『春秋名臣列伝』メモ・その1

宮城谷さんの『春秋名臣列伝』の自分の備忘録的メモ。ほんと自分用で…す……自分がだいたい知ってることは書いてないし、知らないことは無駄にメモってます; そして間違ってたらすみません;;



■石サク■
衛の臣。西周時代、衛の靖伯から石氏は出た。荘公が、嫡子たる公子完ではなく、庶子の公氏州吁を寵愛したので、石サクは、嫡子を立てるよう諫めた。荘公の死後、完が立ち(=桓公)、態度の大きい州吁を朝廷から追い出した。州吁は鄭に逃げ込み、鄭の荘公(寤生)の弟・京城大叔(段)を頼った。が、(具体的な時期は不明だが)州吁は衛に戻り、桓公16年に弑逆を行った。石サクは陳に向い、策を用いて州吁と、州吁に昵懇だったわが子の石厚を陳の都に誘い込んで捕え、処刑した。これが「大義親を滅す」と称される。

▼衛の武公
名は和。荘公の父。「切磋琢磨」(『詩経』衛風・淇奥)する様を讃えられる。
▼荘姜
荘公の正室。その美しさは詩経の「碩人」に詠われる。
▼公子完
桓公。荘公の子。荘公の側室の厲ギ[女+為](の妹の戴ギ)が生み、正室の荘姜が育てた。
*姫姓の国の一覧あり



■祭足■
鄭の臣。左伝によると、祭の人とある(これについて著者の推理がある)。荘公(寤生)の頃から執政で、荘公が弟の京城大叔(段)に大きな邑(京。のちのケイ陽)を与えているのを危険視して諫めた。結局段は乱を起こした(が、未然に動きがばれて失敗した)。また、宋に捕らえられた昭公を解放させた。

▼鄭の荘公
名は寤生。母の武姜に憎まれて育つ。母と弟(段)に殺害を計画されるが、未然に防いだ。その後、それに加担した母を幽閉したが、会いたいという思いが強くなり、潁孝叔という人物の進言で、隧道の中で母に会った。『春秋』の冒頭、「夏五月、鄭伯、段にエン[焉+邑:邑はおおざとへんということで…;]に克つ」とは段との戦いを言う。
▼武姜
武公の后。荘公・京城大叔の母。申の公女。
▼鄭の昭公
名は忽。荘公の子。母は鄧曼。荘公の後位に就くが、宋の差し金で一時退位を余儀なくされ、衛に亡命。のち、厲公が亡命すると祭足に招かれ復位した。
▼鄭の厲公
名は突。母は宋の人。宋人の手引きで、昭公の代わりに立つ。祭足を嫌い、祭足の女婿(雍糾)を使って暗殺させようとするが失敗し、蔡に亡命。のち鄭に戻った様子。
*姜姓の国の一覧あり



■管仲■
言わずと知れた斉の名宰相。名は夷吾。「管鮑の交わり」の故事や、諸葛亮が自らを比したことでも有名。斉の襄公(諸児)が従兄弟の無知に弑され、その無知も殺されると、襄公の弟である小白と公子糾とがその後釜を争った。結局、鮑叔が奉戴する小白が勝って桓公として立ち(ここの経緯がドラマチックよね)、公子糾は殺され、糾を補佐していた管仲は斉に引き渡された。鮑叔は管仲を重用するよう桓公に進言、以後管仲はその手腕を遺憾なく発揮し、桓公を覇者たらしめた。

▼鮑叔
名は牙。姓はジ[女+似]とのこと。小白を守ってキョ[艸+呂]に行き、無知が殺されると公子糾より早く斉に戻って小白を立て、魯軍とともに来た糾を破り、魯に交渉して管仲を斉に来させた。
▼魯の荘公
名は同。魯の桓公と斉の襄公の妹・文姜の間の子。公子糾を保護する。
▼召忽
管仲とともに公子糾を奉戴する。公子糾が最終的に魯で殺されると、それに殉じた。
*ジ[女+似]姓から出た氏族一覧・斉の桓公(小白)周辺の系図あり



