人気ブログランキング |

<   2011年 01月 ( 99 )   > この月の画像一覧

楚材晋用

【2014.12.01の日記】

今日も自分用の春秋めもです…。

タイトルは、楚の人材が晋に亡命して、晋がその人材を利用してかえって楚をやっつけちゃうんだぜ!という四字熟語。
この四字熟語の典拠が、左伝と国語にあります。蔡の声子(公孫帰生)という人が楚の子木(屈建)に対して、楚から亡命して晋に貢献した四人の話をしてるのです。

ただ、左伝と国語とで、声子が挙げた四人というのが違ってるので、そいつをメモっておきたいのです。

左伝(襄公26年)だと、以下の四人。
①析公
・文公14(BC613)年、子儀の乱(カリスマ荘王様が即位早々拉致られたアレ)の際に晋に亡命
・成公6(BC585)年、繞角の戦いで献策し、楚を破る
(↑勢いに乗った晋軍が追撃しようとしたら荀首・士燮・韓厥に止められた、あの戦い)
②雍子
・父兄に讒言されて晋に亡命
・成公18(BC573)年、靡角で楚軍に遭遇した際に献策し、楚を退ける
③巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる
④苗賁皇(子越の子)
・宣公4(BC605)年、若敖の乱(子越の反乱)の際に晋に亡命
・成公16(BC575)年、鄢陵の戦いで献策し、楚を破る

国語(楚語上)だと、この四人。
①王孫啓(子元の子)
・荘公30(BC664)年、子元(当時の楚の令尹)の乱の際に晋に亡命
・僖公28(BC632)年、城濮の戦いで先軫に献策し、楚を破る
②析公
・子儀の乱に際し晋に亡命
・具体的な活躍は不明だが、楚を破ったらしい
(↑韋昭は、左伝と同じく繞角の戦いで活躍したと注している)
③雍子
・父兄が共王に対して彼を讒言したため、晋に亡命
・鄢陵の戦いで欒書に献策し、楚を破る
④巫臣
・夏姫をめぐって子反とモメて晋に亡命
・呉と通交して射御の術を教え、呉に楚を攻めさせる

だいたい同じですが、左伝と国語で違うのは、要は
・析公・雍子・巫臣の三人は共通だが、左伝は苗賁皇、国語は王孫啓を挙げる
・雍子が関与した戦いが、左伝では靡角の戦い、国語では鄢陵の戦いになっている
・析公の活躍が、国語では曖昧
…という三点ということになるでしょうか。

鄢陵の戦いの軍師というと苗賁皇!というイメージがあるのですが、国語だと、鄢陵の戦いの軍師は雍子!なんですね。国語の晋語の方にも鄢陵の戦いの描写はありますが、士燮さんが喋り倒してるのがメインで(エッ)、晋がどんな策で楚を破ったかは書いてないのです。苗賁皇の名も見えますが、不遜な我が子を追い掛け回すししょーさんを見てコメントしてるだけ…(笑)。
by huangque | 2011-01-01 08:20 | 春秋関連

朱然伝めも

【2014.02.09の日記】

正史の朱然の記事を拾ってまとめる作業が終わりました。ベースは自分なりに固めたので、ちまちま人物列伝の記事を書き始めたいです。


朱然伝もなかなか謎が多かったですな…たとえば、
・朱然伝だと227年に石陽を攻めたとあるんですが、どうもそれが間違ってて226年が正しい様子(呉主伝、明帝紀によると)。
で、石陽攻めが226年だとすると、韓当の没年に影響があるんだよなぁ…。韓当は227年没だ、と書いてあるのをよく見かけるのですが、彼は石陽攻めの時には既に没してるんですよね…(←石陽攻めの際、息子(韓綜)が喪に服していた、と「韓当伝」にある)。つまり、韓当は226年に没していると考えなければならない…。
・また朱然伝では242(赤烏5)年に柤中を攻めたとあるんですが、それに対応する他の記事がなくて、裴注に引かれてる『異同評』は237年じゃないの?と言ってるけどその意見にもどうも納得できなくて、もうよく分からん!
…という感じになって…といったことがちょくちょくありました。朱然伝にある242年の柤中攻めは、自分としては241年の樊城包囲戦のことを言ってるんじゃないかと思ってるんですが…。柤中は樊城に近く、樊城に向かう途中で通るようなので、同じ出来事を言ってるんじゃないかと。


