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『中国古代の民俗』

『中国古代の民俗』 白川静 講談社学術文庫 1980



一冊は白川さんの本を読んでおかないと…と思い、古本屋で見つけて買いました。
   …む、難しい!!!(笑)
白川さんといえば漢字学なんですが、もともとは『万葉集』も研究してらっしゃったんですよね…ずっと前にテレビで見た気がする。日本の古代歌謡である万葉と、中国の古代歌謡である『詩経』を比較しつつ論が展開します。引用してある『詩経』の文も難しいし、『万葉集』のことばも難しい。時々解釈を入れてくれますが、時々訳も解釈もなくて意味が取れず辟易しまくりです;;

内容は、本の裏表紙に説明してある通り。中国古代の民俗を明らかにするのが本書の目指すところで、その方法として、
・古代文字の構造から古代人の生活や思惟を考察
・古代歌謡としての詩篇(詩経など)の発想と表現手法から生活習俗を考察
・以上から考察できたものを、日本の民俗的事実と対応させつつ比較

以上三つの手法を通し、中国古代の民俗に迫っています。
ちなみに、本書中では、白川さんの前著である『中国古代の文化』に触れて、「これについては『中国古代の文化』で言及したので繰り返さない」と言って説明をスルーすることが幾度となくありますので(涙)、『文化』を読んでから『民俗』を読むのがいいのかもしれません…。ちなみに自分は『文化』は読んでません…。


白川さんの漢字解釈でいちばん印象的なのは、やはり「口」の解釈かと(第三章「言霊の思想」)。「口」を口耳のクチとするのが『説文解字』以来の解釈なのですが、白川さんは多くの甲骨文・金文を渉猟した結果、「口」を「サイ」と読み、祝詞を入れる器である、と新しい解釈を提供しています。

この理解に基づいて、「口(サイ)」が含まれた文字(告・言・吉…)や、「口(サイ)」の中の書物を開けた象形の「曰(エツ)」を含んだ文字(書・旨…)について解釈を加えています。この部分は、謎解きを見ているようで、難しいながらも面白い箇所でした。
たとえば「告」は、祝詞の入った「口(サイ)」の上に神木の枝を表す形象を乗せてサイが樹にかかっている形を表し、神に祝詞の内容を「告」げるさまを表すのだ、とか。


他にも、「詩の六義」(風・雅・頌・比・賦・興)のうち表現技法を言う比・賦・興のうちの興についての解釈も新鮮だったでしょうか。一般に、比=直喩、賦=直叙、興=暗喩 と理解されていますが、これについては諸説紛々らしく、今も昔も議論が絶えないとか。

白川さんの解釈では、「興」の字は「同(=同瑁を指す。酒器のこと)」を両手で捧げ持つ形で、聖所を清め地霊を招くために酒を地に注ぐカン【示+果】鬯(かんちょう)の礼の際、同で酒を注ぐ形。すなわち、「興」とは地霊を呼び起こすことだ、とのこと。詩の六義の一である「興」も、地霊を呼び起こし、その呪的な力を感受するための手法のことで、その地の地形や植生を詠み誉めることにより、その地の地霊の力を得ることができると考えられていたのではないか、とのこと。だと思います…すごく難しくてうまくまとまらぬ…(苦笑)。


他にも、『詩』などの古代歌謡に頻出するモチーフについての考察などは興味深いものでした。…読み通すだけで精一杯だったのでこれ以上まとめるのはしんどいのですが(…)、漢字や中国古代の風習について興味のある方は一読してみてもいいのではないかと思います。すみませんこんなまとめ方で…;;
by huangque | 2005-12-22 03:21 | 本めも
第四折は、第三折の20年後…趙氏孤児が復讐を果たせるであろう年齢に達した時になります。今までの内容をなぞる点も多々ありますが、第四折のあらすじを…。

*   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作

【第四折】
登場人物:
 程勃(=趙氏孤児)(正末)
 程嬰
 屠岸賈


趙氏孤児を巡る一連の事件が「趙氏孤児」の死をもって収束し、はや20年が経った。

その件で功のあった程嬰は屠岸賈の客となり、程嬰の子は屠岸賈の養子となって「屠成」と呼ばれた。「官名」(<未詳)は「程勃」という。程勃は、武については屠岸賈に学んで熟達し、文については程嬰に学んでいた。程勃は二人を父と思い、屠岸賈を「あちらの父」、程嬰を「こちらの父」と呼んで親しんでいた。

ある日、武術の稽古を終えた程勃は、「こちらの父」の程嬰に会いに行く。
が、見ると程嬰は、書斎で巻物を手にして思いつめた表情をしている。
実は程嬰は、程勃が二十歳になったので、そろそろ「真実」を教えて趙氏の仇を取らせねば…と思案を巡らせていたところだった。程勃が「趙氏孤児」であることを教える時期になったのである。程嬰が手にしている巻物は、今まで趙氏のために命を懸け、時に命を捧げた人々の姿を絵巻にまとめたものだった。

いつもならば、程勃が来ると嬉しそうにする程嬰なのに、今日に限っては程勃が話しかけても浮かぬ顔をしたまま。それどころか、程嬰は嘆息して目頭を押さえている。
いぶかしく思った程勃は、心配してその理由を尋ねるが、程嬰は答えない。程嬰は、「お前はここで書物を読んでおれ。私はしばらく奥に行く」と、手にした巻物をそっと置いて書斎を出る。

父が置いていった巻物に目を留めた程勃は、これは何だろう…と巻物を披いてみた。
そこには、赤い服の人物が紫の服の人物に向かって犬をけしかける絵、錘を持った人物がその犬を撃ち殺す絵、片方の車輪のない車を支える人物の絵、槐の樹に頭を打ちつけ自害している人物の絵…が綿々と描かれている。しかし、そこには名前が書かれておらず、それらの人物が一体どのような人か分からない。
さらに続きを見ると、弓の弦・毒酒・短刀を目の前にした人物が短刀で自害する絵、薬箱を捧げ持ち跪いた医者の前で自刎する将軍の絵、夫人が赤ちゃんを医者に預け、自縊する絵、白髪の老人が赤い服の男に殴られている絵が続いている。

赤い服の人物に対して怒りを燃やしつつ、一体これらの絵が何を描いたものか分からない程勃。そこに程嬰が戻ってきたので、程勃はこの絵巻について程嬰に尋ねた。

程嬰は、「これらは、お前と関係があるのだよ…」と、絵巻を指して説明を始める。
――槐の木の下で死んでいるのは、赤い服の人物から紫の服の人物の暗殺を命じられたが、紫の服の人物の忠誠心に打たれた刺客のショ【金+且】ゲイ【鹿+兒】。犬はゴウ【敖+犬】という猛犬で、赤い服の人物が紫の服の人物を殺すために調練したのだ。紫の服の人物に襲い掛かった犬を錘で打ち殺したのは、殿前太尉の提弥明。その場から逃げる紫の服の人物の乗った車を助けて走っているのは、以前紫の服の人物から食べ物を恵まれた霊輒という人だ――

話を聞いている程勃は、赤い服の人物に対して怒りを燃やしてその名を尋ねるが、程嬰は「忘れてしまった」と言ってその人物の名を明かさない。が、紫の服の人物は丞相だった趙盾といい、程勃と関係があるのだ…と教える。
さらに程嬰は説明を続ける。
――赤い服の人物は趙盾の一族を皆殺しにした。趙盾の子の趙朔は、弓の弦・毒酒・短刀を贈られ(暗に自害を命ぜられ、)、短刀で自害した。趙朔の妻の公主は宮殿に幽閉されたが、その間に男の子を生み、医者の程嬰という男にその「趙氏孤児」と呼ばれる赤ちゃんを託したのだ――

