましたが、この本によると違うんですねえ…江陵は、楚の渚宮であって郢ではないらしい。
by huangque | 2014-03-22 11:34 | 三国関連

朱然伝めも

【2014.02.09の日記】

正史の朱然の記事を拾ってまとめる作業が終わりました。ベースは自分なりに固めたので、ちまちま人物列伝の記事を書き始めたいです。


朱然伝もなかなか謎が多かったですな…たとえば、
・朱然伝だと227年に石陽を攻めたとあるんですが、どうもそれが間違ってて226年が正しい様子(呉主伝、明帝紀によると)。
で、石陽攻めが226年だとすると、韓当の没年に影響があるんだよなぁ…。韓当は227年没だ、と書いてあるのをよく見かけるのですが、彼は石陽攻めの時には既に没してるんですよね…(←石陽攻めの際、息子(韓綜)が喪に服していた、と「韓当伝」にある)。つまり、韓当は226年に没していると考えなければならない…。
・また朱然伝では242(赤烏5)年に柤中を攻めたとあるんですが、それに対応する他の記事がなくて、裴注に引かれてる『異同評』は237年じゃないの?と言ってるけどその意見にもどうも納得できなくて、もうよく分からん!
…という感じになって…といったことがちょくちょくありました。朱然伝にある242年の柤中攻めは、自分としては241年の樊城包囲戦のことを言ってるんじゃないかと思ってるんですが…。柤中は樊城に近く、樊城に向かう途中で通るようなので、同じ出来事を言ってるんじゃないかと。


朱然といえば、二宮の変が起こった後にも存命だったので、あの件に何かしら関わっていそうなんですが、どうしてたんでしょうかね…息子(朱績=施績)は孫和派に属しますが、本人の動向は謎。呂壱事件に関しては「内政の事は知らないんで」なんて感じで陸遜と潘濬にたらい回しにしてましたが(笑)、そんなスタンスだったんでしょうかのう。晩年は病気で2年も臥せってたらしいから、身動きが取れなかったのかもしれないけど(その割に没する前年に江陵に城壁を築いてるが…)。行政手腕ではなくて勇猛果敢さを評価されている人なので、本人もそんな理解で、敢えて政治向きのことに深入りしなかったのかなあ。


もう一つ、朱然と言えば孫権と一緒に勉強した学友コンビですが、胡綜という人も孫権と一緒に学問をしたことがあるようなので、3人で勉強してたのかもー。で、この胡綜、孫権に負けず劣らずの酒乱だったらしい(笑)。学友同士で一緒に酒でも…なんてことになったら、朱然一人でとばっちり喰らってたんだろうなー(笑)。

by huangque | 2011-01-01 08:15 | 三国関連

呉の歩氏について

【2014.01.29の日記】

歩騭伝の注に、歩騭の祖先は晋の大夫の揚という人で、歩という地を邑として賜った的なことが書いてあるのですが、これって郤至の祖父(かつ郤シュウの父)に当たる歩揚じゃないのかい…? 晋の大夫だし、揚ちう名だし、歩邑を賜ってるから歩揚という訳だし…。つまり歩騭の歩氏って、郤氏から分かれたんじゃないのかい…?
郤氏は晋で滅ぼされてるので、その子孫がいるのかどうか分からんけど(これが問題だ…;)、郤至の弟の郤毅(歩毅と書かれてる箇所もあったよな)が殺されたとは左伝なんかには書いてないし、もしかすると彼の子孫が歩騭…なんて、妄想したらダメでしょうかっ!?

ちなみに朱然はもともと施氏ですが、施氏っていうと魯にいたよなー。郤シュウ(に要請された声伯)に嫁さんを取られた(…)施孝叔なんていたなー。

by huangque | 2011-01-01 08:10 | 三国関連

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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