朱然といえば、二宮の変が起こった後にも存命だったので、あの件に何かしら関わっていそうなんですが、どうしてたんでしょうかね…息子(朱績=施績)は孫和派に属しますが、本人の動向は謎。呂壱事件に関しては「内政の事は知らないんで」なんて感じで陸遜と潘濬にたらい回しにしてましたが(笑)、そんなスタンスだったんでしょうかのう。晩年は病気で2年も臥せってたらしいから、身動きが取れなかったのかもしれないけど(その割に没する前年に江陵に城壁を築いてるが…)。行政手腕ではなくて勇猛果敢さを評価されている人なので、本人もそんな理解で、敢えて政治向きのことに深入りしなかったのかなあ。


もう一つ、朱然と言えば孫権と一緒に勉強した学友コンビですが、胡綜という人も孫権と一緒に学問をしたことがあるようなので、3人で勉強してたのかもー。で、この胡綜、孫権に負けず劣らずの酒乱だったらしい(笑)。学友同士で一緒に酒でも…なんてことになったら、朱然一人でとばっちり喰らってたんだろうなー(笑)。

by huangque | 2011-01-01 08:15 | 三国関連

呉の歩氏について

【2014.01.29の日記】

歩騭伝の注に、歩騭の祖先は晋の大夫の揚という人で、歩という地を邑として賜った的なことが書いてあるのですが、これって郤至の祖父(かつ郤シュウの父)に当たる歩揚じゃないのかい…? 晋の大夫だし、揚ちう名だし、歩邑を賜ってるから歩揚という訳だし…。つまり歩騭の歩氏って、郤氏から分かれたんじゃないのかい…?
郤氏は晋で滅ぼされてるので、その子孫がいるのかどうか分からんけど(これが問題だ…;)、郤至の弟の郤毅(歩毅と書かれてる箇所もあったよな)が殺されたとは左伝なんかには書いてないし、もしかすると彼の子孫が歩騭…なんて、妄想したらダメでしょうかっ!?

ちなみに朱然はもともと施氏ですが、施氏っていうと魯にいたよなー。郤シュウ(に要請された声伯)に嫁さんを取られた(…)施孝叔なんていたなー。

by huangque | 2011-01-01 08:10 | 三国関連

春秋時代の暦法

【2012.12.31の日記】

数ヶ月前に天.地.明.察に嵌っていた時に、杜預が左伝に基づいて作った暦についての論文をみてメモを取っておいたのですが、それをアップし忘れていたので今年のうちに…。基本的な事ばかりですが、中国の古い暦に興味をお持ちの方は、下をご覧ください~だいぶゆるいまとめです(>_<);

「杜預の春秋長暦について」という渡邉よしひろ先生の論文のまとめです。
杜預の長暦の概略と、杜預が認識していた暦法の基礎についてのまとめをば。


■『春秋長暦』のこと
杜預が、左伝の「隠公元年より始まる各月の一日の干支を示し、『春秋』と左伝に記載された干支が何月何日に当たるかを計算したもの」。ご存じの方にとっては当り前の事なのですが…『春秋』や左伝では、日付(や年)を十干(甲乙丙丁…)と十二支(子丑寅卯…)の組み合わせで表してます。例えば、ヒツの戦いがあったのは「六月乙卯」の日、と『春秋』に記してあります。杜預は、この六月の一日の干支を示し、そして六月乙卯の日が何日だったのかを計算した、ということになるでしょうか。
『春秋長暦』は明の頃には既に散逸しており、現在見られるものは『永楽大典』などに基づいて作られた輯本『春秋釈例』に収められているらしいです。


■昔の暦について
戦国時代の四分暦に始まる中国の暦は、どれも「太陰太陽暦」。これは、地球が太陽の周りを一周する周期(一太陽年≒365.2422日)と、月が地球の周りを一周する周期(一朔望月≒29.5305日(平均))とを組み合わせたもの。1朔望月で1年の長さを計算すると、1年≒354.4308日にしかならず、一太陽年と較べると10.8114日短く、だいたい三年経つとそのズレが一朔望月分に達し、季節がズレていってしまうので、季節とのズレを解消するために閏月を入れて調節していたらしい。
※上記の数字は今の天文学が算出したもので、昔の中国ではそこまで正確な値は出てなくて、もすこしアバウトな数で計算してたと思われます。上の数字じゃ、『天.地 明 察』で宣明暦(唐代の暦)より正確な暦として出てくる授時暦よりも、一太陽年の長さが正確なんだもの… 。


■閏月のルール
戦国時代の頃から、「十九年七閏法」という閏月の置き方が確立していたらしい。19年を1章として、その間に7回の閏月を設けるのが「十九年七閏法」。
閏月を設けるタイミングは、太陽年に基づいて定められた「二十四節気」という季節の区分によって決まるらしいです。「二十四節気」は、一太陽年を24等分して設定したもので、冬至・夏至、春分・秋分…とかです。二十四節気には、「中気」と「節気」との別があり、これが交互にやって来ます。