程勃が「その程嬰とは父上のことですか?」と尋ねるが、まだ程嬰は「世の中、同姓同名の人はたくさんいるよ」ととぼけて見せる。そして続けて、
――程嬰に趙氏孤児を託した公主は、自ら首をくくって死んでしまった。宮殿の門の見張りをしていた韓厥という将軍は、趙氏孤児を隠した程嬰を見咎めるが、趙氏孤児を見逃すため自刎した。程嬰は、かつて趙盾と同じ朝廷にいた公孫杵臼という老臣と相談し、程嬰の子を趙氏孤児とすりかえて赤い服の人物に密告した。赤い服の人物は、程嬰の子を趙氏孤児だと思って殺し、公孫杵臼も自害したのだ。
これらは20年前の出来事だ…今、趙氏孤児は20歳になっているのだよ――

聞き終わった程勃が、まるで夢の中のようでよく分からない、と言うと、程嬰はついに「なんと、まだ分からぬか!? 赤い服の男は奸臣の屠岸賈、趙盾はお前の祖父、趙朔は父、公主は母――あの医者の程嬰は私で、お前はあの趙氏孤児なのだ!」と言い放つ。
本当の父母は、父だと思っていた屠岸賈により自害を逼られ、また趙盾や自分のために多くの人が命を擲ったことを知った程勃…もとい趙氏孤児は、一時気が動転するが、正気を取り戻すと、まず程嬰に感謝し、父母らの命を奪い横暴の限りを尽くした屠岸賈を討とうと決意する。

(以上)

*   *   *

程嬰が、今までのことをすっかり程勃=趙氏孤児に話し、本当の仇が屠岸賈であることを教える――という幕です。程嬰の説明が、今までの内容と重複するので、多少くどかったかもしれません(これでもかなり省いたのですが…)。ただ、ショゲイと霊輒に関しては今までたいした説明がなかったのですが、この第四折で詳しく説明されています。

趙氏孤児は「屠成」と「程勃」という二つの名を持っているようですが…屠岸賈の前では「屠成」、程嬰の前では「程勃」と名乗ってたんでしょうか…よく分からんかったです。
劇の中では、趙氏孤児が登場した際は「某程勃是也」(わたしは程勃だ)と言っており、以下も「程勃」の方の名前しか出てきません。この幕の中で、趙氏孤児が程嬰と話してばかりで、屠岸賈と話す場面がないため、「程勃」で通してるのかな…。

話は逸れますが、趙氏孤児のように、「育ての親が実は自分の親の仇だった」というのは、『水滸伝』120回本にある田虎故事の、瓊英(石投げが得意な少女/笑)の生い立ちに似てるように思います。
趙氏孤児と瓊英、どちらが先にできたかといえば、趙氏孤児の方が先に成立したといえます(「趙氏孤児」は元に刊行された元曲集(『元刊雑劇三十種』)に収録されており、『水滸伝』は明の中葉の成立で、田虎故事はその中でも最も新しく書き加えられた段だと思われる。『元刊雑劇~』の「趙氏孤児」は、劇中の歌(曲牌)が部分的に残っているだけで、内容ははっきりと分からないのですが、こちらで紹介している『元曲選』のあらすじと、それほど大きな差異もないかと思います)。
わ、私は…瓊英と張清のらぶらぶ話は苦手じゃ…(笑)。
…と、ほんとに話が逸れました(笑)。

次の幕、第五折がいよいよラストです。
もともとこの劇は第四折までで(『元刊雑劇三十種』は四折まで)、その後ハッピーエンドにするために第五折が付け加えられたらしいのですが。
by huangque | 2005-12-22 03:18 | 本めも
引き続き元曲「趙氏孤児」第三折のあらすじを。
今までも、趙朔・公主・韓厥が次々自害して激しい展開でしたが、第三折がいちばん過激な気がします…。屠岸賈が鬼畜です。血も涙もないです。
そして、この劇一番のクライマックスの幕だと思います。殊に後半は…。

さて第二折では、趙氏孤児を救うため、命がけの策を考え出した程嬰と公孫杵臼。
第三折では、その策がついに実行に移されます。


*   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作

【第三折】
登場人物:
 公孫杵臼(正末)
 程嬰
 屠岸賈


公孫杵臼に我が子を渡し、策の詳細を打ち合わせて帰ってきた程嬰。
その翌日、程嬰は屠岸賈の役所の門を敲き、「趙氏孤児の居場所を知っています」と告げる。
趙氏孤児が見つからず、国中の嬰児を殺すぞと息巻いていた屠岸賈は、その報告を聞いて早速程嬰と面会する。

屠岸賈に趙氏孤児の居場所を問われた程嬰は、「公孫杵臼が匿っております」と答える。
が、屠岸賈は「嘘を言え!! 貴様と杵臼には何の恨みもないのに、杵臼を密告する筈があるか!? 嘘ならば利剣で貴様を斬り捨てるぞ!」と食って掛かる(←案外読みが鋭い屠岸賈)。
程嬰の方は冷静に答える。
「私と杵臼には何の恨みもありません。が、私には生まれたばかりの子がおります。元帥(屠岸賈)は、趙氏孤児が見つからなければ国中の嬰児を殺すと命じられました。我が子と、晋の嬰児たちを守るため、孤児の居場所をお知らせしたのです」
その理由に納得し、かつ趙盾と昵懇だった杵臼ならば趙氏孤児を匿うこともありうる…と思った屠岸賈は、程嬰の言葉を信じ、部下を従え程嬰を引き連れて公孫杵臼のいる太平荘に急行する。

屠岸賈は、太平荘に着くと、早速公孫杵臼を捕らえて自白を迫る。しかし、公孫杵臼は「孤児とはどの孤児ですか?」としらばっくれて見せる。棒打ちにして拷問しても杵臼が口を割らないので、屠岸賈は程嬰に命じて杵臼を打たせる(非道だ屠岸賈っ…!)。
程嬰は「私は医者ですのでそんなことは…」と最初はためらうが、ここで屠岸賈に疑われる訳にはいかず、棒を執って公孫杵臼を打つ。杵臼は程嬰を罵りつつ、ついに自供を始める。しかし、程嬰がこの件にからんでいることだけは白状しない。

屠岸賈・程嬰・杵臼がごたごたしているうちに、屠岸賈の部下がついに趙氏孤児(=本当は程嬰の子。第二折参照)を見つけ出す。屠岸賈は笑い、自らの剣で「趙氏孤児」を斬り殺す。程嬰も思わず心痛を表に出し、涙を流す。
悲嘆した公孫杵臼は、屠岸賈を罵り、階段に頭を打ち付けて自害する。

ついに趙氏孤児を殺し、後顧の憂いを絶った屠岸賈は、これは程嬰の功であると褒め、程嬰を客分としてもてなし、その子をともに育てることにする。

(以上)

*   *   *

…もちろん、最後に出てきた「程嬰の子」こそ、本物の趙氏孤児です。つまり、仇の下で育てられることになったんですね。
次の幕の第四折は、この事件から20年後、趙氏孤児が大人になった後になります。趙朔・公主・韓厥・公孫杵臼、そして程嬰が命を懸けて守った趙氏孤児は、一族の敵である屠岸賈――仇であり、育ての親――を討つことができるのか。