■士イ■
晋の臣。隰叔(しゅうしゅく)の子。献公に仕える。献公が、有力者(献公の先祖の桓叔や荘伯から出た血筋)の台頭に頭を悩ませていると、計略を設けて彼らを弱体化させ、献公の力を強めた。また、献公の後継が曖昧になると、献公の嫡子の申生に亡命を勧めた。

▼隰叔
杜の杜伯の子。杜伯が理由なく周の宣王に討たれると、晋に亡命して文侯に仕え、士(司法官)となった。
▼晋の献公
名は詭諸。武公の子。子に申生・重耳(文公)・夷吾(恵公)・奚斉。
*晋の穆侯以降、重耳までの系図あり



■百里奚■
秦の臣。生まれた場所や経歴については諸説あり、宮城谷さんがそれらを突き合わせて百里奚の経歴について考察なさってます(その一つの結論が、「買われた宰相」(『侠骨記』所収の作品)かと)。百里奚が秦の穆公に仕えると、秦の周辺の異民族たちがその徳を慕って秦に従ったという。五枚の羊の皮で秦に買われたという逸話があり、それにちなんで五コ[羊+殳]大夫とも呼ばれる。



■臧孫達■
魯の臣。臧孫達は魯の孝公の孫、僖伯コウ[弓+區]の子。隠公(名は息姑)や桓公(名は允)の従弟、恵公の甥。恵公の頃から重んぜられ、桓公の子・荘公の代まで魯に仕えた。宋の華父督が自らの弑逆を正当化するため、近隣各国に鼎を贈り、桓公はこれを大廟に据えた。臧孫達は、不義の象徴を大廟に置くべきではないと諫めた、結局桓公は聞き入れなかったが、これを聞いた周の内史は、臧孫氏は栄えるであろうと言った。

▼周の宣王
魯の後継ぎ問題に容喙し、魯を混乱に陥れる。この事件以降、宣王は諸侯の信頼を失った。
▼魯の桓公
名は允。隠公の弟。斉の襄公の妹・文姜を娶る。襄公が文姜と姦淫したため、桓公は怒るが、却って襄公の子(彭生)に絞め殺された。子は荘公(同)・慶父・叔牙・季友。慶父は孟孫(仲孫)氏、叔牙は叔孫氏、季友は季孫氏の祖。のち孟孫(仲孫)氏・叔孫氏・季孫氏は「三桓」と称され、君主を凌ぐ力を持つようになる。
*魯の献公~隠公、宋の哀公~殤公の系図あり



■臧孫辰■
臧孫達の孫。彼もまた祖父同様、魯で長きにわたって重きをなし、魯ではその後も名相として名を残す(が、後世の孔子の評価は辛口)。外交センスに長じていた。
*魯の桓公の子孫の系図あり



■狐偃■
晋の臣。重耳の舅にあたる。献公(詭諸)の死後、晋の国内が乱れると、公子の一人・重耳を支えて国外に逃亡した。冷静に時勢を判断し、焦る重耳に対して時に強硬に待つことを求めた。19年にもわたる逃亡生活で重耳とその家臣団を導き、重耳=晋の文公を覇者たらしめた。以後晋は長く天下の主導権を握る。
*狐氏の系図あり



■郤缺■
晋の臣。父は文公(重耳)暗殺を企てた郤ゼイ[艸+内]。父の反乱が失敗に終わると、それに加わった郤缺は逃走し、山奥で妻とともにひっそりと暮らしていた。そこを文公の臣・胥臣に見出され、政権に復帰する。諸侯の信頼を失いかけている趙盾に助言し、また兵法の才にすぐれる士会を秦から取り戻した。