ちなみに二十四節気というのは…(※★=中気、☆=節気)
★冬至/☆小寒/★大寒/☆立春/★雨水/☆啓蟄/
★春分/☆清明/★穀雨/☆立夏/★小満/☆芒種/
★夏至/☆小暑/★大暑/☆立秋/★処暑/☆白露/
★秋分/☆寒露/★霜降/☆立冬/★小雪/☆大雪/
(この論文の中の例では冬至を最初に持ってきてたのでそれに従いました。)

このうちの「中気」が、閏月のカギになるらしいです。
「中気」同士の間隔は、1朔望月より微妙~に長いので、そのうち1朔望月に「中気」を含まない月が生じます。そしたら閏月を置くらしいです。
……算数に弱いので、もう…まとめていて…辛い……<ダメな人。
高校生の頃はバカみたいに数学ができなかったので、数学の先生に「古典ばっかりじゃなくて数学もやってくれよな…ハア(溜息)」と嫌味を言われたことが…ある……(<古典はすごく好きだった)。しかし私が高校生の時に一番時間を費やしたのは間違いなく数学だったんだ…なのにできなかったんだ……ウッ。。。

ちなみに(その2)、十九年七閏法の詳細が、孔穎達の左伝疏(文公元年)に書いてあった…それによると、閏月を置くのは、①章に入って3年目の9月/②6年目の6月/③9年目の3月/④11年目の11月/⑤14年目の8月/⑥17年目の4月/⑦19年目の12月…の7回。だいたい32カ月に1回、閏月を置くらしい。


■大の月・小の月
1朔望月≒29.5305日、つまりだいたい29日半なので、30日の月と29日の月を交互に繰り返していると、暦と月の朔望がだいたい一致します。1ヵ月が30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」と言います。
だいたい大の月と小の月の繰り返しで行けますが、0.0305日のズレが毎月生じ、そのうちズレが大きくなってきます。それを調節するために、大の月の後に連続して大の月を置くことがあるようです。これを「連大」と言い、だいたい13カ月~15か月に一度置くらしいです。

細かな数値に違いはあると思いますが、杜預は上記のことをだいたい知っていたらしいです。
by huangque | 2011-01-01 08:05 | 春秋関連

屈原のなまえめも

【2012.7.2の日記】

某所で巫について語ってらっしゃったのが参考になりましたありがとうございます! 魂相手のお仕事…かっこええなぁ…。「顕を去って幽に就く」という言葉は、白川さんの『中国古代の文化』の「巫祝の伝統」の章のラストあたりにありましたね…どこかに出典があるのかなーと思って念のため中央研究院で楚辞補注含めて検索してみましたがヒットしなかったので、白川さんの言葉だと思います。
『文化』には、屈原の巫としての名が「霊均」だと書いてありましたが、「霊均」ちう名は「離騒」冒頭にあるんですね…屈原が父から「正則」という名と「霊均」という字をつけられた、という文が「離騒」冒頭にある…。注によれば「正則」は「平」、「霊均」は「原」の意味で、自分の名と字を別の語で言い換えたんだ…という解釈がなされているようですが、白川先生はこれを屈原の巫者としての名前と解釈してるっぽいですね……って、いきなりディープなトークになってしまった;; そいえば詩経も楚辞もまともに読んだ事がありませ…n(殴) 手元には簡便な訳書しかないけど、注もついてるのでまずはこれを読んでみよう…。そう思い立って2,3度開いて放置した過去があるなぁ…<コラ;

…あかん、「正則」ちうと無双のあのリーゼントのチンピラのイメージしか出てこない…!!
by huangque | 2011-01-01 08:00 | 春秋関連

巫って何ぞやー

【2012.6.28の日記】

巫って何なんやーと思って、白川先生の『古代中国の文化』を引っ張り出して少し見てました。ざっと見ただけなので把握し切れてないのですが、要は鬼神・自然神を対象とする呪術者で、歌舞を以て祈るのが巫…らしい(一方、霊魂(特に祖霊?)を対象とし、言葉を以て祈るのが「祝」らしい)。「巫」という字も、袖を持って舞う形らしい。

あと、左伝の中の巫も少しチェックしてみたのですが、巫というのは人の死を予言してばかりいるなぁ…。先日の日記で挙げた桑田の巫・梗陽の巫もそうだし、楚に范の巫の矞似という人もいたんだけど(『左伝』文10)、彼も楚の成王・子玉・子西の横死を予言してた。