第三折は、「趙氏孤児」(程嬰の子)が屠岸賈に斬り殺されるあたりがいちばんのクライマックスかと思います。その場面には程嬰の台詞はなく、程嬰のしぐさ――心痛するしぐさとか、涙を流して顔を覆うしぐさとか――だけが書き込まれてます。それがまた、目の前で子を斬り殺された父の心の痛みを感じさせるというか…。
拷問をこらえて、最後には自害する公孫杵臼も壮絶ですね…。
by huangque | 2005-12-22 03:17 | 本めも
引き続き、元曲「趙氏孤児」第二折。
公主から趙氏孤児を託された程嬰が、韓厥の助力を得て趙氏孤児を宮殿から逃して…の続きになりますね。

この幕には公孫杵臼が登場~! 杵臼がこの幕の主人公です。
程嬰と公孫杵臼が、趙氏孤児を救うため策を練る場面です。


*   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作

【第二折】
登場人物:
 公孫杵臼(正末)
 程嬰
 屠岸賈

さて、屠岸賈。
いつになっても趙氏孤児が送られてこないので、どうも安心できない。そこで部下に様子を見に行かせると、なんと宮殿では公主が首を吊り、門では韓厥が自刎して果てているという。

韓厥が趙氏孤児を見逃したな…と考えた屠岸賈は、すぐさま次の手を打つ。
すなわち、晋の国中の、生まれて6ヶ月以下・1ヶ月以上の赤ちゃんを全員逮捕して斬って捨てれば、その中に趙氏孤児がいるはずだから、孤児を殺すことができると考えたのだ(血も涙もありません屠岸賈)。
屠岸賈は、赤ちゃんを差し出せという命令を下し、これに逆らう者は一族皆殺しだ!と脅し文句を加えて国中に発布する。

さて、場面は太平荘という地に移る。
ここには公孫杵臼が住んでいる。
公孫杵臼は、趙盾とともに霊公に仕えて中大夫になった、かつての晋の重鎮だった(という設定です)。歳を取り、また屠岸賈が朝廷を牛耳っているのを憎んで、朝廷を去って野に下り、自適の生活を送っていた。そこに程嬰がやってくる。

屠岸賈が赤ちゃんを集めて皆殺しにしようとしていることを知った程嬰は困り果てていた。そこで思い当たったのが公孫杵臼だった。
公孫杵臼は趙盾と友誼があり、なおかつ忠直な人柄。彼ならば、趙盾の孫である趙氏孤児を匿ってくれると考えたのである。

早速程嬰は公孫杵臼に今までの経緯を説明し、趙氏孤児を彼に見せる。そして、自らが考えた趙氏孤児救出の策を公孫杵臼に説明する。

程嬰の策はこうだ。
実は、程嬰にも生まれて間もない赤ちゃんがいた。
そこで、自分の子を趙氏孤児だといつわって、公孫杵臼には「程嬰が趙氏孤児を匿っています」と屠岸賈に密告してもらう。そうして父子ともども殺されたなら、趙氏孤児を葬ったと思い込んだ屠岸賈は安心し、これ以上の追及はするまい。本物の趙氏孤児は公孫杵臼にかくまってもらい、密かに育て上げて欲しい――という策である。
趙朔への恩を返し、かつ晋の国中の赤ちゃんたちを救うためにはこれしかない、というのが程嬰の結論。

しかし、公孫杵臼は「趙氏孤児を育てるのはお前のすべき役目、お前の赤ちゃんを私に託してもらい、お前の赤ちゃんと私が一緒に死ぬことにしよう」と、先に死ぬのは自分がよい、と言う。
というのも、公孫杵臼は70歳。趙氏孤児が成人し、仇を取れるようになるのが20年後と見積もると、その時には90歳ということになる。その時まで自分が生きていられる自信がない。
一方の程嬰の方はまだ45歳で、20年経ったとしてもまだ65歳である。きっと趙氏孤児を育て上げることができるであろう。それを考えると、程嬰に趙氏孤児を匿ってもらい、自分が先に死んだ方がいい。これが公孫杵臼の考え。

程嬰は、公孫杵臼を巻き込んで死なせてしまうことをためらい、また公孫杵臼が屠岸賈に問い詰められて「程嬰が趙氏孤児を匿っている」と白状したりしないかと不安で(←公主や韓厥の時と同様、疑り深いというか慎重な程嬰…)、公孫杵臼の策になかなか乗らない。しかし公孫杵臼は、「私は、一度“うん”と言ったら必ず守る。安心せよ」と言って程嬰を説き伏せる。歳を取って、いつ死んでもおかしくないのだから、この命はいつ捨ててもかまわない――公孫杵臼はそう言う。

程嬰は、公孫杵臼を巻き込んだことを悪く思うが、ついに折れて、自分の子を公孫杵臼に託し、趙氏孤児を自らの家に匿う。

(以上)

*   *   *

趙氏孤児を守り通すため、最初は程嬰が自分の命を捨てるつもりだったけど、年老いた公孫杵臼がその役を引き受けることにした…という筋ですね。
自分の命を擲つ公孫杵臼も悲壮ですが、自分の子を犠牲にしてまで趙氏孤児を生かそうとする程嬰もまた悲壮ですね…。
さて、二人の壮絶な策は当たるのかどうか。そのあたりは第三折にて。


あと、最後に超個人的メモ。

趙氏孤児(末本=正末劇) 1楔子、5折構成
『元刊雑劇三十種』『元曲選』『古今名劇合選ライ江集』(孟称舜)に現存。
『元刊雑劇三十種』のみ、1楔子4折。『元曲選』等における第五折を欠く。(むしろ、当初は1楔子4折で、後世第五折が加えられた、と言うべきか…。)『元刊雑劇三十種』は、曲牌のみ現存。ト書きは殆どなく、あらすじははっきりしない。
また、『元刊雑劇三十種』とその他のテキストでは、曲牌にだいぶ相違があるらしい。
明になると、徐元が伝奇「八義図」に再構成し、また清末には同様の題材で京劇「八義記」が作られている。らしい。
以上、主に『元曲大辞典』(李修生主編、江蘇古籍出版社)に拠る。
by huangque | 2005-12-22 03:16 | 本めも
さて、楔子に引き続き「趙氏孤児」の第一折です。

てか、ネサフして調べてみたら、「趙氏孤児」って京劇に残ってて今でも上演されてるらしい。
ストーリーは多少違うみたいですが、ほぼ元の頃と変わらないストーリーのようで…すごいなぁ。
それだけでなく、ヨーロッパにまで渡ってるらしい、この劇。す、すげー…(笑)。『元曲選校注』の注によると、ヴォルテール(伏爾泰)が手がけた劇だか本があるらしい。

では、以下に第一折のあらすじを。韓厥ファンの方はいささかショック受けるかも(笑)。
ちなみに登場人物のおさらいですが、
屠岸賈=趙盾の一族を皆殺しにした悪役大臣
趙盾=晋の大臣。屠岸賈に殺されかけてどこかに逃亡
趙朔=趙盾の子
趙氏孤児=趙朔の子
公主=趙朔の妻。

*   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作

【第一折】
登場人物:
 韓厥(正末 :主役のこと)
 程嬰(外)
 屠岸賈
 公主

趙朔の妻の公主は、宮殿で男の子を産み、趙朔の遺言どおり趙氏孤児と名づけた。しかし、偵察の手をゆるめていない屠岸賈にばれてしまう。屠岸賈は、「まあ一月後に趙氏孤児を殺しても遅くはあるまい」と言って(←突如ゆるゆるな屠岸賈/笑)、公主の宮殿を「下将軍」の韓厥に警備させ(ただの門番です韓厥…笑)、もし趙氏孤児を逃がす者がいたら九族皆殺しにする、という告知の張り紙をした。