▼郤ゼイ
武辺で献公に愛された郤豹の子。献公の死後、晋の国内が乱れると、夷吾(のちの恵公)に従って秦に逃げた。のち、秦の後押しで夷吾=恵公が即位するとその腹心となり、恵公の死後はその子(懐公)を立てた。重耳が晋に戻ると、屈して重耳に従ったが、逃がした懐公が殺されたと聞いて、ともに恵公に仕えた呂甥と兵を挙げて重耳を討とうとした。が、事前に計画が発覚して失敗、郤ゼイは死に、郤缺は命からがら逃げ延びた。
▼胥臣
臼季ともいう。野に下っていた郤缺を見出して文公に推挙する。その父(郤ゼイ)のために恐ろしい目にあった文公は郤缺の登用をためらうが、胥臣が懇ろに推挙したため、文公は郤缺を下軍の大夫に任命した。




■孫叔敖■
楚の臣。氏はイ[艸+為]、名は艾猟。孫叔敖とは通称とのこと。父は、楚の名軍略家・イ賈。父が闘椒(子越)に攻められて殺されると、楚の荘王から令尹に任ぜられる。内政にその力を発揮した。ヒツ[必+邑]の戦いの論功行賞では、荘王に向って、荒涼とした地を所望した。楚では二代で領地を没収されるのが通例だが、孫叔敖が得たこの地は、その後九代まで所有を許された。

▼イ賈
楚の荘王の愛臣。兵法に長ける。晋(趙盾)が連合軍を組織して、楚の盟下にある鄭に来た際、イ賈は地の利を生かして北林で晋軍を叩き、これを撤退させた。また、若敖(闘)氏の勢力を荘王が憂えると、イ賈はその意向を汲んで令尹の闘般(子揚)の罪状を見つけ出して誅殺した。が、闘般のいとこ・闘椒(子越)がこれに激怒し、イ賈を捕らえて殺した。
▼闘椒
若敖氏。イ賈を殺して荘王に反旗を翻すものの、皐滸という地で返り討ちにされて一族は滅んだ。彼の子は晋に逃げ、のちエン[焉+邑]陵の戦いで楚を破ることになる。その子というのが苗賁皇。
*楚の若敖~荘王あたりの系図あり



…や、やっと10人…(バタリ)。
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# by huangque | 2005-12-22 03:24 | 本めも

『春秋名臣列伝』

『春秋名臣列伝』  宮城谷昌光  文春文庫  2008



春秋時代の名臣20人の事績が書いてあります。ちょっとだけでも春秋時代に踏み込んでみた方(てゆか自分/笑)でも「あっ、この名前聞いたことある!」という有名どころが何人もいます。教養としても読んでおいていいと思うし、宮城谷さんの他の作品にも登場した人物が多数いますので、そのフィードバックや裏話的要素としても楽しめると思います。


この本に出てくる20人は…国ごとにまとめてみます。字が出ない…(涙)。

【衛】: 石サク[石+昔]・キョ[艸+遽]伯玉
 (「艸」はくさかんむりということで…)
【鄭】: 祭足・子産
【斉】: 管仲・晏嬰
【晋】: 士イ[艸+為]・狐偃・郤缺(げきけつ)・巫臣・祁奚(きけい)・師曠
【秦】: 百里奚
【魯】: 臧孫達・臧孫辰
【楚】: 孫叔敖・巫臣
【宋】: 子罕(しかん)
【呉】: 季札・伍子胥・孫武

巫臣(屈巫とも言う)の名が楚と晋の二か所に出てくるのは、彼が楚に仕えた後、晋に行ったから。


自分は春秋時代についてはかなりの無知なので分からんことだらけなのですが(汗)、この頃の出来事や言行を記した文献を渉猟した宮城谷さんの推理は、春秋に詳しい方にとっては興味深いんじゃないかと思います。

でも、たいして春秋時代を知らなくても、聞いたことのある話もたくさん出てきました。「大義親を滅す」という言葉は衛の石サクのエピソードだったのか…! この石サクを見ていると、三国時代の呉の全琮とちょっと重なって見える。自分の息子が、正統ではない公子にやたらと接近するとか、さ…。

