『春秋名臣列伝』メモ・その2

では、春秋名臣列伝の続きの5人を…10人分書こうとしたけどかなり長くなりそうなので分けます; ほんと、知らないことだらけでまとめるのに一苦労だ…苦笑。



■巫臣■
楚の人。屈巫ともいう。戦国時代の屈原と同じ屈氏。才覚があり、祭祀・呪術に明るかった。楚が陳に攻め込み、美貌の夏姫を捕らえると、巫臣は夏姫に一目惚れ(?)し、荘王や子反が夏姫を娶りたいと言うのを諦めさせた。荘王が没すると、巫臣は夏姫を伴い、晋の郤至を頼って亡命し、晋では大夫として厚遇された。夏姫に未練がある子反と、以前巫臣に口を挟まれて領地をもらえなかった子重とが、楚に残った巫臣の一族を根絶やしにして報復すると、巫臣は「お前たちを奔走して疲れさせてやる」と、楚の隣の呉に中原の戦法を教え、度々楚に攻め込ませた。その度子反と子重は駆り出された。なお、巫臣と夏姫の間に生まれた娘は、晋の賢人・叔向に嫁ぐ。

▼子反(公子側)
楚の臣。夏姫を娶りたいと言ったが、巫臣に「不祥だ」と言われ諦めた。巫臣が夏姫と出奔すると、騙されたと怒り、同じく巫臣に恨みを持つ子重とともに巫臣の一族を絶やし、その財を分けた。後、巫臣は呉に楚を攻めさせ、子反と子重は戦場を駆けずり回ることになった。なお後に、エン陵での敗戦の責任を取って自害した。
▼夏姫
鄭の穆公の娘(子駟や子国などとは兄弟)。嫁ぐ相手が皆死んだり亡命を余儀なくされる、不幸の美女。子の夏徴舒が陳の霊公を弑したのを咎めて楚が陳に攻め込んだ際、楚に捕われる。楚では連尹襄老に嫁ぐが、彼もまたヒツの戦いで戦死。かねて夏姫に心を寄せていた巫臣によって楚から抜け出し、ともに晋に赴く。



■祁奚■
晋の大夫。祁氏は、晋の献侯(←献公詭諸ではない)から出たとも、隰叔(←士イの項を参照)から出たとも言われる。晋の悼公が立つと中軍の尉となる。三年で引退を申し出ると、後任には仲は悪いがまっすぐな解狐を推挙した。着任前に解狐が死ぬと、今度は自分の子・祁午を推挙した。仇でも憎まず身内でも気兼ねしない人事である(『三国志』呂蒙伝・蒋欽伝に引かれているのがこの逸話)。また、士カイが欒氏を滅ぼした際、晋の賢人・叔向も嫌疑をかけられ捕らえられた。これを噂に聞いた祁奚は、引退の身ながらも士カイを説き伏せ、叔向を解放させた。この時祁奚は叔向に会わなかったし、また叔向も祁奚に謝辞を述べなかった。

▼趙荘姫
晋の卿・趙朔の妻。夫と同族の趙同・趙括が愛人の趙嬰斉を追放してしまったので、それを恨んで同・括を讒して殺してしまった。これにより趙氏は滅亡同然になり、その領地も祁奚に与えられることになったが、韓厥が趙朔の子・趙武に領地を戻すよう進言し、結局趙氏の領地は趙武に戻され、趙氏が復権した。祁奚が韓厥・趙武を恨むそぶりは全くない。
▼羊舌職
祁奚が中軍の尉となった際、その補佐となる。叔向の父。
▼楽王鮒
晋の平公の寵臣で、彼の言うことは皆取り上げられていた。叔向が捕えられると、その赦免を願い出ようかと叔向に声を掛けたが、叔向は拒否して、「私を助けてくれるのは祁大夫(奚)だけだ」と言った。
*晋公室・祁氏の系図あり



■師曠■
晋の楽師。盲人であった(視覚がきかない分聴覚にすぐれるので、楽師は盲目の者が多いらしい←これは宮城谷さんの本には書いてないけど、どこかでそう聞いたような…)。音楽のみならずすぐれた見識をも有していたため、平公の諮問係になっていた。叔向とともに、明君とは言い難い平公を支えた。平公が大きな宮殿(シ祁宮)を建設すると、それを諫め、叔向に讃えられた。