公主は男子を産んだものの、このままでは屠岸賈の手にかかってしまう。そこで公主は程嬰を呼ぶ。程嬰は在野の医者で、趙朔の門下で優遇されていた。程嬰は趙朔の家族ではなかったため、屠岸賈による族殺からのがれて生きていた。
程嬰は、公主の産後の処方のために呼ばれたのだろうか、と思いつつ、公主に面会する。

程嬰が公主から頼まれたのは、「趙氏孤児を救い出して欲しい」ということだった。しかし、趙氏孤児を逃せば一族皆殺しである。程嬰は、無事に趙氏孤児を逃がす手立てが浮かばず迷うが、公主の必死の頼み込みを受けて、趙氏孤児を逃がすことを決意する。
しかし程嬰は、もし私が趙氏孤児を逃がしても、屠岸賈に詰問されたあなたは「程嬰が逃がしました」と言いはしませんか?と公主に確認する。公主は、決してそんなことはないと、その場で首を吊って死んでしまう。(結構唐突で過激な展開…)
程嬰は意を決し、薬箱の中に趙氏孤児を隠して外に向かう。

門口では、下将軍の韓厥が部下とともに警備をしていた。
(韓厥は下軍の将だった時期があり、それが転じて「下将軍」となったものと思われます。)
そこに、慌てた程嬰が駆け出してくる(慌てるな程嬰…!笑)。勿論韓厥は程嬰を咎めた。
韓厥が「その箱の中には何が入っているのか?」と問うと、程嬰は「薬です。他のものは何もありません」と答える。
しかし、程嬰が趙氏から篤い恩を蒙っていることを知っている韓厥はなかなか疑いを解かない。しかし韓厥も趙盾に恩があり、屠岸賈の人物を嫌っている。

韓厥は、「俺が呼ぶまで来るなよ」と部下を退け、程嬰の持っている薬箱を開けた。
韓厥「お前の薬箱の中に『人』参も見つけたぞ!」(←気の利いた洒落だ…)
程嬰はびっくりして跪き、今までの経緯を切々と韓厥に訴える。
義侠心に篤い韓厥は、程嬰の訴えを聞き、程嬰と趙氏孤児を逃がすことにする。
程嬰は韓厥に感謝するが、韓厥がこのことを屠岸賈に告げはしないかと危惧を漏らす。
韓厥は、「安心せよ、お前は趙氏孤児を守り育てよ」と言い、その場で自刎(またも唐突に激しい展開…)。

程嬰は韓厥の義心に感謝しつつ、役人に見つからないうちに「太平荘」目指して逃走する。
(以上)

*   *   *

この幕の主役は韓厥! なのにこんなに早く死んでしまうとはー…! 義の人ですっごく好感持てるのですが、…で、でももうちょっと出てきてほしかったり、も。
あと、韓厥の洒落(?)に出てくる「人参(ren2shen1)」は、訛ると「人身(ren2shen1)」と聞こえるらしい(注によると)。現代中国語だと全く同じ発音。下手すればバレバレの危険な洒落ですな…。

元曲では、主役は1劇(4幕)通して一人の人物であるのが基本ですが、幕ごとに変わる場合もよくあります。ただ、主役となる人物は変わっても、主役の性別が変わることだけは滅多にないらしい。(と、どうでもいい予備知識。)
第一折の主役である韓厥はここで死んでしまったため、当然次の幕から主役が変わります。

さて、程嬰の逃れていった「太平荘」には公孫杵臼がいます。それだけは読みましたがその後は相変わらずまだ読んでません(笑)。まだ先が長いな…!
by huangque | 2005-12-22 03:15 | 本めも
さて、ブログにメモします!と宣言しながら全然書いてなかったので(汗)、まずは「趙氏孤児」という戯曲のあらすじのご紹介を胡散臭くやってみたいと思います(…)。
…本当、元曲のテキストは尋常でなく読みづらい! 読めない部分に関しては、「多分こうだろう」という推測も交えてますので(おい)あしからず…あくまで参考までに。


本題に入る前に、「元曲」のご紹介を軽く。
元曲は、元代に隆盛した演劇のことです。
4幕で完結するのが基本形。幕数を数えるときは「折」という単位を使い、たとえば第一幕は「第一折」といいます。
4幕で収まらない場合は、「楔子(せっし)」という補助幕を挿入することが許されています。このスレッドでご紹介するのは、この「楔子」です。
私も今元曲について地道に調べてるところでたいした知識がなくて申し訳ないのですが、そんな感じだと思います。

ちなみに、テキストは『元曲選校注』(王学奇・主編/河北教育出版社)に入っている「趙氏孤児」を参照します。形式は、楔子1幕、折数は5、と、元曲の基本形からちょっと外れてます。


…と、前置きが長くなりました(汗)。
では、元曲「趙氏孤児」の楔子のあらすじを下に。
宮城谷さんの「月下の彦士」をお読みの方は「えぇ!?」と思う点多数かと…(笑)。
*薄い文字は超個人的メモなのでお気になさらず…笑

  *   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作
題目:公孫杵臼恥堪問
正名:趙氏孤児大報仇
簡名:趙氏孤児

【楔子】
登場人物:
 屠岸賈(浄)
 趙朔(冲末)
 公主(旦)←趙朔の妻。霊公の娘(ということになってます)

(楔子は、屠岸賈のモノローグがほとんど。屠岸賈が趙朔に死を与えるまでのいきさつを、屠岸賈自身が延々と語ってます。)

屠岸賈は、晋の「大将」を務めている。
君主・霊公の下の文武の諸官の中で、武に関しては屠岸賈、文に関しては趙盾(ちょうとん)が、最も主の信頼を受けている。(←趙盾が霊公、すなわち夷皐に信頼されてる…という時点で「えぇ!?」な設定です…笑。今後もそんなのがいっぱい出てきます)。しかし、屠岸賈と趙盾は不仲で、屠岸賈は何度も趙盾を亡き者にしようとした。

ある時は、刺客のショ【金+且】ゲイ【鹿+兒】を差し向けて趙盾を殺させようとしたが、ショゲイは樹に頭を打ちつけて死んでしまった。

またある時は、霊公から賜った神ゴウ【敖+犬】という猛犬に、趙盾と同じ衣装をつけた人形に咬みつくよう100日間も訓練し、霊公の御前で「この犬は讒臣に咬みつきます」と言って放った。訓練されたとおり、犬はその場にいた趙盾に襲い掛かったが、「殿前太尉」の提弥明が犬を撲殺し、また趙盾に恩を持つ霊輒(れいちょう)という人物によって、趙盾は馬車で逃げ去ることができた。
趙盾は逃げのびることができたが、犬に咬みつかれそうになったため「讒臣」とされ、屠岸賈は趙盾の一族郎党を皆殺しにした。

ただ、趙盾の子・趙朔だけは、霊公の公主(娘)を娶った駙馬都尉である(主君の一族に連なっている)ので、手を下せなかった。

そこで屠岸賈は、偽の命令書をでっちあげ、弓の弦・薬の入った酒・短刀の3つの物を使者に持たせて趙朔を責めることにした。(つまり、讒臣の一味として、弓の弦で首を吊るか、毒薬の入った酒をあおぐか、短刀で自刃するか、好きな方法で自殺せよ、ということ。「弓の弦」でどう死ぬのかいまいち判然としないけど…やっぱ自縊かな。)

一族を殺され、自らの死を悟った趙朔は、妻の公主に向かって言った。
「おまえは子を宿している。生まれたのが女の子だったらそれまでだが、男の子であれば、『趙氏孤児』と名づけ、成長するまで待って、親の仇を討たせるように…」
屠岸賈が差し向けた使者に面会した趙朔は、短刀で自殺した。
嘆き悲しむ妻の公主は、宮殿の中に閉じ込められることになってしまった。
(以上)