巫臣も、もしかして人の死が見える人だったのかなー…というか、そういう設定もアリかなーと思ってます。夏姫が楚に来た後、荘王や子反に対しては夏姫を娶るのはおよしなさいと言ってるのに、夏姫が連尹襄老に嫁ぐ時には別段止めてないんですよね。そしてそれから一年も経たないうちに襄老は邲の戦いで戦死。楚が晋から歴史的大勝を得た戦いでまさかの戦死…。襄老がすぐ死ぬ(=夏姫の配偶者がいなくなる)のが分かってたから、夏姫が襄老に嫁ぐことには口を挟まなかったのかもー…とかなんとなく考えてます。夏姫を連尹襄老に嫁がせたのは荘王ですが、裏には巫臣の口添えがあったりして。

あと、巫臣が夏姫と駆け落ち(…)するために動き出したのも、たぶん荘王の死(宣18=BC591年7月)の一年前くらいからじゃないかなーと思います。巫臣があれこれ工作して夏姫を鄭に寄こすよう鄭から楚に申し入れをさせた際、荘王の下問を受けた巫臣が答えた中に「荀首が新たに中軍の佐となった」という言葉がある。荀首が中軍の佐となったのは、郤克が中軍の将に昇格し中軍の佐の座が空いた後と考えるのが妥当なので、つまり中軍の将だった士会が引退して郤克がその座に座った後、すなわち宣17=BC592年8月以降と考えるべきだろうと思われます。つまり巫臣が荘王の質問に答えたのは、BC592年8月以降だと思われます。工作を行ったのはその少し前。自分の意見によく耳を傾けてくれた荘王が間もなく亡くなるのが分かっていたから、荘王への忠を尽くした後に楚を離れようとした…とmousouするのもアリかしら…。次の王の共王さまは幼くて、荘王没後に権力を握るのは共王の養育係でもある子重・子反の二人に間違いないので、それを嫌ったのかもー。

…と、そんな取りとめのないmousouをしております。

あと、上記の調べ物をしてた際に気付いたのですが…岩波訳の左伝だと連尹襄老が死んだ後に襄老の子である黒要が夏姫と「結ばれた」と書いてあったので、てっきり夏姫が黒要に下げ渡されたのかと思ってたのですが、左伝の原文では「烝」という字が使われてました。「烝」というのは、身分が上の女性に姦通することらしい。つまり黒要は、死んだ親父の嫁を略奪して自分のものにしたってことなのか…なんて奴や…。巫臣が夏姫に「俺の嫁になれ!」とハッキリと言ってるのがその後なので、巫臣は夏姫を黒要から引き離してやりたかったのかもしれん…。
by huangque | 2011-01-01 07:55 | 春秋関連
【2012.6.25の日記】

「巫」というと、桑田の巫(晋景公の死を予言した人)とか梗陽の巫(荀偃の死を予言した人)みたいな、予言者としてのイメージが自分の中にあるのですよね…。でも巫臣の言動を見るに、そういった一面は希薄で、合理的な思考の上に策を立てる策士の色の方が強いのです…いかにも「巫」らしい言動がないのですよね…。
なので、うちの巫臣は「巫」らしい時とそうでない時の両側面を持ってます。大人モードの時は「巫」らしくない策士で、子供モードの時は神職者になります。

…ところですごく今更なのですが、巫臣の名前の構造が分からん…<エエッ。氏は「屈」、名が「臣」、字が「子霊」で、「巫」は職業名ってことでいいんですか…? 『大事表』の系図だと「屈巫臣」って書いてあるんだけど何なんやこれはー。
by huangque | 2011-01-01 07:50 | 春秋関連

晋厲公・秦康公めも

【2012.2.3の日記】

■厲公の名は「州蒲」じゃなくてもともと「州満」?
会箋を見てたらそんな説があったのでエエッと思ったのですが、自分が見られる範囲の諸説を見るに、「州満」推しの説を唱える人がかなりいる。左伝は厲公の名を「州蒲」と記し、一方史記では厲公の名が「寿曼」となっており、左伝と史記で厲公の名が全く異なっているのです。そこで昔の学者(例:唐の陸.徳.明)は、左伝の伝える厲公の名はもともと「州満」だが、、周の穆王の諱の「満」を忌んで「州蒲」としたのではないかと推理しておるようです。「州満」ならば「寿曼」とも音が近く相通じるようなのです。