▼晋の平公
名は彪。悼公(周)の子。叔向が彪の教育係となった。娯楽好きであったが、師曠や叔向の補佐で命を全うした。師曠にたびたび諫められたが、師曠を嫌わずに傍に置き続けた。
▼子朱
晋の行人(外交官)。いつも伝えるべき内容を枉げてしまうという理由で、叔向から使者の任を外されていた。子朱が叔向にかみつき、叔向も立ち向かってあやうく刃傷沙汰になりかかると、師曠は二人を非難した。



■子産■
鄭の臣。子国の子。名は僑。当時最高レベルの知識人で、外交にも優れる。父の子国が子駟とともに朝廷で暗殺され、君主の簡公が拘束されると、子産は即座に家内の安全を図った後、兵を整えて朝廷に向い、賊徒が足並みを揃えないうちにこれを攻めて簡公を救い出した。その後は簡公の下で力を振るい、改革を推し進めた。

▼子国
子産の父。穆公の子。名は発。子駟の股肱で司馬を拝命していたが、子駟の専横を憎んだ一派に子駟・子耳ともども殺害された。
▼子駟
子国の兄。穆公の子。名はヒ[馬+非]。鄭の僖公を毒殺し、その子・嘉を立てた(これが簡公)。以後子駟は鄭で力を振るったが、これを憎んだ者たちに殺された。
▼子孔
これまた穆公の子。子駟らの暗殺の黒幕。子駟の死後宰相となったがこれといった功績はなく、罪を疑われるや反旗を翻し、攻め殺された。
▼子キョウ[虫+喬]
子游の子。名はタイ[萬+虫]。子孔が政権を握ると、その次席となり、一貫して晋と結んで外交関係を安定させる。
▼子皮
子罕の孫。子展の子。子展の死後に正卿となる。執政である子産と政治に当たり、全てを子産に委ねて彼の補佐に回ったことは、晏子や孔子に称賛された。子皮が死ぬと、子産は「私はもう終わりだ、私を知るのはあの人だけだった」と痛哭した。子皮の死後、子産は鄭の正卿となった。
▼簡公
鄭の君主。名は嘉。父・僖公が子駟に暗殺されると、わずか5歳で君主となった。忍耐強く政治に当たり、鄭の明君に数えられる。子皮・子産が政治を担当すると彼らに一任してその力を発揮させた。在位36年、41歳で死去。
*鄭の七穆(穆公の子たち)=子良(名は去疾)・子游(偃)・子国(発)・子罕(喜)・子駟(ヒ[馬+非])・子印(舒)・子豊。(岩波『春秋左氏伝』系図より)



■子罕■
宋の司城。平公に仕えた。氏は楽、名は喜。鄭にも、字が子罕・名が喜という人物がいるが、全くの別人(鄭の子罕は、鄭の穆公の子)。「人ごとに其の宝を有つに若かず」の言葉で有名…私も高校の頃漢文の授業で見た(笑)。宋人が宝玉を子罕に献上すると、子罕は受け取らなかった。曰く、「私は貪らないことを宝としている。お互いそれぞれの宝を持っているのが一番だ」と。他にも、
・朝廷で楽轡(がくひ・字は子蕩)が華弱の首を弓で締めたとき、公平な裁きを進言。
・宋で大火事があった時、てきぱきと指示を出して被害を最低限に抑えた。
・皇国父が農耕期なのに民を楼閣建設に当てると子罕は諫めた。民が皇国父を怨嗟し、子罕を慕う歌を歌うのを聞くと、いきなり怠けている民を鞭で打つようになった。訝った人が理由を聞くと、子罕は「小さな国で褒めたりけなしたりすることが禍の元になるのだ」と言った。
・宋の左師である向戌が晋・楚の同盟を成立させて帰国すると、平公に褒賞を求め、60もの邑を授かった。その文書を子罕に見せると、「小国が畏れを忘れていい気になっては滅ぶのみ。賞を授かっては欲深いと思われますぞ」と、その文書の字を削って捨てた。向戌は邑を得られなかったが、「お陰で滅びから免れた」と言った。
・鄭の子皮が民に穀物を施したと聞くと、「善に隣するのはよきことだ」と言い、宋が不作となると官の蔵を開いて民に貸し、証文も取らなかった。これを聞いた晋の叔向は、「鄭の子皮と宋の子罕の家は最後まで残るであろう」と言った。
…などなど、けっこうエピソードに富む人物。