  *   *   *

…と、楔子はこんな感じです。

趙盾を殺そうとしたのは、歴史書に拠れば霊公なのですが、屠岸賈を悪人に仕立てるためにみんな屠岸賈がやったことになってます。
他にも、趙盾が逃げ去って戻ってこないとか、霊公が殺されないとか、霊公の娘が趙朔の妻だとか(ほんとは霊公の叔父の娘が趙朔の妻)、ツッこみはじめればきりがないくらい「えぇ!?」な場面があります。
この後、韓厥や程嬰も出てきますー。…って、実は私もまだ最後まで読んでなくてあらすじ知りません(笑)<っておい!
by huangque | 2005-12-22 03:14 | 本めも

『史記』小事典・世家編

『「史記」小事典』 久米旺生・丹羽隼兵・竹内良雄編 徳間文庫 2006


なんとなく読み始めてしまいました。司馬遷の『史記』の超ダイジェスト版。
史記…読んでみたいとは思うのですが、どうも敷居が高くて読めないので(春秋戦国ってごちゃごちゃしてていまいち分からんのです)、この一冊を買って、史記の雰囲気だけでも味わいたいな…と。
高島さんの『中国の大盗賊』のメモはまた後日…。史記の世家のメモを先に取ります。

「世家」というのは…自分でもいまいちよく分かっておらんです(苦笑)。手持ちの『漢語林』の説明では、「諸侯や王の事跡を述べた編」。
その中でも、春秋戦国の列国の起源が前々から気になっていたので、こちらにちょいちょいメモしときます。
では、この本に載ってる順に…
(姓と爵位については、春秋戦国史さまの記載を参考にさせていただいてます)

■呉≪姫姓/子爵≫
周の古公亶父の長男・太伯と次男・仲雍が、末弟・季歴に位を譲るために出奔して建国(ちなみに、季歴の子が周の文王)。それから数えて19代目が寿夢。その孫が公子光、すなわち闔閭。夫差の代に、越によって滅ぶ。

■斉(呂氏。斉太公世家)≪姜姓/侯爵≫
斉は、周の建国に功あった太公望(呂尚)の流れの呂氏の時代と、呂氏を倒して立った田氏の時代に分かれるが、そのうち呂氏の時代の歴史を収める。(田氏の斉については別に「田敬仲完世家」項目がある。)
呂氏の斉は、太公望呂尚がここに封じられて始まる。最も盛んだった時期が、桓公の時代。その後は家臣の力に圧倒され、田常が簡公を弑殺、その孫の田和が康公を海辺の地に遷し、康公の死によって、斉は田氏のものとなる。

■魯≪姫姓/侯爵≫
開祖は周の武王の弟・周公旦。実質的に魯の地に赴任してきたのは、周公旦の子・伯禽で、実質上の初代魯君となる。
周辺の楚・斉・晋などの列強に脅かされ、さらに三桓(魯の桓公の流れを汲む孟孫氏・叔孫氏・季孫氏)が強力で、君主の権力は不安定だった。BC249年に楚に滅ぼされる。

■燕≪キツ[女+吉]姓or姫姓/(公爵→)伯爵≫
開祖は召公セキ【百+大+百】。姓は姫氏。43代続き、王喜のときに秦に滅ぼされた。

■管≪姫姓/―≫・蔡≪姫姓/侯爵≫・曹≪姫姓/伯爵≫
どれも、武王の弟が封ぜられた国。管は周公旦に対して反乱を起こして一代で滅び、蔡・曹も小国だった。

■陳≪キ[女+為]姓/侯爵≫
舜の子孫の国。
厲公の子である敬仲完(陳完。のち田完と姓を変える)は、内紛を避けて斉に逃げた。この敬仲完の子孫が呂氏の斉を滅ぼして田氏の斉を建てることになる(→田敬仲完世家)。

■杞≪ジ[女+以]姓/侯爵≫
「杞憂」で知られる小国。禹の子孫の国。

■衛≪姫姓/侯爵≫
周の武王の同母弟・康叔が始祖。暗君が続いて内紛も絶えない国だった。

■宋≪子姓/公爵≫
殷の紂王の庶兄・微子が始祖。盛んだったのは「宋襄の仁」で知られる襄公の頃。BC286、斉・魏・楚に滅ぼされ、その地は三分された。

■晋≪姫姓/侯爵≫
始祖は、周の武王の子・唐叔虞。唐叔の子の代に国号を晋とした(その前は「唐」)。文公(重耳)の頃に勢い盛んになるが、その後は家臣の力が強まり、BC376に趙・魏・韓に三分される。

■楚≪羋姓/子爵≫
楚の先祖は、黄帝の孫・顓頊(せんぎょく)。周の成王のときに楚に封ぜられる。春秋時代、荘王が「鼎の軽重を問う」ほどの勢いを持っていた時期もあったが、戦国時代の懐王の頃、秦の張儀の策に弄ばれて一気に弱体化、BC223に秦によって滅ぼされた。

■越(越王勾践世家)≪ジ[女+以]姓/子爵≫
越王勾践は、禹の末裔だと言われている。この巻の大半は、句践に仕えた名臣・范蠡のために割かれているらしい。

■鄭≪姫姓/伯爵≫
始祖は、周の第11代・宣王の庶弟。他の国と比べると新しい国みたいですね。BC375、韓に併呑された。

■趙≪嬴姓/―≫
顓頊の後裔。その流れにある殷の蜚廉に二人の子があり、兄の悪来が秦の先祖、弟の季勝が趙の先祖に当たる。
季勝の曾孫・造父は周の成王の御者となり、功あって趙城を賜り、以後趙氏を名乗る。造父から7代後の叔帯が、周の幽王の無道を厭って晋に行った。
趙簡子の時に、晋の有力者である中行氏・范氏を追放し、その子の趙襄子のときに知伯を破って、魏氏・韓氏とともに晋を三分して趙を建国した。

■魏≪姫姓/―≫
魏の先祖は、周の文王の子・畢公高(ということは、武王や周公旦の兄弟か…)。武王が殷の紂王を討った後、畢に封ぜられて姓を畢とするが、その子孫は一度庶民にまで落ちぶれる。
畢万という者が晋の献公に仕え、魏に封ぜられた。畢万の孫・魏武子は、重耳(文公)の亡命に随行している。その子孫の魏桓子のときに、趙・韓とともに晋を三分した。

■韓≪姫姓/―≫
姓は姫氏で、周と同じ。その後裔が晋に仕えて韓原に封ぜられ、韓武子と言われるようになる。

■斉(田氏。田敬仲完世家)≪キ[女+為]姓/―≫
こちらは田氏の斉。
陳の厲公の子である陳完(諡を敬仲)は、国の内紛から逃れるために斉に行った。斉に来て以降、陳完は田氏を名乗る。この子孫が後に呂氏の斉を乗っ取り、田氏の斉を建てる。
田完から6代後の田乞は巧みに人心を掴み、晏嬰をして「斉は田氏のものとなろう」と言わしめる。乞の子・田常は簡公を弑し、その弟を立てて自らは宰相の地位に就いた。常から4代後の田和が周から諸侯として認められ、田斉最初の侯となる。三代目の威王の頃、人材を集めて国力を強化し、「王」を名乗った。

春秋戦国時代で、世家に入っている国はこんなところでしょうか…。
ちなみに秦は、世家ではなく本紀に入っています。本紀とは「帝王の事跡を記した」(漢語林)部分。秦は中華を統一してるので、他の国より格上の扱いなんですね。