■秦の康公について
…お恥ずかしい話ですが自分は左伝を最初から通して読んだことがなく、僖公33年から成公年間くらいしかまともに読んだことがありません…。。。僖公33年以前の記事には必要でない限り目を通していないのです…; 故に、僖公15年に、秦の康公(太子オウ)が出てくることをつい先日まで知らなかったのです…。しかもオカンが穆姫、すなわち晋の献公の娘であることもその時知った始末です…。つまり秦の康公って晋の献公(重耳のオヤジですな)の孫に当たるんですね…。康公は晋の外孫だと杜預が注で言っていたのは見たことがあり気になってはいたのですが、根拠となる記事がどこにあるか分からんかったので放置してたんですよね…そうか、そういうことだったのか…。
僖公15年の段階で、太子のオウすなわち後の秦の康公には弟がいるので、今絵板で描いている士会が晋に誘拐された頃にはいくら若くても30代前半ということになり、あんな少年ではないということになるんですよね…えへへガクッ。でももうあのまま行かせてもらいますっ(>_<)!
by huangque | 2011-01-01 07:45 | 春秋関連
【2012.1.14の日記】

左伝文公13年に、晋の六卿が狄の賈季か秦の士会を戻って来させっぺーって相談してた時、荀林父さんは賈季を推して結局却下されてるのですが、何故荀林父さんが賈季を推したのか…を少し妄想してみた。

そもそもこの晋六卿会議は秦への対策を講ずるために開かれたものだと思われます。士会が秦に亡命してからというもの、晋はたびたび秦の侵攻に悩まされ、前年に河曲の戦いがあったばかり。文13の春にも詹嘉なる人物を瑕という邑に派して桃林塞なる場所を守らせているが、これは秦への対策であるらしい。つまり当時の晋にとっての悩みの種は秦であって、当時狄は特に晋を困らせていない様子。

だから六卿会議の議題は秦対策すなわち秦にいる士会をどうすっぺという事柄であって、狄はオマケにすぎないと思われます。にも拘らず、狄の賈季を連れ戻しましょうと発言した荀林父さんはぶっちゃけ空気が読めてないのである…(ある意味それが荀林父さんっぽいんですけど…;)。

後の行動を見てみるに、荀林父さんて赤狄対策に人並み以上に力を入れてる人のように見えるのですよね…宣15年に赤狄ロ氏を滅ぼしてるのはもちろん、宣6年にも赤狄への対策を講じているし…。文13年の六卿会議で荀林父さんが賈季を晋に戻そうと言ってるのも、彼個人は秦よりも狄を意識してるからのような気がするのです。目下の問題である秦をスルーしてしまうくらいに狄が気になって仕方ない感じ。賈季を晋に戻そうと言ってるのは、賈季その人自身の力を欲しているのではなく、晋の内情を知りる賈季を赤狄から除くことによって赤狄を弱めようとしているように見えるのです。

後々晋は郤缺も士会も郤克も赤狄を討つなり外交的に攻めたりしているので、そんな赤狄に早くから目をつけているのはある意味先見の明があるとも言えると思うのですが、この時にあってはただ空気読めてない感じになってしまってるのですよね~。

とりとめないけどメモがてら。
by huangque | 2011-01-01 07:40 | 春秋関連

繞朝さんメモ

【2012.1.12の日記】

以下はメモ的。絵板でちょっと前に出てきた&この後もちょっとだけ出てくる予定の、秦の繞朝の話。
『左伝』では、士会に策を渡した後の繞朝のその後は記されていないのですが、『韓非子』の説.難.篇にある話によると、繞朝はあの後秦で殺されているらしい(原文短いので挙げる(岩波韓非)>(則非知之難也、処知則難也、故)繞朝之言当矣、其為聖人於晋、而為戮於秦也(、此不可不察))。殺された経緯については『韓非子』に明記がないけれど、たぶん『春.秋事.後』というやつにある繞朝の話と同根ですよね…。
『春.秋事.後』については私は読んだことがなくて、H丸さま宅で紹介なさっているのを見ただけなのですが、それによると士会が晋に連れ戻された後、繞朝の賢さを危険とみなして秦にうそ情報を流し、結果康公が繞朝を疑って殺したらしく…。つまり繞朝が殺された原因は士会が作ったものだということで…士会がすげいえげつない…こんな士会斬新すぎる…!
うち設定は左伝準拠で進めていくつもりなので、『韓非子』乃至『事後』のように康公が繞朝を殺すという話はスルーして参ります。ただ、すごくインパクトがあったのでここにメモっておきます。

あ、次の日記では河曲の戦いの後で晋の六卿が賈季と士会のどっちを晋に戻すか相談してるくだりで荀林父が賈季を推した理由についての憶測(…)をメモっておこう。本当に憶測だけどー。
by huangque | 2011-01-01 07:35 | 春秋関連

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


by huangque