とりあえずここまで。あと5人です…。
# by huangque | 2005-12-22 03:25 | 本めも

『春秋名臣列伝』メモ・その1

宮城谷さんの『春秋名臣列伝』の自分の備忘録的メモ。ほんと自分用で…す……自分がだいたい知ってることは書いてないし、知らないことは無駄にメモってます; そして間違ってたらすみません;;



■石サク■
衛の臣。西周時代、衛の靖伯から石氏は出た。荘公が、嫡子たる公子完ではなく、庶子の公氏州吁を寵愛したので、石サクは、嫡子を立てるよう諫めた。荘公の死後、完が立ち(=桓公)、態度の大きい州吁を朝廷から追い出した。州吁は鄭に逃げ込み、鄭の荘公(寤生)の弟・京城大叔(段)を頼った。が、(具体的な時期は不明だが)州吁は衛に戻り、桓公16年に弑逆を行った。石サクは陳に向い、策を用いて州吁と、州吁に昵懇だったわが子の石厚を陳の都に誘い込んで捕え、処刑した。これが「大義親を滅す」と称される。

▼衛の武公
名は和。荘公の父。「切磋琢磨」(『詩経』衛風・淇奥)する様を讃えられる。
▼荘姜
荘公の正室。その美しさは詩経の「碩人」に詠われる。
▼公子完
桓公。荘公の子。荘公の側室の厲ギ[女+為](の妹の戴ギ)が生み、正室の荘姜が育てた。
*姫姓の国の一覧あり



■祭足■
鄭の臣。左伝によると、祭の人とある(これについて著者の推理がある)。荘公(寤生)の頃から執政で、荘公が弟の京城大叔(段)に大きな邑(京。のちのケイ陽)を与えているのを危険視して諫めた。結局段は乱を起こした(が、未然に動きがばれて失敗した)。また、宋に捕らえられた昭公を解放させた。

▼鄭の荘公
名は寤生。母の武姜に憎まれて育つ。母と弟(段)に殺害を計画されるが、未然に防いだ。その後、それに加担した母を幽閉したが、会いたいという思いが強くなり、潁孝叔という人物の進言で、隧道の中で母に会った。『春秋』の冒頭、「夏五月、鄭伯、段にエン[焉+邑:邑はおおざとへんということで…;]に克つ」とは段との戦いを言う。
▼武姜
武公の后。荘公・京城大叔の母。申の公女。
▼鄭の昭公
名は忽。荘公の子。母は鄧曼。荘公の後位に就くが、宋の差し金で一時退位を余儀なくされ、衛に亡命。のち、厲公が亡命すると祭足に招かれ復位した。
▼鄭の厲公
名は突。母は宋の人。宋人の手引きで、昭公の代わりに立つ。祭足を嫌い、祭足の女婿(雍糾)を使って暗殺させようとするが失敗し、蔡に亡命。のち鄭に戻った様子。
*姜姓の国の一覧あり



■管仲■
言わずと知れた斉の名宰相。名は夷吾。「管鮑の交わり」の故事や、諸葛亮が自らを比したことでも有名。斉の襄公(諸児)が従兄弟の無知に弑され、その無知も殺されると、襄公の弟である小白と公子糾とがその後釜を争った。結局、鮑叔が奉戴する小白が勝って桓公として立ち(ここの経緯がドラマチックよね)、公子糾は殺され、糾を補佐していた管仲は斉に引き渡された。鮑叔は管仲を重用するよう桓公に進言、以後管仲はその手腕を遺憾なく発揮し、桓公を覇者たらしめた。