始祖・先祖によって分類すると…
●周と同じ姓(姫姓)の国:
呉(太伯・仲雍)
魯(周公旦)
燕(召公セキ)
管(周武王次弟・叔鮮)
蔡(周武王四弟・叔度)
曹(周武王五弟・叔振鐸)
衛(周武王八弟・康叔)
晋(周武王の子・唐叔虞)
鄭(周宣王の弟・桓公)
魏(周文王の子・畢公高)
韓(姓は姫らしい)
●周と異なる姓の国:
斉(太公望/姜姓)
斉(田完。陳の流れを汲むので、舜の子孫と考えていいか)
陳(舜/キ[女+為]姓)
越(禹/ジ[女+以]姓)
杞(禹/ジ[女+以]姓)
宋(殷の微子/子姓)
楚(顓頊/ビ姓)
趙(顓頊―季勝/エイ姓)
秦(顓頊―悪来/エイ姓)
ちなみに禹は顓頊の孫(夏本紀による)。
by huangque | 2005-12-22 03:11 | 本めも
『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


戦国時代続き。
本当は、下のスレッドと分けたくなかったんだけど…修正しようとしたらことごとく更新が無効になったので(…)分けます。


【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)
■孟嘗君(田文)<斉>
多くの食客を養った「戦国四君」の一人。斉のビン【さんずいに民+日】王の叔父に当たる。「この日に生まれた子は、大きくなると父母を害する」といわれる5月5日に生まれ、父に捨てられそうになったが、母が密かに田文を養育していた。秦の昭王からの申し入れで、孟嘗君は秦に行って宰相になった。が、秦の朝廷では、やはり孟嘗君を用いるのをやめ、他国に行かれる前に殺そう、という話になった。これを密かに知った孟嘗君は、食客を使って秦の昭王の追っ手をかわし、秦から脱出した。秦の国境の函谷関を「鶏鳴狗盗」の徒によって脱出した話は有名。
孟嘗君は斉に帰ったが、ビン王との折り合いが悪く失脚。3000人いたと言われる食客は散り散りに去ったが、一人残った馮灌の尽力で斉の宰相に。再び多くの食客を養った。が、やはりビン王に憎まれて殺されかけたので、魏に奔ってそこで宰相となった。
■秦の昭王<秦>
孟嘗君を秦の宰相に迎えたい、と、母(宣太后)の弟の涇陽君を人質として斉に差し出し、孟嘗君を迎えた。
■幸姫
秦の昭王の寵姫。孟嘗君が殺されそうになった時、孟嘗君側から頼まれて、貴重な皮衣とひきかえに孟嘗君への追及の手を緩めるよう取り計らう。
■孔路
孟嘗君の食客。弁舌が得意。幸姫と折衝する役目。
■狗盗
孟嘗君の食客。盗みが得意。「狗盗」というのは、名前というよりは、特技から来たあだ名。幸姫に要求された皮衣を盗み出し、孔路がこれを幸姫に贈った。
■馮灌(ふうかん)
「馮驩」とも。孟嘗君の食客。弁舌が得意。孟嘗君が失脚した際でも、孟嘗君に付き従って尽力する。孟嘗君からの待遇が悪かった時、「長鋏(ちょうきょう)帰らんか」(わが剣よ、さあ帰ろう)と言って「弾鋏」(剣のつかをたたく)して不満をもらした話でも知られる。
■斉のビン【さんずいに民+日】王<斉>
斉王。孟嘗君と折り合いが悪く、何度も孟嘗君を失脚させる。ビン王の死後に即位した襄王は、孟嘗君と和解した。この本にはなかったけど、燕の楽毅に攻められて、斉の70余城を抜かれたのは、このビン王の時だったような。
■戦国四君
いちおうメモ…。戦国時代、多数の食客を抱えていた人物たち。
<斉>孟嘗君  名は田文。
<趙>平原君  名は趙勝。
<魏>信陵君  名は公子無忌。
<楚>春申君  名は黄歇(こうけつ)。

■鬼谷先生
縦横家。経歴不明の謎の人物。蘇秦・張儀の師。
■蘇秦<燕>
縦横家。鬼谷先生に学ぶ。張儀の兄弟子。けっこう野心家。周・秦と遊説したが失敗し、燕の文侯に取り立てられた。燕・趙・魏・韓・斉・楚の六国を同盟させて強国の秦に当たる「合従」の実現を目指す。まずは燕の隣国・趙の粛侯と同盟を結び、韓の恵宣王を「鶏口と為るも牛後と為るなかれ」と説得するなどして六国の同盟に成功、蘇秦は六国の宰相の印を帯びるまでになった。後、燕で悪い風聞が立ち、斉に赴いた(このときの斉の君主は、孟嘗君の段に出たビン王)。張儀が斉の大臣をたきつけて蘇秦を憎ませたので、蘇秦は斉の大臣が放った刺客に殺された。
しかし、自分の死体を策のために車裂きにさせるとは…生きても死んでも策謀一色の人物だな…。蘇秦の死後、合従策は崩壊する。
■張儀<秦>
鬼谷先生の弟子で、蘇秦の弟弟子。大志では蘇秦に劣るが、才能では蘇秦の上。蘇秦の「合従」と逆の「連衡」(秦が他の六国と同盟し、六国同士の同盟をさせない)を唱え、秦に仕官して蘇秦と知略を闘わせる。
蘇秦の死後、六国同士の同盟を切り離し、連衡策を実現していった。南方の楚を弱体化させる手口はかなりあくどい。「秦の六百里の土地を楚に差し上げます」と言って楚と斉の手を切らせたのに、約束を守ったから六百里の地をよこせと言って来た楚に対して「六百里? 私が差し上げようと言ったのは六里ですよ」ととぼけて見せた。怒って攻め込んできた楚を、秦はたやすくひねって破った。

■屈原<楚>
楚の三閭大夫。楚の王族(昭・屈・景の三姓がある)の出身。策謀を好まない愚直な人柄で、張儀を嫌う。張儀の策により、楚の内部では秦に近づこうという風潮が強くなったが、屈原はかたくなに反対した。張儀の謀略によって楚の中で孤立し、楚の懐王の子・頃襄王に追放され、汨羅の淵に身を投げた。その苦衷を吐露した「離騒」は有名。『楚辞』の作者の中での代表的人物。
■楚の懐王<楚>
楚王。張儀に手玉に取られた楚の凡君。一時期、楚に連行されてきた張儀を、寵姫・鄭袖の言葉で許し(もちろん張儀が裏で手回し済)たり、秦の六百里の土地に目がくらんで、屈原の言葉に従わず斉との同盟を破棄したりと、楚を国際的に不利な状況に追い込んだ。最後は、秦の誘いに乗って秦に赴き、そのまま人質に取られて客死した。
■靳尚<楚>
楚の重臣。屈原と逆の親秦派。張儀にいいように使われる。
■鄭袖
楚の懐王の寵妃。張儀の策にひっかかって、楚に送られてきた張儀を許すよう懐王に頼み込んだ。
■楚の頃襄王<楚>
懐王が秦で客死した後に即位。懐王の長男。反秦派の屈原を追放する。
■子蘭<楚>
懐王の末子。頃襄王の宰相。親秦派。
by huangque | 2005-12-22 03:10 | 本めも
『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


春秋時代と戦国時代の境目は、晋が趙・魏・韓に三分された時期に置かれるようです。西暦で言えば、晋の三分は紀元前453年、呉王夫差が死んで呉が滅んでから20年経った時。ただし、趙・魏・韓が周から諸侯として認められたのが紀元前403年になるので、この時を戦国時代の始まりとみなすことも多いようで。私が持ってる世界史の資料集には、紀元前403年から、秦が天下を統一する紀元前221年までが戦国時代、と書いてあった。