伍子胥や孫武は、知ってる方も多いのでは。伍子胥は、父兄の仇である楚という国に復讐し、楚の平王の屍を掘り起こして鞭打った…という、いわゆる「死屍に鞭打つ」話で知られてるし、孫武はかの兵法家・孫子のことで、呉王の後宮の女性たちを訓練して披露した話は聞いたことがある方も多いのではと思います。
自分の好きな三国時代にからめて言えば、子産と季札の親密な交わりは、周瑜・魯粛の二人の関係を例えるのに用いられているし、自分と険悪な人物でも客観的に評価して推挙した祁奚の話は、呂蒙伝や蒋欽伝にも引かれてます。

漢字一字一字について細かく調査してらっしゃる宮城谷さんは、漢字を使うにもこだわりがある様子で、敢えて見慣れない漢字を使っていることも多くて、内容は決して簡単ではないと思います。それに、春秋時代の人たちのものの考え方は、慣れてこないとよく理解できないものも多い感じがするので難しく感じます…。でも、ちょっと大変でも漢和辞典を片手に読んでみると、それだけでも勉強になると思います。
それに、系図などもいくつか書いて載せてくれてますので、ちょっとしたおさらいにも使えると思われます、うまく使えば…<うまく使えない奴

春秋時代は、宮城谷さんのおかげでけっこう親しみが持てるようになりました。他にも、春秋時代に近付くのに簡便な本ってないのかな…やっぱりこの時代は難しいので、ガイドっぽいものがないと自分はちょっとつらいのです(涙)。
…紹介らしい紹介ができずにすみません;;

あと、自分の備忘録的に、別に20人の簡単なメモを作ろうと思ってます。
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# by huangque | 2005-12-22 03:23 | 本めも

『物語西遊記』

『物語西遊記』  魚返善雄(訳) 社会思想社 1967



古本屋で入手した文庫本。
魚返さんの『水滸伝』の訳が面白いと聞いていたので、『西遊記』の魚返訳を見つけて買ってみました。『西遊記』関連の本は持ってなかったので、ちょうどいいかな、と…。

前書きには、『西遊記』のごく簡単な成立史と、日本・欧米で出た『西遊記』の訳本についての簡単な説明などがある。魚返氏が『西遊記』を訳するに当たってのスタンスは、前書きの「ここに要約された原文は現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量であることを信ずる」という言葉に見える。簡略ではあるが、最低限の内容は盛り込んで訳してあると思う。

魚返訳のいいところは、まず本文を100回に分けているところ。
たぶん、原典に使った『西遊記』のテキストは『西遊真詮』というやつだと思われるのですが(これが一番メジャーな『西遊記』だと、随分前に平凡社の西遊記の解説か何かで読んだんだけど…超うろ覚えですすみません)、それが100回本なのです。その章回をそのまま残してあるのです。
この訳本自体は本当に簡略なのですが、原典『西遊記』の回分けと一致しているので、本書で気になった部分があれば、『西遊記』の全訳から比較的簡単に探し当てて、もっと詳しく知ることができるのです。たとえば本書の「六.二郎の化け方」の悟空と二郎神との化かし合いを詳しく知りたければ、全訳『西遊記』の第六回を見ればいい、という感じ。
簡略でありながら原典との対照もできるので、『西遊記』全体のあらすじが分かるとともに、備忘録的な使い方もできると思います。

もう一点いいところは、何といっても訳が面白い。あの軽妙な訳がたまらんです。古典の逐語訳なんかは、(訳す人にもよるのですが)物によってはものすごく読みづらくて…。この西遊記訳は逐語訳ではなく抄訳ですし、節回しがなんとも言えず面白くて…。サクッと読めます。

ただ…ちょっと訳しすぎかな、という印象もあって(笑)。分かりやすくするために、固有名詞的なものも訳してたり、別の分かりやすい言葉に置き換えてるところがあって…。赤脚大仙を「ハダシ仙人」とか、弼馬温をそのまま「馬屋番」、とか。原典に忠実に訳してある本と見比べるときにちょっと困惑しそうです。が、その点はもともと「現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量」を目指す本書が「必要または十分」から外れると見なした箇所かと思うので、そこまで求める自分が間違ってるかもしれません。