▼鮑叔
名は牙。姓はジ[女+似]とのこと。小白を守ってキョ[艸+呂]に行き、無知が殺されると公子糾より早く斉に戻って小白を立て、魯軍とともに来た糾を破り、魯に交渉して管仲を斉に来させた。
▼魯の荘公
名は同。魯の桓公と斉の襄公の妹・文姜の間の子。公子糾を保護する。
▼召忽
管仲とともに公子糾を奉戴する。公子糾が最終的に魯で殺されると、それに殉じた。
*ジ[女+似]姓から出た氏族一覧・斉の桓公(小白)周辺の系図あり



■士イ■
晋の臣。隰叔(しゅうしゅく)の子。献公に仕える。献公が、有力者(献公の先祖の桓叔や荘伯から出た血筋)の台頭に頭を悩ませていると、計略を設けて彼らを弱体化させ、献公の力を強めた。また、献公の後継が曖昧になると、献公の嫡子の申生に亡命を勧めた。

▼隰叔
杜の杜伯の子。杜伯が理由なく周の宣王に討たれると、晋に亡命して文侯に仕え、士(司法官)となった。
▼晋の献公
名は詭諸。武公の子。子に申生・重耳(文公)・夷吾(恵公)・奚斉。
*晋の穆侯以降、重耳までの系図あり



■百里奚■
秦の臣。生まれた場所や経歴については諸説あり、宮城谷さんがそれらを突き合わせて百里奚の経歴について考察なさってます(その一つの結論が、「買われた宰相」(『侠骨記』所収の作品)かと)。百里奚が秦の穆公に仕えると、秦の周辺の異民族たちがその徳を慕って秦に従ったという。五枚の羊の皮で秦に買われたという逸話があり、それにちなんで五コ[羊+殳]大夫とも呼ばれる。



■臧孫達■
魯の臣。臧孫達は魯の孝公の孫、僖伯コウ[弓+區]の子。隠公(名は息姑)や桓公(名は允)の従弟、恵公の甥。恵公の頃から重んぜられ、桓公の子・荘公の代まで魯に仕えた。宋の華父督が自らの弑逆を正当化するため、近隣各国に鼎を贈り、桓公はこれを大廟に据えた。臧孫達は、不義の象徴を大廟に置くべきではないと諫めた、結局桓公は聞き入れなかったが、これを聞いた周の内史は、臧孫氏は栄えるであろうと言った。

▼周の宣王
魯の後継ぎ問題に容喙し、魯を混乱に陥れる。この事件以降、宣王は諸侯の信頼を失った。
▼魯の桓公
名は允。隠公の弟。斉の襄公の妹・文姜を娶る。襄公が文姜と姦淫したため、桓公は怒るが、却って襄公の子(彭生)に絞め殺された。子は荘公(同)・慶父・叔牙・季友。慶父は孟孫(仲孫)氏、叔牙は叔孫氏、季友は季孫氏の祖。のち孟孫(仲孫)氏・叔孫氏・季孫氏は「三桓」と称され、君主を凌ぐ力を持つようになる。
*魯の献公~隠公、宋の哀公~殤公の系図あり



■臧孫辰■
臧孫達の孫。彼もまた祖父同様、魯で長きにわたって重きをなし、魯ではその後も名相として名を残す(が、後世の孔子の評価は辛口)。外交センスに長じていた。
*魯の桓公の子孫の系図あり



■狐偃■
晋の臣。重耳の舅にあたる。献公(詭諸)の死後、晋の国内が乱れると、公子の一人・重耳を支えて国外に逃亡した。冷静に時勢を判断し、焦る重耳に対して時に強硬に待つことを求めた。19年にもわたる逃亡生活で重耳とその家臣団を導き、重耳=晋の文公を覇者たらしめた。以後晋は長く天下の主導権を握る。
*狐氏の系図あり



■郤缺■
晋の臣。父は文公(重耳)暗殺を企てた郤ゼイ[艸+内]。父の反乱が失敗に終わると、それに加わった郤缺は逃走し、山奥で妻とともにひっそりと暮らしていた。そこを文公の臣・胥臣に見出され、政権に復帰する。諸侯の信頼を失いかけている趙盾に助言し、また兵法の才にすぐれる士会を秦から取り戻した。