ということで、以下は戦国時代のメモ。有名人が多いですな…。


【戦国時代】(人名の後ろの<>内は所属する国の名)
■知伯<晋>
晋の有力者「六卿」(知氏・趙氏・魏氏・韓氏・中行氏・范氏)の一人で、六卿の中で最も有力。まず范氏・中行氏を滅ぼし、韓氏・魏氏をおどしつけてともに趙氏を滅ぼそうとしたが、韓・魏両氏に裏切られて身を滅ぼす。この本には採用されていないけれど、趙の君主・趙襄子を狙った刺客・予譲は、この知伯の知遇を得ていたんですよね。予譲は「士は己を知るもののために死す」「塗炭の苦しみ」の語でも有名。
■趙襄子・魏桓子・韓康子<晋>
各々「六卿」の一人。魏桓子・韓康子は知伯の力を恐れてやむなくこれに味方し、知伯に逆らった趙襄子を攻めたが、趙襄子の配下・張孟談の説得と奇策によって趙襄子の味方をし、知伯を破る。
知伯の死後、三氏は知伯の領土を三分した(これが晋の三分)。
■張孟談
趙襄子に仕える。知伯の水攻めに遭って苦しんでいるとき、知伯を逆に水攻めにしてやろうという奇策を携え、魏桓子・韓康子を説いて味方につけた。

■孫ピン【月+賓】<斉>
兵法書『孫子』を著した孫武の子孫。斉の人。同じ塾で学んだホウ【广+龍】涓に憎まれ、罠にはめられてヒン【月+賓】刑(足斬りの刑)にされる。後、斉に戻り、田忌のもとで軍師となった。魏・趙に攻められた韓が斉に援軍を求めたとき、田忌とともに出兵し、魏の将軍となっている因縁のホウ涓と戦う。孫ピンは、かまどの数を減らして(兵が逃げ去っていることを装い)ホウ涓を油断させ、馬陵に誘い込んでホウ涓を破った。
■田忌<斉>
斉の将軍。威王の頃、政争に敗れて一時亡命したが、威王が死に、宣王が即位すると、再び斉で将軍となった。孫ピンと組んで出征することが多かった様子。鄒忌と仲が悪い。
■鄒忌<斉>
斉の宰相。この人というと、ナルシストのイメージが強いのですが…(笑)。美貌が売り。
■ホウ【广+龍】涓<魏>
趙の首都・邯鄲で孫ピンとともに学ぶが、家柄・才能ともに自分以上の孫ピンを憎み、罠にはめて彼を足斬りの刑にする。後、魏に仕え、恵王のもとで将軍となる。馬陵の戦いで孫ピンの策に引っかかる。――宵闇が周囲を包む頃、ホウ涓は馬陵に着いた。巨木に何か文字が書いてあったので、ホウ涓は火をともした。木には「ホウ涓 此の樹の下に死なん」とあった。孫ピンは予め馬陵の高地に兵を伏せ、火がともったらそれに向かって矢を放てと命じていた。ホウ涓の兵はことごとく射殺され、ホウ涓は自殺したとも捕らえられたともいう。
■魏の恵王<魏>
ホウ涓の主君。孟子が「五十歩百歩」のたとえ話をしたのは、この恵王の前。『孟子』に「梁恵王」という編名があるが、「梁恵王」とはこの魏の恵王のこと。後出の「商鞅」の段にも出てきます。
■太子申<魏>
魏の(恵王の?)太子。馬陵の戦いで死んだらしい。

■呉起<魯→魏→楚>
兵法家として、孫子とともに「孫呉」と並称される。衛の人。豪族の出身。若い頃、自分を侮った人間三十数人を殺害したという。出世欲が強く、孔子の弟子の曾子(名は参)に弟子入りしたものの破門される。魯で将軍となり、斉を破ったが、自分の保身のためには妻をも殺したので、魯で信用されずに地位を失い、魏に行く。魏では、不仲の公叔が宰相となり、役職を削られたので、楚に出奔した。
楚では悼王のもとで宰相となり、高位についている貴族の閑職を思いっきり削って経費削減をはかった。悼王が死ぬと、呉起に位を逐われた者たちが呉起を討とうとした。ただで転ばぬ呉起は、逃げて悼王の遺体におおいかぶさり、そこで射殺された。呉起に矢を放った者たちは、王にも矢を向けたとして粛清された。
兵法の巧みさと実践力と情熱はあるけれど、人間性には「?」がつく人ですね、この本を読む限り…。
(あと、呉起が魏にいたとき、田文、すなわち孟嘗君が宰相になったとあるけれど…孟嘗君って呉起よりずっと後の時代の人のような…)
■魏の文侯<魏>
魯を離れた呉起を迎え入れた魏の君主。死後、武侯が後を継ぐ。
■李克<魏>
文侯の頃の宰相。呉起を魏に迎えることを侯に勧める。
■公叔<魏>
魏の武侯の時、宰相・田文(孟嘗君)の死後に宰相となる。策をもうけて、呉起を魏から追い払った。
■楚の悼王<楚>
呉起を迎え入れた楚の王。呉起を宰相として、手腕を振るわせる。

■淳于コン【髟+几】<斉>
斉の「稷下の学士」のまとめ役。斉の威王や魏の恵王の頃の人なので、前出の孫ピンやホウ涓と同時代の人。親に売り飛ばされて奴隷となったが、読心術に秀で、斉の威王にも気に入られる。五尺に満たない短躯、不細工な顔、体力はないが、相手の心を読み取り、話術に巧みだった。博覧強記・滑稽多弁で知られる。人の心をたくみに掴んだので、癖の多い稷下の学士のまとめ役が可能だったのでは…とのこと。斉の威王を諫めた「鳴かず飛ばず」の語は有名。

■商鞅(公孫鞅)<秦>
秦で法治主義を実践した人物。衛の人。魏の宰相・公叔ザ【やまいだれに坐】の執事をしていた。公叔ザが病の床に就き、魏の恵王が後任の推薦を頼むと、公叔ザは商鞅を薦めた。「もし商鞅を用いませんときは、彼を殺してください。他国に行けば災いとなります」と言い添えて。これを察した商鞅は、友人の范差と協力し、魏を脱して秦に向かった。
商鞅は秦の重臣・景監に取り入って要職に就き、法を整備した。法を重んじ、たとえ王族周辺の人物であっても、法に触れれば罰した。太子が法を破ったので、その傅(お守役)の公子虔を鼻削ぎの刑、師の公孫賈をいれずみの刑にした。これ以降、人々は恐れて、法を遵守するようになった。これによって政敵も作ったが、この法整備が秦による天下統一を可能にしたといわれる。
斉の孫ピンが魏のホウ涓を破った馬陵の戦いに乗じて、商鞅は魏に出兵、大勝を収めた。魏の恵王は、商鞅を逃したことを歯噛みして悔しがった。
商鞅を信任していた秦の孝公が死んだ。常々商鞅を憎んでいた公子虔は、同志を集めて「商鞅に謀反の企みあり!」と言って追ってを差し向けた。商鞅は、国境の函谷関まで逃げた。関の周辺では、「旅券のない人はお泊めできません、罰せられます」と、自分の作った法に足を引っ張られ、なんとか魏に逃げ込んだが追放され、秦軍に攻められて殺された。その死体は車裂きにされたという。
■公子虔<秦>
商鞅の法によって鼻削ぎの刑を受け、商鞅を憎む。商鞅は、近侍の范差を送り込んで公子虔を懐柔しようとしたが、范差は公子虔を憐れんで肩入れをした。公子虔は商鞅を憎み続け、君主の孝公が死ぬと、公子虔は商鞅に恨みを持つ人々を集めて、商鞅を討った。
■范差
商鞅の友人(部下に近いかも)。商鞅が魏の恵王のもとから逃れるときも、恵王を言いくるめて、商鞅殺害を思いとどまらせた。商鞅とともに秦に落ち着き、ここでも商鞅の腹心として働いた。鼻削ぎにされた公子虔のもとに送り込まれたとき、公子の立場に同情し、公子たちが商鞅失脚の計画を立てていることを知っても、それを商鞅に報告しなかった。結果、商鞅は失脚した。
■秦の孝公<秦>
秦の君主。商鞅を信任し、秦を法治国家化させた。
■秦の恵王<秦>
孝公の後の秦の君主。見せしめのために、商鞅の死体を車裂きにした。