『西遊記』のあらすじを知りたければ、まずこの本を読んでおけばいいと思います。今では古本屋を探さないとないかもしれませんが…。

魚返さんの水滸伝訳も欲しいなぁ…(笑)。
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# by huangque | 2005-12-22 03:22 | 本めも

『中国古代の民俗』

『中国古代の民俗』 白川静 講談社学術文庫 1980



一冊は白川さんの本を読んでおかないと…と思い、古本屋で見つけて買いました。
   …む、難しい!!!(笑)
白川さんといえば漢字学なんですが、もともとは『万葉集』も研究してらっしゃったんですよね…ずっと前にテレビで見た気がする。日本の古代歌謡である万葉と、中国の古代歌謡である『詩経』を比較しつつ論が展開します。引用してある『詩経』の文も難しいし、『万葉集』のことばも難しい。時々解釈を入れてくれますが、時々訳も解釈もなくて意味が取れず辟易しまくりです;;

内容は、本の裏表紙に説明してある通り。中国古代の民俗を明らかにするのが本書の目指すところで、その方法として、
・古代文字の構造から古代人の生活や思惟を考察
・古代歌謡としての詩篇(詩経など)の発想と表現手法から生活習俗を考察
・以上から考察できたものを、日本の民俗的事実と対応させつつ比較

以上三つの手法を通し、中国古代の民俗に迫っています。
ちなみに、本書中では、白川さんの前著である『中国古代の文化』に触れて、「これについては『中国古代の文化』で言及したので繰り返さない」と言って説明をスルーすることが幾度となくありますので(涙)、『文化』を読んでから『民俗』を読むのがいいのかもしれません…。ちなみに自分は『文化』は読んでません…。


白川さんの漢字解釈でいちばん印象的なのは、やはり「口」の解釈かと(第三章「言霊の思想」)。「口」を口耳のクチとするのが『説文解字』以来の解釈なのですが、白川さんは多くの甲骨文・金文を渉猟した結果、「口」を「サイ」と読み、祝詞を入れる器である、と新しい解釈を提供しています。

この理解に基づいて、「口(サイ)」が含まれた文字(告・言・吉…)や、「口(サイ)」の中の書物を開けた象形の「曰(エツ)」を含んだ文字(書・旨…)について解釈を加えています。この部分は、謎解きを見ているようで、難しいながらも面白い箇所でした。
たとえば「告」は、祝詞の入った「口(サイ)」の上に神木の枝を表す形象を乗せてサイが樹にかかっている形を表し、神に祝詞の内容を「告」げるさまを表すのだ、とか。


他にも、「詩の六義」(風・雅・頌・比・賦・興)のうち表現技法を言う比・賦・興のうちの興についての解釈も新鮮だったでしょうか。一般に、比=直喩、賦=直叙、興=暗喩 と理解されていますが、これについては諸説紛々らしく、今も昔も議論が絶えないとか。

白川さんの解釈では、「興」の字は「同(=同瑁を指す。酒器のこと)」を両手で捧げ持つ形で、聖所を清め地霊を招くために酒を地に注ぐカン【示+果】鬯(かんちょう)の礼の際、同で酒を注ぐ形。すなわち、「興」とは地霊を呼び起こすことだ、とのこと。詩の六義の一である「興」も、地霊を呼び起こし、その呪的な力を感受するための手法のことで、その地の地形や植生を詠み誉めることにより、その地の地霊の力を得ることができると考えられていたのではないか、とのこと。だと思います…すごく難しくてうまくまとまらぬ…(苦笑)。


他にも、『詩』などの古代歌謡に頻出するモチーフについての考察などは興味深いものでした。…読み通すだけで精一杯だったのでこれ以上まとめるのはしんどいのですが(…)、漢字や中国古代の風習について興味のある方は一読してみてもいいのではないかと思います。すみませんこんなまとめ方で…;;
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# by huangque | 2005-12-22 03:21 | 本めも