▼郤ゼイ
武辺で献公に愛された郤豹の子。献公の死後、晋の国内が乱れると、夷吾(のちの恵公)に従って秦に逃げた。のち、秦の後押しで夷吾=恵公が即位するとその腹心となり、恵公の死後はその子(懐公)を立てた。重耳が晋に戻ると、屈して重耳に従ったが、逃がした懐公が殺されたと聞いて、ともに恵公に仕えた呂甥と兵を挙げて重耳を討とうとした。が、事前に計画が発覚して失敗、郤ゼイは死に、郤缺は命からがら逃げ延びた。
▼胥臣
臼季ともいう。野に下っていた郤缺を見出して文公に推挙する。その父(郤ゼイ)のために恐ろしい目にあった文公は郤缺の登用をためらうが、胥臣が懇ろに推挙したため、文公は郤缺を下軍の大夫に任命した。




■孫叔敖■
楚の臣。氏はイ[艸+為]、名は艾猟。孫叔敖とは通称とのこと。父は、楚の名軍略家・イ賈。父が闘椒(子越)に攻められて殺されると、楚の荘王から令尹に任ぜられる。内政にその力を発揮した。ヒツ[必+邑]の戦いの論功行賞では、荘王に向って、荒涼とした地を所望した。楚では二代で領地を没収されるのが通例だが、孫叔敖が得たこの地は、その後九代まで所有を許された。

▼イ賈
楚の荘王の愛臣。兵法に長ける。晋(趙盾)が連合軍を組織して、楚の盟下にある鄭に来た際、イ賈は地の利を生かして北林で晋軍を叩き、これを撤退させた。また、若敖(闘)氏の勢力を荘王が憂えると、イ賈はその意向を汲んで令尹の闘般(子揚)の罪状を見つけ出して誅殺した。が、闘般のいとこ・闘椒(子越)がこれに激怒し、イ賈を捕らえて殺した。
▼闘椒
若敖氏。イ賈を殺して荘王に反旗を翻すものの、皐滸という地で返り討ちにされて一族は滅んだ。彼の子は晋に逃げ、のちエン[焉+邑]陵の戦いで楚を破ることになる。その子というのが苗賁皇。
*楚の若敖~荘王あたりの系図あり



…や、やっと10人…(バタリ)。
# by huangque | 2005-12-22 03:24 | 本めも

『春秋名臣列伝』

『春秋名臣列伝』  宮城谷昌光  文春文庫  2008



春秋時代の名臣20人の事績が書いてあります。ちょっとだけでも春秋時代に踏み込んでみた方(てゆか自分/笑)でも「あっ、この名前聞いたことある!」という有名どころが何人もいます。教養としても読んでおいていいと思うし、宮城谷さんの他の作品にも登場した人物が多数いますので、そのフィードバックや裏話的要素としても楽しめると思います。


この本に出てくる20人は…国ごとにまとめてみます。字が出ない…(涙)。

【衛】: 石サク[石+昔]・キョ[艸+遽]伯玉
 (「艸」はくさかんむりということで…)
【鄭】: 祭足・子産
【斉】: 管仲・晏嬰
【晋】: 士イ[艸+為]・狐偃・郤缺(げきけつ)・巫臣・祁奚(きけい)・師曠
【秦】: 百里奚
【魯】: 臧孫達・臧孫辰
【楚】: 孫叔敖・巫臣
【宋】: 子罕(しかん)
【呉】: 季札・伍子胥・孫武

巫臣(屈巫とも言う)の名が楚と晋の二か所に出てくるのは、彼が楚に仕えた後、晋に行ったから。


自分は春秋時代についてはかなりの無知なので分からんことだらけなのですが(汗)、この頃の出来事や言行を記した文献を渉猟した宮城谷さんの推理は、春秋に詳しい方にとっては興味深いんじゃないかと思います。

でも、たいして春秋時代を知らなくても、聞いたことのある話もたくさん出てきました。「大義親を滅す」という言葉は衛の石サクのエピソードだったのか…! この石サクを見ていると、三国時代の呉の全琮とちょっと重なって見える。自分の息子が、正統ではない公子にやたらと接近するとか、さ…。