…戦国時代のメモも長くなってきたので(笑)、またスレッド分けます。
by huangque | 2005-12-22 03:09 | 本めも
『小説十八史略』(陳舜臣全集) 陳舜臣 講談社 1986


春秋時代のメモが長くなりすぎたので、春秋時代の呉越関連の人物をこちらに分けてメモします…。斉の桓公・晋の文公関連の人物は下のスレッドです。


【春秋・呉越関係人物】
■伍子胥<呉>
もとは楚の人。父の伍奢と兄の伍尚が楚の平王に殺される。平王の子の太子建、そして建の遺児・勝とともに各地を放浪した末に、呉の公子光(後の呉王闔閭:コウリョ)に仕える。後、呉軍を率いて楚の都・郢(えい)を攻略し、既に死んでいた楚の平王の死体を掘り出して鞭打ち、積年の恨みを晴らした。闔閭の死後に即位した夫差と馬が合わず、自殺を命じられた。「わが死体の目をくり抜いて呉の都城の東門に置け。越が呉を滅ぼすのを見てやるわ!」と言って自殺した。伍子胥の遺体は皮袋に入れられて長江に捨てられた。
■申包胥<楚>
伍子胥の親友。伍子胥が楚を出るとき、「俺は楚をひっくり返してやる」と言うと、申包胥は「ならば俺は楚を再興させよう」と言った。後、伍子胥・孫武らの呉軍が楚の首都・郢を陥とした。申包胥は秦に援軍を請い、拒否されても7日間飲まず食わずで秦の宮殿前で哭き続けた。ついに折れた秦の哀公は楚に兵を与え、楚は呉を撃退した。
■楚の平王<楚>
息子の建の嫁にしようと思っていた秦の王女が好みの美人だったので、家臣の費無忌にそそのかされて自分でもらってしまう。建もこれを知っていたので、平王はその逆襲を恐れ、建のお守役であった伍奢(伍子胥の父)と建を殺そうとした。建は亡命し、伍奢は殺害された。
■費無忌<楚>
もと、太子建の少傅(お守役の副担当)。太子建に取り入るよりは平王に付いた方がいい身分になれる、と考え、秦の王女を平王に薦めることでご機嫌を取った。加えて、太子建一派が権力を握れぬように…と、建と、その太傅だった伍奢を讒言した。平王の死後誅殺される。
■太子建<楚>
楚の平王の子。父に疎まれ、宋に亡命。その後は伍子胥とともに晋・鄭を渡り歩く。晋の頃公に「鄭に入り内応してくれぬか」とそそのかされ、建は承諾するが、事を起こす前に露見した。鄭の宰相・公孫僑(子産)が鄭の定公に建の殺害を勧めた。建の死後、伍子胥は建の子・勝を連れて鄭を出た。
■鄭の定公<鄭>
楚から逃げてきた太子建を手厚く保護する。後、建が恩義を裏切って晋に応じようとしたので、宰相の子産の勧めで建を殺した。
■季札<呉>
呉の寿夢(じゅぼう)の末子で、国内外で評判が高い人物。父の寿夢は季札を王にしたがったが、季札はあくまで辞退した。
■呉王僚<呉>
寿夢の三男である余昧の子。余昧が王だった頃、僚が補佐をしていたので、余昧の死後、そのまま王位も継いだ。嫡流である公子光(闔閭)はこれに不満を持っていた。公子光の宴席で、刺客の専諸に殺される。
■専諸
胆力・武芸に優れる。これを太子光に買われ、呉王僚暗殺の任を受ける。専諸は魚の姿焼きの中に匕首を忍ばせ、これを僚に差し出すと見せかけて匕首を抜き、僚を殺害した。無論、専諸も僚の衛兵に殺された。
■公子光(呉王闔閭)<呉>
寿夢の長男である諸樊の子。王位を継ぐはずの嫡流であるのに、傍流の僚に仕えているのが不満だった。伍子胥を参謀に得、専諸に僚を討たせて、呉王闔閭として立つ。大国楚を破るなど、呉の威信を高めた。越との戦いで、越の名将・范蠡(はんれい)の奇策にはまって負傷し、その傷がもとで死んだ。
■夫概<呉>
闔閭の弟。兄が楚の申包胥と戦っている隙に、呉の都で王を称す。勇将ではあるがやや自意識過剰で、結局取って返した闔閭に敗れて楚に亡命した。
■呉王夫差<呉>
呉王闔閭の子。父が越との戦いで死んだ後、越への復讐を誓い、近侍の者に「越に父を殺されたのを忘れたか!?」と言わせたり、薪の上に寝たりして復讐心を養った。父の死後3年にして越を会稽山に追い詰め、越王勾践は降伏した。伍子胥は勾践を殺せと言ったが、夫差は勾践を殺さずに生かした。これが夫差の命取りになる。
■越王勾践<越>
呉の南方にある越の王。越王允常の子。名臣范蠡の助けで呉王闔閭を討ったが、後、范蠡の諫言を聞かずに呉に攻め込み、大敗して会稽山に追い詰められた。范蠡が、呉の重臣(伯ヒ【喜+否】)を買収したり、自らが育てた美女の西施を呉王夫差のもとに送り込んで篭絡させたので、命ひとつは助かった。苦い肝を嘗めて復讐を誓い(さきの夫差の故事とともに「臥薪嘗胆」の語で有名)、表向きは恭順を装った。夫差が覇者たらんと野心を燃やし、精兵を率いて北に向かった時、ついに勾践は立ち、呉都を攻めて夫差の太子・友を殺した。その後も越は攻撃の手を緩めず、呉の都・姑蘇を包囲すること3年にして、夫差は自殺、呉は滅んだ。勾践は「会稽の恥」を雪いだのである。
■西施
越の范蠡が呉王夫差好みの性格に育てた美女。夫差はすっかり西施のとりこになって、越王勾践を助けたり、伍子胥を自殺に追い込んだり、宮殿建築に金を使って呉を疲弊させていった。夫差が自殺し、役目を果たした西施は、范蠡とともに越を離れたとか。
■范蠡<越>
伍子胥も警戒した越の名臣。勾践に様々な奇策を授け、ついに呉を滅亡に至らせた。「越王勾践は、苦難はともにできても楽しみはともにできぬ…」と言い、呉を滅ぼした後、西施とともに斉にゆき、商業を営んで大富豪となった。斉で宰相になって欲しいと言われると、財産を知人に分けて陶という地に移り、また富を築いた。「陶朱公」ともいわれる。
■大夫種(たいふしょう)<越>
范蠡と同様、窮地の勾践を援護し続けた名臣。呉を滅ぼした後、范蠡は越を去ったが、大夫種は越に残り、勾践に仕えた。「苦難はともにできても…」という范蠡の予測は当たっていて、勾践は次第に猜疑心を強め、功臣たる大夫種は勾践に疑われて自殺させられた。


…春秋時代のメモは以上。
by huangque | 2005-12-22 03:08 | 本めも

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