元曲「趙氏孤児」【第四折】

第四折は、第三折の20年後…趙氏孤児が復讐を果たせるであろう年齢に達した時になります。今までの内容をなぞる点も多々ありますが、第四折のあらすじを…。

*   *   *

「趙氏孤児大報仇」紀君祥・作

【第四折】
登場人物:
 程勃(=趙氏孤児)(正末)
 程嬰
 屠岸賈


趙氏孤児を巡る一連の事件が「趙氏孤児」の死をもって収束し、はや20年が経った。

その件で功のあった程嬰は屠岸賈の客となり、程嬰の子は屠岸賈の養子となって「屠成」と呼ばれた。「官名」(<未詳)は「程勃」という。程勃は、武については屠岸賈に学んで熟達し、文については程嬰に学んでいた。程勃は二人を父と思い、屠岸賈を「あちらの父」、程嬰を「こちらの父」と呼んで親しんでいた。

ある日、武術の稽古を終えた程勃は、「こちらの父」の程嬰に会いに行く。
が、見ると程嬰は、書斎で巻物を手にして思いつめた表情をしている。
実は程嬰は、程勃が二十歳になったので、そろそろ「真実」を教えて趙氏の仇を取らせねば…と思案を巡らせていたところだった。程勃が「趙氏孤児」であることを教える時期になったのである。程嬰が手にしている巻物は、今まで趙氏のために命を懸け、時に命を捧げた人々の姿を絵巻にまとめたものだった。

いつもならば、程勃が来ると嬉しそうにする程嬰なのに、今日に限っては程勃が話しかけても浮かぬ顔をしたまま。それどころか、程嬰は嘆息して目頭を押さえている。
いぶかしく思った程勃は、心配してその理由を尋ねるが、程嬰は答えない。程嬰は、「お前はここで書物を読んでおれ。私はしばらく奥に行く」と、手にした巻物をそっと置いて書斎を出る。

父が置いていった巻物に目を留めた程勃は、これは何だろう…と巻物を披いてみた。
そこには、赤い服の人物が紫の服の人物に向かって犬をけしかける絵、錘を持った人物がその犬を撃ち殺す絵、片方の車輪のない車を支える人物の絵、槐の樹に頭を打ちつけ自害している人物の絵…が綿々と描かれている。しかし、そこには名前が書かれておらず、それらの人物が一体どのような人か分からない。
さらに続きを見ると、弓の弦・毒酒・短刀を目の前にした人物が短刀で自害する絵、薬箱を捧げ持ち跪いた医者の前で自刎する将軍の絵、夫人が赤ちゃんを医者に預け、自縊する絵、白髪の老人が赤い服の男に殴られている絵が続いている。

赤い服の人物に対して怒りを燃やしつつ、一体これらの絵が何を描いたものか分からない程勃。そこに程嬰が戻ってきたので、程勃はこの絵巻について程嬰に尋ねた。

程嬰は、「これらは、お前と関係があるのだよ…」と、絵巻を指して説明を始める。
――槐の木の下で死んでいるのは、赤い服の人物から紫の服の人物の暗殺を命じられたが、紫の服の人物の忠誠心に打たれた刺客のショ【金+且】ゲイ【鹿+兒】。犬はゴウ【敖+犬】という猛犬で、赤い服の人物が紫の服の人物を殺すために調練したのだ。紫の服の人物に襲い掛かった犬を錘で打ち殺したのは、殿前太尉の提弥明。その場から逃げる紫の服の人物の乗った車を助けて走っているのは、以前紫の服の人物から食べ物を恵まれた霊輒という人だ――

話を聞いている程勃は、赤い服の人物に対して怒りを燃やしてその名を尋ねるが、程嬰は「忘れてしまった」と言ってその人物の名を明かさない。が、紫の服の人物は丞相だった趙盾といい、程勃と関係があるのだ…と教える。
さらに程嬰は説明を続ける。
――赤い服の人物は趙盾の一族を皆殺しにした。趙盾の子の趙朔は、弓の弦・毒酒・短刀を贈られ(暗に自害を命ぜられ、)、短刀で自害した。趙朔の妻の公主は宮殿に幽閉されたが、その間に男の子を生み、医者の程嬰という男にその「趙氏孤児」と呼ばれる赤ちゃんを託したのだ――