伍子胥や孫武は、知ってる方も多いのでは。伍子胥は、父兄の仇である楚という国に復讐し、楚の平王の屍を掘り起こして鞭打った…という、いわゆる「死屍に鞭打つ」話で知られてるし、孫武はかの兵法家・孫子のことで、呉王の後宮の女性たちを訓練して披露した話は聞いたことがある方も多いのではと思います。
自分の好きな三国時代にからめて言えば、子産と季札の親密な交わりは、周瑜・魯粛の二人の関係を例えるのに用いられているし、自分と険悪な人物でも客観的に評価して推挙した祁奚の話は、呂蒙伝や蒋欽伝にも引かれてます。

漢字一字一字について細かく調査してらっしゃる宮城谷さんは、漢字を使うにもこだわりがある様子で、敢えて見慣れない漢字を使っていることも多くて、内容は決して簡単ではないと思います。それに、春秋時代の人たちのものの考え方は、慣れてこないとよく理解できないものも多い感じがするので難しく感じます…。でも、ちょっと大変でも漢和辞典を片手に読んでみると、それだけでも勉強になると思います。
それに、系図などもいくつか書いて載せてくれてますので、ちょっとしたおさらいにも使えると思われます、うまく使えば…<うまく使えない奴

春秋時代は、宮城谷さんのおかげでけっこう親しみが持てるようになりました。他にも、春秋時代に近付くのに簡便な本ってないのかな…やっぱりこの時代は難しいので、ガイドっぽいものがないと自分はちょっとつらいのです(涙)。
…紹介らしい紹介ができずにすみません;;

あと、自分の備忘録的に、別に20人の簡単なメモを作ろうと思ってます。
# by huangque | 2005-12-22 03:23 | 本めも

『物語西遊記』

『物語西遊記』  魚返善雄(訳) 社会思想社 1967



古本屋で入手した文庫本。
魚返さんの『水滸伝』の訳が面白いと聞いていたので、『西遊記』の魚返訳を見つけて買ってみました。『西遊記』関連の本は持ってなかったので、ちょうどいいかな、と…。

前書きには、『西遊記』のごく簡単な成立史と、日本・欧米で出た『西遊記』の訳本についての簡単な説明などがある。魚返氏が『西遊記』を訳するに当たってのスタンスは、前書きの「ここに要約された原文は現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量であることを信ずる」という言葉に見える。簡略ではあるが、最低限の内容は盛り込んで訳してあると思う。

魚返訳のいいところは、まず本文を100回に分けているところ。
たぶん、原典に使った『西遊記』のテキストは『西遊真詮』というやつだと思われるのですが(これが一番メジャーな『西遊記』だと、随分前に平凡社の西遊記の解説か何かで読んだんだけど…超うろ覚えですすみません)、それが100回本なのです。その章回をそのまま残してあるのです。
この訳本自体は本当に簡略なのですが、原典『西遊記』の回分けと一致しているので、本書で気になった部分があれば、『西遊記』の全訳から比較的簡単に探し当てて、もっと詳しく知ることができるのです。たとえば本書の「六.二郎の化け方」の悟空と二郎神との化かし合いを詳しく知りたければ、全訳『西遊記』の第六回を見ればいい、という感じ。
簡略でありながら原典との対照もできるので、『西遊記』全体のあらすじが分かるとともに、備忘録的な使い方もできると思います。

もう一点いいところは、何といっても訳が面白い。あの軽妙な訳がたまらんです。古典の逐語訳なんかは、(訳す人にもよるのですが)物によってはものすごく読みづらくて…。この西遊記訳は逐語訳ではなく抄訳ですし、節回しがなんとも言えず面白くて…。サクッと読めます。

ただ…ちょっと訳しすぎかな、という印象もあって(笑)。分かりやすくするために、固有名詞的なものも訳してたり、別の分かりやすい言葉に置き換えてるところがあって…。赤脚大仙を「ハダシ仙人」とか、弼馬温をそのまま「馬屋番」、とか。原典に忠実に訳してある本と見比べるときにちょっと困惑しそうです。が、その点はもともと「現代日本人の教養と娯楽のために必要または十分な分量」を目指す本書が「必要または十分」から外れると見なした箇所かと思うので、そこまで求める自分が間違ってるかもしれません。

『西遊記』のあらすじを知りたければ、まずこの本を読んでおけばいいと思います。今では古本屋を探さないとないかもしれませんが…。

魚返さんの水滸伝訳も欲しいなぁ…(笑)。
# by huangque | 2005-12-22 03:22 | 本めも

『中国古代の民俗』

『中国古代の民俗』 白川静 講談社学術文庫 1980



一冊は白川さんの本を読んでおかないと…と思い、古本屋で見つけて買いました。
   …む、難しい!!!(笑)
白川さんといえば漢字学なんですが、もともとは『万葉集』も研究してらっしゃったんですよね…ずっと前にテレビで見た気がする。日本の古代歌謡である万葉と、中国の古代歌謡である『詩経』を比較しつつ論が展開します。引用してある『詩経』の文も難しいし、『万葉集』のことばも難しい。時々解釈を入れてくれますが、時々訳も解釈もなくて意味が取れず辟易しまくりです;;

内容は、本の裏表紙に説明してある通り。中国古代の民俗を明らかにするのが本書の目指すところで、その方法として、
・古代文字の構造から古代人の生活や思惟を考察
・古代歌謡としての詩篇(詩経など)の発想と表現手法から生活習俗を考察
・以上から考察できたものを、日本の民俗的事実と対応させつつ比較

以上三つの手法を通し、中国古代の民俗に迫っています。
ちなみに、本書中では、白川さんの前著である『中国古代の文化』に触れて、「これについては『中国古代の文化』で言及したので繰り返さない」と言って説明をスルーすることが幾度となくありますので(涙)、『文化』を読んでから『民俗』を読むのがいいのかもしれません…。ちなみに自分は『文化』は読んでません…。


白川さんの漢字解釈でいちばん印象的なのは、やはり「口」の解釈かと(第三章「言霊の思想」)。「口」を口耳のクチとするのが『説文解字』以来の解釈なのですが、白川さんは多くの甲骨文・金文を渉猟した結果、「口」を「サイ」と読み、祝詞を入れる器である、と新しい解釈を提供しています。

この理解に基づいて、「口(サイ)」が含まれた文字(告・言・吉…)や、「口(サイ)」の中の書物を開けた象形の「曰(エツ)」を含んだ文字(書・旨…)について解釈を加えています。この部分は、謎解きを見ているようで、難しいながらも面白い箇所でした。
たとえば「告」は、祝詞の入った「口(サイ)」の上に神木の枝を表す形象を乗せてサイが樹にかかっている形を表し、神に祝詞の内容を「告」げるさまを表すのだ、とか。


他にも、「詩の六義」(風・雅・頌・比・賦・興)のうち表現技法を言う比・賦・興のうちの興についての解釈も新鮮だったでしょうか。一般に、比=直喩、賦=直叙、興=暗喩 と理解されていますが、これについては諸説紛々らしく、今も昔も議論が絶えないとか。

白川さんの解釈では、「興」の字は「同(=同瑁を指す。酒器のこと)」を両手で捧げ持つ形で、聖所を清め地霊を招くために酒を地に注ぐカン【示+果】鬯(かんちょう)の礼の際、同で酒を注ぐ形。すなわち、「興」とは地霊を呼び起こすことだ、とのこと。詩の六義の一である「興」も、地霊を呼び起こし、その呪的な力を感受するための手法のことで、その地の地形や植生を詠み誉めることにより、その地の地霊の力を得ることができると考えられていたのではないか、とのこと。だと思います…すごく難しくてうまくまとまらぬ…(苦笑)。


他にも、『詩』などの古代歌謡に頻出するモチーフについての考察などは興味深いものでした。…読み通すだけで精一杯だったのでこれ以上まとめるのはしんどいのですが(…)、漢字や中国古代の風習について興味のある方は一読してみてもいいのではないかと思います。すみませんこんなまとめ方で…;;
# by huangque | 2005-12-22 03:21 | 本めも

黄雀楼の日記です。三国・春秋語りや無双ネタバレトークなどもあります。


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