程勃が「その程嬰とは父上のことですか?」と尋ねるが、まだ程嬰は「世の中、同姓同名の人はたくさんいるよ」ととぼけて見せる。そして続けて、
――程嬰に趙氏孤児を託した公主は、自ら首をくくって死んでしまった。宮殿の門の見張りをしていた韓厥という将軍は、趙氏孤児を隠した程嬰を見咎めるが、趙氏孤児を見逃すため自刎した。程嬰は、かつて趙盾と同じ朝廷にいた公孫杵臼という老臣と相談し、程嬰の子を趙氏孤児とすりかえて赤い服の人物に密告した。赤い服の人物は、程嬰の子を趙氏孤児だと思って殺し、公孫杵臼も自害したのだ。
これらは20年前の出来事だ…今、趙氏孤児は20歳になっているのだよ――

聞き終わった程勃が、まるで夢の中のようでよく分からない、と言うと、程嬰はついに「なんと、まだ分からぬか!? 赤い服の男は奸臣の屠岸賈、趙盾はお前の祖父、趙朔は父、公主は母――あの医者の程嬰は私で、お前はあの趙氏孤児なのだ!」と言い放つ。
本当の父母は、父だと思っていた屠岸賈により自害を逼られ、また趙盾や自分のために多くの人が命を擲ったことを知った程勃…もとい趙氏孤児は、一時気が動転するが、正気を取り戻すと、まず程嬰に感謝し、父母らの命を奪い横暴の限りを尽くした屠岸賈を討とうと決意する。

(以上)

*   *   *

程嬰が、今までのことをすっかり程勃=趙氏孤児に話し、本当の仇が屠岸賈であることを教える――という幕です。程嬰の説明が、今までの内容と重複するので、多少くどかったかもしれません(これでもかなり省いたのですが…)。ただ、ショゲイと霊輒に関しては今までたいした説明がなかったのですが、この第四折で詳しく説明されています。

趙氏孤児は「屠成」と「程勃」という二つの名を持っているようですが…屠岸賈の前では「屠成」、程嬰の前では「程勃」と名乗ってたんでしょうか…よく分からんかったです。
劇の中では、趙氏孤児が登場した際は「某程勃是也」(わたしは程勃だ)と言っており、以下も「程勃」の方の名前しか出てきません。この幕の中で、趙氏孤児が程嬰と話してばかりで、屠岸賈と話す場面がないため、「程勃」で通してるのかな…。

話は逸れますが、趙氏孤児のように、「育ての親が実は自分の親の仇だった」というのは、『水滸伝』120回本にある田虎故事の、瓊英(石投げが得意な少女/笑)の生い立ちに似てるように思います。
趙氏孤児と瓊英、どちらが先にできたかといえば、趙氏孤児の方が先に成立したといえます(「趙氏孤児」は元に刊行された元曲集(『元刊雑劇三十種』)に収録されており、『水滸伝』は明の中葉の成立で、田虎故事はその中でも最も新しく書き加えられた段だと思われる。『元刊雑劇~』の「趙氏孤児」は、劇中の歌(曲牌)が部分的に残っているだけで、内容ははっきりと分からないのですが、こちらで紹介している『元曲選』のあらすじと、それほど大きな差異もないかと思います)。
わ、私は…瓊英と張清のらぶらぶ話は苦手じゃ…(笑)。
…と、ほんとに話が逸れました(笑)。

次の幕、第五折がいよいよラストです。
もともとこの劇は第四折までで(『元刊雑劇三十種』は四折まで)、その後ハッピーエンドにするために第五折が付け加えられたらしいのですが。
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# by huangque | 2005-12-22 03:18 | 本めも

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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